03-04


「ねえ、矢崎、ちょっといい?」


 広瀬と名越があっさりいなくなってから、須川は俺をそう呼び止めた。


「なに?」


 冷房の効いた店内から出ると、商店街は暑気にあてられて石畳すら火照っていた。ずっと立っていたら頭が変になりそうだ。


「矢崎、さっきからほとんど話してなかったから少し気になって。何考えてたのかなって。わたしの脚本のこと?」


「ああ、うん」


 べつに脚本のことだけを考えていたわけではなかったのだが、説明が面倒で頷いた。


「まあ、一応そういうことになる」


「矢崎はいつも持って回った言い方をするね」


 咎めるふうでもない何気ない言葉だったけれど、俺は少しだけ傷ついた。


「ごめん」


「あ、ううん。責めてるわけじゃなくて。ただ、矢崎がどう考えてるのか知りたいなって」


 どう考えているのかと聞かれても、俺にもよくわからなかった。


「佳代と名越くんはああ言ってくれたけど、でも、なんかふたりともどうでもよさそうにも見えたから」


 名越はくん付けなのか。どうして俺は呼び捨てなんだろう。やっぱり人徳だろうか。


「褒めてただろ」


「うん。そうなんだけど、『誰かに見せるわけじゃないから』このままでもいいって言われたみたいで」


 たしかに、そんなことを言っていた。どっちだったっけ。


「でも、わたしはできるだけ良くしていきたいって思うの。できたら、いろんな人が面白がってくれるようなものがいいなって」


「正直な感想を言うと、俺には内容がよくわからなかったな」


「……だよね」


 そこで、須川はまた少しだけ落ち込むような素振りを見せたが、一瞬のことだった。


「でも、名越と広瀬がああ言ってたんだから、たぶん俺の素養の問題なんだろうな」


「素養?」


「昔からそうなんだよ。俺の妹が映画好きで、たまに見てるのに付き合わされるんだけどさ、さっぱりわからないんだ。『チャイナタウン』とか、『水の中のナイフ』とか。知ってる?」


「あ、うん。一応」


「知ってるんだ。妹はそういうのが好きなんだけど、俺にはいつもよくわからない。つまらないとか、そういうわけじゃなくて、得体が知れないっていうのかな。何かが隠れてるような感じがするんだけど、何が隠れてるのかわからなくてすっきりしないっていうか……。うん、須川の脚本にも、似たような感想かな」


「わかりにくい、ってこと?」


「たぶん、そういうことなんだよな」


「そうなんだ。でも矢崎は、『チャイナタウン』好きそうだけど」


「嫌いとか苦手とかじゃなくて、なんだろう、たしかに好きといえば好きなんだけど、不安になるんだよ」


「不安?」


「俺は本当にその映画をちゃんと観ることができてるのかな、って」


 俺の言葉に、須川は考え込んだ。何か変なことを言ってしまっただろうか。


「矢崎が言うこと、わかるような気がする」


「そう?」


「うん。そういうこと、あるよね。でもわたしには、矢崎もそういう人間に見えるけど」


「俺が? どういう意味?」


「いや、なんとなく思っただけ」


 説明が面倒だったのか、須川はごまかすみたいに笑った。


「ねえ矢崎、このあと時間あるかな。ちょっと相談に乗ってほしいんだけど」


 その言葉に俺は戸惑った。べつに予定があるわけでもないし、相談があると言われれば乗るけれど、人選に誤りがある気がする。


「どうして俺? いちばん不向きだろ」


「ううん。きっと、佳代も名越くんも、もっと不向きだよ」


 須川に正面から見据えられて、俺は思わず目を泳がせた。


「たいしたこと言えないと思うよ」


「大丈夫だよ、素直な感想を言ってもらえれば」


 須川はそう言って俺の視線の先に回り込んできた。


「矢崎は矢崎の感じたことを信じてあげなよ」


 目から鱗が落ちるような一言だった。




 ◇




 とにかくどこかに入ろうよ、という話になって、俺たちは腹ごなしついでに近くのファミレスに行くことにした。終業式のあとだけあって、同じ学校の生徒の姿がちらほら見えたが、顔見知りはひとりもいない。

 テーブル席について、俺はカルボナーラを、須川は和風サラダを注文した。広瀬みたいに店員に話しかけたりはできなかった。


「矢崎は、わたしの脚本、よくわからなかったんだよね?」


 須川は注文を済ませてすぐ、話をそう切り出してきた。


「うん。悪いけど」


「それはいいの。正直な感想なんでしょ?」


「うん。まあ、そうなんだけど、でも、須川の脚本に限ったことじゃないんだよ」


「どういうこと?」


「たとえば、浦島太郎ってあるだろう」


「昔話の?」


「そう。ああいうのも俺、よくわからないんだ」


 浦島太郎はいじめられていた亀を助ける。彼はその亀に案内され、竜宮城で歓待を受ける。絢爛な暮らしを堪能したあと、彼がいざ帰るという段になると、竜宮城の主である乙姫は彼に「決して開けてはいけない」と言って玉手箱を授ける。そして浜に戻ると、地上では長い年月が経っていて、彼を知るものは一人残らずいなくなっていた。


