◇[Casket:01]

03-01


 桐島がボランティア部の部室に久々に顔を出したのは、試験が終わり夏休みが目前に迫った七月下旬のことだった。彼は須川の存在に気付いて彼女のことを不思議そうに眺めたあと、すぐに興味を失ったように視線を外した。


 誰かに何かの用事でもあったのかと思って様子を見ていたが、どうやらそういうわけでもないらしく、桐島は窓際にパイプ椅子をおいて座ると、何も言わずにイヤフォンを耳につけて本を読み始めた。

 そこまで見届けてから、広瀬はクロスワードパズルを、名越は鶴を折るのを再開した。


 俺は名越が鶴を折る様子を何とはなしに眺めていた。彼の手つきは実に丁寧で慎重だった。力を籠めすぎれば、あるいは力が弱すぎれば、紙に宿った何か魂のようなものが欠けてしまうとでもいうみたいに、神経をとがらせ、細心の注意を払っているように見えた。それはある種の敬意のように見えないこともなかった。何かに没頭し集中する人を見るのは、不思議と退屈しない。


 戸惑った声をあげたのは須川だった。


「えっと、誰?」


 そう言われて初めて、俺は須川と桐島が初めて会ったのだということに気付いた。


「桐島遥」と名前だけで答える。それ以上のことは、俺も知らない。


「はるか」と須川は繰り返し、「女の子みたいな名前」と呟いた。悪気のない率直な感想だったのだろう。


「聞こえてるぞ」


 桐島はそう言ってからイヤフォンを気だるげに外し、うっとうしそうに溜息をつく。須川は気まずそうに眉を寄せた。


「ごめん」


「慣れてる。慣れてはいても愉快じゃないけど」


「ごめんね」


「おまえは?」


 謝罪の言葉には無反応のまま、須川の方を見ようともせずに、桐島は訊ねた。


「えっと、須川小鳩。いちおう、先月から入部してたんだけど」


「須川小鳩」と今度は桐島が繰り返した。


「知ってる名前だな。演劇部だったろ」


「どうして知ってるの?」


「どうして知ってるんだったかな。誰かに聞いたんだろうけど」


 須川は俺と広瀬を交互に見た。どちらかが喋ったと思ったのだろうが、俺も広瀬もわざわざ桐島にそんな話をしたりはしない。名越が疑われないのは、人徳というやつなのか。


「演劇部クビになったんだろ。先輩と揉めて」


「クビってわけじゃ」


「じゃあ退部勧告か? 似たようなもんだろ」


 須川は助けを求めるように広瀬の方を見た。こいつはいったいなんなのか、という顔をしている。広瀬は困り顔をするだけだった。


「そんなんじゃない」


 須川は、悔しそうな顔でそう言った。須川と桐島の相性も、あんまりよくはないらしい。放っておくと桐島は他人の痛いところを愉快そうにつっつき続ける。ほどほどでかわすのがいいのだが、その対応を初対面の人間に求めるのは酷というものだろう。


「桐島、今日は暇なのか」


「矢崎。いま俺と須川が話してるんだ。割って入るな」


 助け船を出そうと思っての言葉だったが、あまりにあからさますぎたのか、桐島は相手にしてくれなかった。そう言われては手も足も出ない。


「そうだ思い出した。クラスに演劇部の奴がいるんだ。そいつが話してた。須川小鳩って奴が先輩に食って掛かったんだって。そうだったそうだった。もともと知識があるのを鼻にかけてて部でも浮いてたって。先輩たちに嫌われてたんだって。ほとんど追い出されるみたいに退部していったって、そう言ってたよそういえば。ああなるほどね、おまえがそうなのか」


