03-05


 今日から夏休みだ、という気持ちが俺にもあったからだろうか。なんとなくそのまま帰る気になれず、商店街の本屋で漫画雑誌を立ち読みしたり、中古のCDを物色したりして時間を潰した。


 どうせ時間は余っているのだから、休み中だけでもどこかでバイトでもしたらいいかもしれない。気が向いたら、探してみるのもいいだろう。そう考えてから、自分でおかしくなった。何もする気になれなかったはずなのに、いつのまにかずいぶんましになっている。


 結局何も買わずに本屋を出てから、そういえば、とふと思い出し、去年よく通っていた団子屋に寄ってみることにした。


 腹が減っているわけではもちろんないし、どうしても団子を食べたいというわけではないけれど、まあ、今日から夏休みだ。紗雪に土産でも買っていけば喜ぶかもしれない。


 店に入ると、割烹着姿の女の人が迎え入れてくれた。


「いらっしゃいませ」


 と愛想よく言ってから、女の人は俺の顔を見て不思議そうに目を細めた。


「あら、あなた、久しぶりね」


 そう声をかけられて、思わず返事ができなかった。


「覚えてるんですか」


「そりゃ、一時期毎日みたいに来てもらってましたから」


 でも、話をしたことがあるわけでもない。天気の話くらいは、したかもしれないけど。てっきり、客の顔なんて覚えていないだろうと思い込んでいた。


「今日は彼女と一緒じゃないの?」


「……ええ、まあ」


「振られちゃった?」


 俺は苦笑した。


「お似合いだったのにね。仲よさそうだったし」


「……すみません、注文していいですか?」


「ああ、ごめんなさい。どうぞ」


 注文したものを受け取るとき、これはサービスね、と言って、女の人は袋にワッフルを入れてくれた。


「元気出してね。まあ若い頃はなんでも経験だから。早く新しい恋ができたらいいわね。あ、もしかしてもうしてる?」


 ありがとうございます、と俺は言った。







 帰りのバスに揺られて外の景色を眺めながら、今日のことを思い返していた。


 終業式が終わったあと、ケーキ屋に集合する前に、俺は一度部室に寄った。べつにたいした理由があったわけではない。ただ、一度東校舎の屋上の様子を見ておきたかったから、ついでに立ち寄っただけのことだった。

 鍵がかかっているだろうと思っていたから、ドアノブを捻ったのはほんの気まぐれだったのだが、扉は何のひっかかりもなく開いた。中には広瀬がいた。


 五月頃からずっと部室の隅に置きっぱなしになっていた白い箱を、彼女は机の上に載せていた。


「あれ、どうしたの?」


 まずいところを見られた、というふうに、彼女は自分のからだを俺と箱との間に挟み込み、視線を遮ろうとした。


「べつに。広瀬こそどうしたの? その箱も」


「あ、これは……」


 俺は広瀬の脇をすり抜けて箱に近付く。蓋は開けられていた。


 べつに、いまさら中身が気になったわけでもないけれど、箱を覗き込む。


 中には何枚かの写真が入っていた。


 トリケラトプスのフィギュア、色とりどりの折り紙、箱の中に入ったトカゲと蛇の模型、鶴を折る名越、パソコンに向かって真剣な表情をしている須川、パイプ椅子に座ったまま、机にもたれて居眠りをしている俺の写真、それから、須川が入部したときに、広瀬が無理やり撮った集合写真、プレゼントの箱を抱えて、織野が仕方なさそうな笑顔を浮かべている写真。


 そんなさまざまな写真を見て、俺は思わず言葉を失った。


「……えっと、怒った?」


「いや、べつに怒りはしないけど、いつのまにこんなの撮ってたの」


「矢崎くん以外にはちゃんと許可とったんだよ」


「なぜ俺だけ寝てるときだったの?」


「だって、矢崎くん写真嫌いでしょ?」


「なんで?」


「……ひさぎちゃんがそう言ってたから」


「……え?」


「違うの?」


「べつに、嫌いってわけじゃ……」


「でも、ひさぎちゃん、一枚も撮ったことないって」


「……」


「矢崎くん?」


「たしかに、撮らなかったけど、それはただ、機会がなかっただけで、べつに……」


 嘘だった。本当は、鏡も写真も、好きじゃない。


「篠原は、なんて言ってたの?」


「あ、べつに何か言ってたわけじゃないよ。『写真とかないの?』って訊いたら、撮ってないって、そう言ってただけで、わたしてっきり、矢崎くんがそういうの苦手なのかなって」


「どうして?」


「どうしてっていうか、ただの思いこみだけど……」


「本当に?」


「ひさぎちゃん、わたしとはけっこう写真撮りたがったから。ひょっとしたら、照れくさかったのかもね」


 広瀬は取り繕うように笑った。俺も合わせて笑おうとしたけれど、うまくいかない。


 写真。そんなこと、一言も言われたことがない。照れくさかった? そうかもしれないし、俺と写真を撮る気になんてならなかったのかもしれない。今となっては確認のしようもない。


 そのことについて、何か考えたいような気がしたけれど、そのときはやめた。


 きっと落ち込んでしまうだろう、嫌になってしまうだろう、うんざりするだろう、何もかも億劫になるだろう。目の前に広瀬がいたし、そのあとは部のみんなとも顔を合わせなきゃいけない。だったら俺は、当たり前の顔をしていなきゃいけない。話をしたりしているうちに、考えごとなんて忘れてしまうだろう。