 浦島が玉手箱を開けると、煙が噴き出し、それを浴びて彼は老人の姿になってしまう。


「たしかに不条理だよね、あれ」


「うん。意味がわからなくないか?」


 浦島が竜宮城に招待されたのは、亀を助けたからだ。そこで彼はたしかに良い思いをした。でも、その結果、彼を取り巻く世界は何もかも変わってしまっていた。


 乙姫が玉手箱を渡したのも謎だ。開けてはいけないというのなら、そもそもどうして乙姫は玉手箱を浦島に渡したのだろう?


「言われてみると、たしかに変な話かもね」


 須川がそう頷いたとき、店員がカルボナーラと和風サラダを持ってきた。


 ご注文は以上でおそろいでしょうか、と店員は訊ねてくる。


 はい、と俺は答えた。すべてそろっている。


 俺たちはそこで一端話を中断して、品物を食べることにした。


 以前までなら、人前で食事をとることにも抵抗を覚えたものだった。今ではそんなことはない。それはまちがいなく篠原と過ごしたおかげだろう。どこまでも慣れる生き物なのだ。


 サラダを食べる手をとめて、須川は思いついたように口を開いた。


「玉手箱は、知的好奇心が場合によっては後悔に結びつくってことのたとえだって聞いたことがある」


「鶴の恩返しとかもそうか」


「イザナギとかオルフェウスもそうだね。見るなのタブーって奴。聖書にもあったよね。妻が塩の柱になっちゃうの。似たようなので有名なのは、パンドラの箱かな」


「詳しいな」


 イザナギとオルフェウスは似たような話なので知っていたが、聖書の話は知らなかった。


「趣味ですから」と須川は照れくさそうに笑う。


「鶴の恩返しが一番近いかもね。善行をして、その結果良い思いをしたけれど、好奇心に負けて約束を破って後悔する」


「どうしてなんだろう?」


「戒めを破ったから、とかかな」


「でも、浦島太郎の場合、唐突な感じがしないか? 浦島太郎には選択の余地なんてほとんどなかった気がするんだよ。亀を見捨てればよかったのか?」


 彼女はまた考える素振りを見せて、サラダを食べ始めた。俺は水の入ったグラスにに口をつける。喉が渇いてしかたなかった。


「あるいは、亀の誘いを断ればよかったのかもね」


「というと、助けたあと、竜宮城にはいかず、家に帰ればよかったってこと?」


「ひょっとしたら、亀は浦島太郎に竜宮城について説明したのかもしれないよ。とてもきれいで楽しい場所ですよって」


「そうなると、甘い話に乗ったから痛い目を見たって話なのか?」


「やすやすと境界を越えてはいけないよ、って教訓なのかもね」


「竜宮城そのものが、浦島太郎にとっては玉手箱だったってことになるのかな。覗いてはいけない場所、知ろうとしてはいけないこと。竜宮城に行った時点で手遅れだった」


「うん。どうかな。あの話の結末はどこか絶望的な印象があるよね。無理やりこじつけると、刹那的な快楽にふけって外のことを忘れていると、苦い後悔が残るってことかも」


「でも、亀はお礼をするつもりだったんだろ? それじゃあまるで詐欺みたいじゃないか?」


「価値観が違うんだと思う」と須川は言う。


「亀も乙姫もすごく長生きなんじゃない? だから時間の経過なんてたいしたことじゃないんだよ。そういう相手と一緒にいると、たしかに楽しいけど、なにひとつできないままいろんなことが過ぎてしまう。『友人は選びましょう』って教訓かもね」


「友人は選びましょう、か」


「矢崎はどう?」


「なにが?」


「竜宮城で束の間の楽しい時間を過ごすのと、竜宮城を見ないまま当たり前の日々を過ごすのと、どっちがいい?」


 俺は答えに窮した。浦島は後悔したのだろうか。そういえば、あの話の結末では、浦島がそのあと悲嘆に暮れたのか、他のことを考えたのか、はっきりとしていなかった気がする。俺は少し考えてから、須川の質問に答えを返す。