「桐島」


「静かにしてくれよ矢崎。なあそうなんだろ。おまえが須川小鳩なんだろ」


「やめろって」


「そうだよ」と須川が言った。


「わたしがその須川小鳩」


 須川は顔をあげ、桐島の顔をまっすぐに見た。その表情を見て、俺は須川が初めて部室にきたときのことを思い出した。あのときも、こいつはこういう顔をしていた。


「それが事実なら何なの?」


 須川の表情に、桐島は珍しく面食らった顔になったが、それも一瞬のことで、すぐにいつものような冷たい笑みを浮かべた。


「べつに何にもないよ。興味本位だな」


「そうなんだ。悪趣味だね、遥ちゃん」


 うわ、と思わず声が出た。桐島は目を細めて須川を睨む。俺が広瀬の方を見ると、彼女も俺の方を見ていた。


 知らなかったとはいえ、須川に非がないとは言えない。桐島は名前のことを言われるのを一番嫌がる。一度目は過失だったとはいえ、二度目はあきらかに故意だ。こうなったら俺たちの責任じゃない。

 一年の頃、桐島の名前をからかった奴が三人いた。そのうち二人は停学になり、一人は退学になった。具体的に何が起きたのか知っているわけじゃないし、桐島が関わっているという証拠もない。それが何かも、どうやったのかもわからないが、「桐島ならやりかねない」と俺は思った。


「脚本志望だったんだってな」


「……」


「ろくなもん書けないくせにやりたがるから疎まれたんだろう」


 今度は須川が桐島を睨む番だった。桐島もまた、その視線をまっすぐに受け止めていた。根負けしたのは須川の方だった。


 興が削がれたというふうに、桐島が立ち上がる。どうやらこれ以上続ける気はないらしい。本を鞄にしまう途中で、ページの間から何かが落ちた。ひらひらと舞いながら、それは須川の足元に落ちた。栞のような何かの紙片。彼女はそれを拾い上げると、さっきまでのやりとりなんか忘れたみたいに驚いた顔になった。


「これ……」


「返せ」


「ねえ、これって」


「返せよ」


 鋭い声をあげて、桐島は須川の手からひったくるように紙片を奪った。そんな桐島を俺は初めて見た。怒るときでさえ、彼はほとんど感情を表に出さない。さっき須川にそうしたのと同じように、何でもないような顔で反撃するだけだ。そんな彼が声を荒げるなんて、めったにあることじゃない。


「ねえ、それ」


 なおも何かを言いたげにする須川に、一言「黙れ」とだけ言うと、桐島は荷物をもって部室を出て行った。何が起きたのかよくわからなかったが、桐島は逃げたみたいに見えた。


 怒りも忘れて茫然とした様子の須川が、しばらくあとに小さな呟きを漏らした。


「シシリー・バーカーだった」


「は?」


「フラワーフェアリーカード。知らない?」


「なにそれ」


「知らないよね、普通。どうして桐島くん、あんなのもの持ってるんだろ」


「よくわからないけど、たまたま栞代わりにしてただけだろ」


「ずっと昔にチョコレートのおまけとしてついてきたカードなんだよ」


 須川は興奮した様子でそう言った。その言葉で、俺もようやく彼女の驚きの理由がわかった気がした。少なくとも、どこにでもあるようなものではないらしい。


 須川はしばらく何かを考えるようにじっとしていた。


 そのうち静かに「やっぱり遥ちゃんって呼ぼう」と不穏なことを言い出す。


「やめとけよ。桐島はそういうの嫌がるから」


「だって、あっちだってわたしの嫌がることしてきたもん」


「ハンムラビかよ。あいつは怒らせない方がいいと思うけど」


「わたしだって怒らせない方がいいよ」


 自分で言うくらいだから、本当にそうなのかもしれない。まあ、俺がどうこう言うことでもなさそうだ。


 須川は短く溜息をついて、机の上に置きっぱなしのノートパソコンに視線を戻した。彼女は入部してからずっと、ノートパソコンを持ち込んでずっと何か文章を打ち続けている。


 いままで訊ねたことはなかったけれど、ふと思いついたことを口に出す。


「それ、ひょっとして脚本?」


 須川は指先の動きをぴたりと止めた。


「あー……まあ、うん」


 気まずげに頬をかきながら、ごまかし笑いを浮かべる。少し迷った素振りを見せてから、小さく溜め息をついて、「べつに聞いてもらえなくてもかまわないんだけど」というような不思議な表情で、須川は話し始めた。