「その写真、わざわざプリントアウトしてたのか? スマホで撮ったんだろ」


「まあ、そうだよ」


 広瀬は、照れたみたいに笑って、不思議がる俺に、いつかと同じような質問を繰り返した。


「この箱の中に、何が入ってると思う?」


「写真だろ?」


「ううん。これはね、『これまで』だよ」


 改めて、俺は箱の中の写真を眺める。広瀬や俺や名越や須川や織野の姿が映された数々の写真。言葉遊びだったのか、と俺は納得した。


 じゃあ、あのときのクイズの答え、あのとき、箱の中は、ただからっぽだったのではなくて、


「『これから』が入ってたんだな」


「うん。今は、『これまで』と、やっぱり『これから』が入ってるんだ」


 広瀬らしいと言えば広瀬らしい、と俺は思った。『これまで』と『これから』。なるほど。


 篠原は箱の中にいない。どの写真にも映っていない。


 ある意味、象徴的なのかもしれない、と、他人事のように思った。




 ◇




 ハッピーエンドの物語が好きなんだと、篠原は言っていた。


 それまで俺と篠原は、放課後の屋上以外の場所ではほとんど顔を合わせなかった。たまたま廊下ですれ違っても互いに知らんぷりをして、声を掛け合うこともしなかった。

 そんな関係に変化が起きたのは、七月の日差しが刺すように鋭くなって、屋上にいるのがつらくなったからだ。


 どこかに行こうか、と彼女は言った。俺も頷いた。


 高校を出てすぐの商店街の団子屋のテーブル席で、俺たちふたりはくだらない話をしてよく時間を潰した。


 どうしてそんな話になったのかは覚えていないけれど、ハッピーエンドの物語が好きだと、そう言ったときの篠原は、どこか照れくさそうにも見えた。


「そりゃ、幸せな物語の方が、楽しめるかもしれないけど」


 俺の答えに、篠原は首を横に振った。


「大事なのはね、幸せなまま物語が終わることだよ」


「どういうこと?」


「たとえば、シンデレラはガラスの靴で王子様と再会して、そのあとはお城でずっと幸せに暮らしました、めでたしめでたし、で、そこで終わるよね。そういうこと」


「どういうこと?」


「もし続きがあったら、シンデレラはずっと幸せなままだと思う?」


 俺はいまいち篠原の言うことが理解できなくて、首をかしげた。


「王子様とシンデレラが結婚して、ずっと末永く幸せに暮らせると思う? ひょっとしたら、王子様が素敵に見えたのは舞踏会の一瞬のことで、一緒に暮らしてみたら嫌なところがどんどん見えてくるかもしれない。お城での生活はシンデレラの価値観と違いすぎて、つらい思いをするかもしれない。幸せな暮らしが始まったとたんに、何かが起きて王子様が死んでしまうかもしれない。でも、そんな続きはどこにもないの。いつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ。そこで本を閉じればお話はおしまいだから。そこそこ幸せなページで物語が終わってくれたら、わたしはほっとするんだ」


「なんだか、考えすぎって気がするけど」


 そう答えると、篠原は少し寂しそうに笑った。


「誰かと一緒に過ごしたあとにひとりになると、寂しくならない? 賑やかな時間のあと、楽しかった時間のあと。お祭りが終わったあととか、誰かとはしゃいで遊んだ日の夜に眠る前とか」


「うん。わかると思う」


「あとになってつらくなるくらいなら、わたし、最初からなくてもいいかなって思った。だって、楽しければ楽しいほど、嬉しければ嬉しいほど、あとから余計に寂しくなるだけだから。だから、せめて物語だけでも、幸福なまま、賑やかなまま終わってほしい。幸せな瞬間でページをめくることをやめてしまえば、それはハッピーエンドでしょう?」


 その言葉に、俺はほんの少し違和感を覚えたけれど、どこがおかしいかはわからなかった。


「でも、ハッピーエンドの方が好きとは言ったけど、実はわたし、物語全般がちょっと苦手なんだよね」


「どうして?」


「だって、夢中になれば夢中になるほど、読み終えるときに寂しくなるから」


 そのときの篠原の言葉の意味が、今の俺には、なんとなくわかるような気がする。




 ◇


 


 家に帰ると沙雪がリビングでテレビを見ていた。ワイドショーでは濃い化粧をした太った女が、図太そうな口調で、若者の自殺について訳知り顔で語っていた。


 結局いまの若い人には、生きてるって実感みたいなものがないんじゃないのかしら。だから面倒なことがあればすぐに投げ出すし、苦労するくらいならやらなくてもいいっていう。そういう子をたくさん見かけるじゃないですか。わたしたちの若い頃なんて、苦労は買ってでもしろなんて言われて、ちょっと拗ねたことを言ってるとすぐ大人に怒鳴られた。そういう大人がいなくなってしまったから、子供たちがちょっとしたことで投げ出しちゃってもいいやって思っちゃうんじゃない?


 若い女性タレントが、そのことばを本当に聞いていたのか、脈絡があるような、ないようなコメントをつけくわえた。


 人間なんだから、やっぱり死にたいような気持ちになることって、誰にでもあるじゃないですか。わたしはひょっとしたら、自分だって一歩間違ったらそうなってたかもしれないって思うんですね。でもやっぱり、自分自身の悲しいこととか苦しかったこととかにだけ目が向いてるのって、なんだか恥ずかしいなって思ったんです。自分より大変な思いをしてる人たちが一生懸命がんばってるっていうのを知ったら、なんだか自分がただ甘えてるだけなんじゃないかって思えて、そういうふうに思ったら……。


 俺はテレビの電源を消した。そうして初めて気付いた、というふうに、紗雪が俺の顔をぼんやりと見上げる。


「おかえり」と紗雪は言った。


「ただいま」と俺は言った。


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