「竜宮城に行っても、竜宮城に行かなくても、後悔しそうだな」


「どうして?」


「竜宮城に行って、帰ってきたらすべてが変わっていた、となったら、後悔すると思う。その失った時間で何かできたはずじゃないか、と考えちゃいそうだ」


 そこまで言ってから、少し間違えたような気分になった。ひょっとしたら、何もかもが変わってしまったら、俺は少しうれしいんじゃないだろうか。なにもかもから、解放されたような気がして。でもたぶん、それも一時の錯覚で終わるような気がする。


「行かなかったら?」と須川は質問を続ける。


「きっと後悔すると思う。ひょっとしたらそこには、俺が想像している以上の何かがあったかもしれない。それを知る機会があったのに、二度とそのチャンスは訪れない。そうなったら、うん、きっと、ずっと後悔するだろうな」


「むずかしい話になってきたね」


 俺達はそこで一旦話をやめて、食べるのに集中しはじめた。カルボナーラは少し冷めかけている。どうしてこの暑いのに、あたたかいパスタなんて頼んでしまったのか、と少しだけ後悔が生まれた。


 食事を終えて皿を脇に寄せてから、須川が思い出したように口を開いた。


「タブーを破って罰を受けるっていえば、そういえば有名なのがひとつあるね」


「なに?」


「アダムとイブ」


 何気ない口調で、須川はそう言った。


「それも俺にはよくわからないんだよな」


「昔話とか神話とか、そういうのって象徴的だもんね。はっきりとした解釈なんてないんじゃない? アダムとイブが知恵の実をかじって知ったのは愛だっていう人もいるし、羞恥だって人もいる。そもそも『善悪を知る実』だっていうのも聞いたことがあるし、フロイトをかじった人なら『蛇は性の隠喩で、ふたりはセックスをした』っていうかもしれない。実際、罪を犯したふたりに対して、神様は楽園から追放するのと同時に、アダムには労働の、イブには出産の苦しみを課したんじゃなかったかな」


「本当に詳しいな」


「ウィキペディアとか見てるのが好きだって言わなかったっけ? 気になるといろいろ調べちゃうから」


 そういえば、そんなことを言っていた。すっかり忘れていた。


「あとは、知恵の実で、ふたりは『裸であること』を知った、って解釈もあったと思う」


「裸であること?」


「うん。最初はイチジクの葉で体を隠すんだけど、それはすぐにしおれてしまう。だから神様はふたりに皮の服を作ってあげるの。その服なら長く身を隠していられるんだけど、それを用意するためには、生きた動物を殺して皮を剥がなければならない」


「ああ、原罪っぽい」


「どれも原罪っぽいよね。……何の話してたんだっけ?」


 あちこちに話が飛びすぎて、よくわからなくなってきた。


「……ちなみに、須川は、アダムとイブが知ってしまったことってなんだと思う?」


 須川は少し考えるような間を置いてから、はっきりとした声で言った。


「恋かな」


「恋? 愛じゃなくて?」


「恋は欲望」


「愛は欲望じゃないの?」


「まあ、言葉に対するイメージの違いはあるかもしれないけど、わたしは愛って欲ではないと思うから」


「じゃあ、欲を知ったってことか」


「欲が孕むと罪を生み、罪が熟すると死を生む」


「……なにそれ?」


「なんだったかな。聖書関係だと思ったけど……。えっと、何の話だったっけ? そう、浦島太郎だ。そういえば、あの話の結末にもバリエーションがあるんだよね」


「どんなの?」


「玉手箱を開けた浦島は、鶴の姿の神様になって、乙姫は亀の姿の神様になって、神様の国で夫婦になるって話」


「……なんか、こじつけっぽくない? どうして亀を助けただけで鶴の神様になるんだ?」


「そういう言い方をするとそうかもね。まあ、昔話だし」


 あるいは、知恵の実が何かの暗喩であるように、鶴というのも何かのたとえなのだろうか。


 鶴といわれて、俺が連想したのは名越の折り鶴だった。祈り。でも、浦島太郎と折り鶴なら、折り鶴の方が歴史が浅そうだ。


「そもそも、教訓とかテーマとかをすくい上げようとする方が間違いなのかもしれないよ」


「どういう意味?」


「それはただ、そういうことがありましたとさ、っていうだけの話なのかも」


 まだその方が理解できるかもしれないな、と俺は思った。


「そういえば、昔話なら、ひとつ好きなのがあるんだ」


「どの話?」


「わらしべ長者」


「……」


「あ、いまわたしのこと金の亡者って思ったでしょ」


「宝くじとか買ってそう」


「べつに棚からぼたもち狙ってるわけじゃないよ。あの話、いいと思うんだよね」


 俺はグラスの水を飲み切ってから、ふと思い出した。


「俺たち、何か話すことがあってここに来たんじゃなかったっけ?」


「……なんだったっけ?」


 結局、思い出せないまま、俺と須川は店を出て別れた。


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