「さっき言われたこと、半分くらいは本当なんだよね。わたし、演劇の脚本がやりたくて、でも、演劇部の人は、脚本ってものをあんまり重要だと思ってなかったみたい。それで意見が食い違うことが多くて……先輩たちにしたら、鬱陶しかったのは本当なんだと思う。段々、相手にしてもらえなくなって」


「追い出された?」


「ううん。うん。どうなんだろう。わたしが自分から辞めたんだけど」


 須川自身も、よくわかっていないのかもしれない。彼女は眉を寄せて口だけで微笑をつくった。無理をしているように見えた。


「人形劇っていうのは……」


「あはは」


 須川はわざとらしく笑った。あんまり突っ込まれたくないことらしい。


「……頭に血が昇ってたんだろうね。脚本を書いて、劇ができるなら、べつに演劇部じゃなくてもいいって、そう思って。それで探したら、ボランティア部があって。ほら、いろんなところでそういうことをやるボランティアってあるじゃない?」


「……なるほど」


 広瀬が納得したように漏らした声と同じような感想を、俺も抱いた。そういう背景を知ると彼女がこの部に入部したのも理解できる。そんな気もした。


「まあ、でもやれないって言うし、だったらちょっと、ひとりでいろいろ考えてみようかな、って」


 須川はそう言ってノートパソコンの画面に目を向けた。


「さっき言われたこと。ろくなもの書けないくせに脚本志望だったって。……あれ、本当なんだよね。先輩たちに見せたら、つまらないって。だから、悔しくて、逃げてきたのもあるんだと思う」


「つまんないの?」


 とっさに訊ねると、須川は首をかしげた。


「ひとりよがりで面白くないって。演劇はおまえが自己表現をする場じゃないって」


「さんざん言われたな」


「さんざん言われたんだ」


 須川は強がるみたいに笑ったけれど、俺はそれをおかしいとは思わなかったので、べつに笑ったりはしなかった。広瀬も名越もそうだったと思う。


 俺はなんとなく質問を重ねた。脚本を書こうなんていう奴に会ったことがなかったので、純粋に興味があったのだ。


「自分でもつまらないと思う?」


「どうかな。そんなことないとも思うし、やっぱり、人が見たらつまらないのかもしれないとも思う」


「良いこと考えた」


 と広瀬が唐突に声をあげて立ち上がった。ユリイカ、とでも言い出しそうな勢いで。彼女は俺たちの顔をゆっくりと見回してから、悪戯っぽく笑う。


「人形劇をやろう」


 それがまさに最良の思いつきであるかのように、広瀬は言った。須川はあっけにとられた顔をしてから、不安げに目をそらした。


「本気で言ってるの?」


「もともとは小鳩が言い出したことでしょう?」


「そうだけど、でもやらないって」


「気が変わった。ね、どうかな。矢崎くん?」


「なんで俺に訊く?」


「みんなでやろうよ」


 それが当然でしょ、という顔で広瀬が言うので、俺は困ってしまった。


「俺は構わないよ」と言ったのは名越だった。


「他に何かやることがあるわけでもないし、簡単なものなら手間もかからないだろう」


「でも、やろうって言ったって発表する場もないし」


「そこらへんはあとで考えればいいよ」


 広瀬はあっさりそう言った。やろう、というよりは、つくろう、ということなのだろう。


「……まあ、作るだけなら、俺だって手伝わないとは言わないけど」


 名越の言うとおり、他にやることがあるわけでもない。広瀬は最後に須川に訊ねた。


「どうかな、小鳩」


 須川は困り顔のままだったが、「ね」と広瀬がダメ押しすると。何も言わずに頷いた。


「じゃあ、夏休みの活動目標はそれだね」


 そうして俺たちは人形劇をつくることになった。


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