03-02


 具体的にどういう内容にするか(人形をどういうものにするのか、舞台をどのくらいの大きさにするのか、脚本の規模はどうなのか)ということについては、あとで意見をまとめることになった。須川の書く脚本の中身に興味はあったから、まったくやる気が湧かないというわけでもない。


 おかしなことになったものだ。最初は断ったし、須川もそれで納得していたのに、結局広瀬が言い出して、人形劇をすることになるなんて。


 そのことに不満があったわけではないけれど、その日は早めに帰ることにした。家に帰ってしたいことがあるわけではないが、なんとなく部室にいるのが落ち着かなかった。帰りのバスに乗っているあいだは、いつも益体のない考え事に浸ってしまう。

 いつのまにか、須川もすっかり部室に居て当たり前のような存在になっていた。最初の頃は一時的な客人みたいに思っていたのに。

 それはなんだってそうなのかもしれない。劇的な変化なんていうものは稀で、さまざまなものは、時間の積み重ねによって徐々に、緩やかに変化していくものなのだろう。


 俺自身だってそうだ。いろんなことを思い出してなかなか寝付けず、夜中に何度も起き出してしまうことが、ついこの間までしょっちゅうあった。それなのに、いつのまにかそんなこともなくなって、何の不便も感じずに眠れるようになっていた。ときどき夢を見てつらくなったりはするけれど、それくらいだ。




 ◇




 たとえば昨日は、むかし家の近所にあった大型スーパーに行く夢を見た。


 俺の家の周りには、田畑以外にはろくなものがなかった。唯一近場にある遊び場がその店だった。ただのスーパーじゃない。いくつものテナントがそろったモール型で、生鮮食品や生活用品を扱う売り場のほかに、本屋やゲームショップ、服屋や雑貨屋、有名チェーンの飲食店やゲームセンターまであった。


 当時はそこにいけば約束もなしに友達に会えた。いつも賑やかで、土日になると人がごったがえして歩くのにも苦労した。

 でも、それは在りし日のことだ。そんなど田舎にも郊外型ショッピングモールの波が押し寄せた。雨後の筍もかくやというスピードで、新進気鋭の大型店はそこここに立ち並び、かつては隆盛を誇ったその店が、次第に見向きもされなくなっていった。より新しく、より洗練され、より利便性に富み、より充実した店の方に、人々の思いは傾いていき、誰もが潮が引くようにいなくなった。


 客の確保がむずかしくなったテナントは、ひとつまたひとつと減っていき、そのたびにまた客が減った。経営不振に陥ったその店にとどめを差したのは地震だ。建物のあちこちがやられたのに、それを修繕するための費用を経営者は用意できなかった。そのようにして旧都は滅んだ。


 今でもそこに残っているのは、冴えないボーリング場とパチンコ屋、競馬の場外馬券場くらいだ。かつての姿を知る者には、その光景はひとつの世界の終りを感じさせる。


 かつてこの店に集っていた人々は、今ではバラバラの場所で買い物をしている。あの頃のように集まることなんてもう二度とないだろう。発売日の前日にゲームを売ってくれたゲームショップの店長。食品売り場で働いていた友達の母親。子供の頃、揉み合うような初売りの人混みのなか、家族とはぐれた同士で出会った、当時好意を寄せていた女の子。


 もうみんなどこにもいない。なくなってしまった。


 みんなどこへいったんだ?


 わからない。


 そんな「かつてあったひとつの世界」のなかを、夢の中で俺は篠原と一緒に歩いていた。


「ヴィオラがほしいの」と彼女は言った。俺と彼女は手を繋いでいた。広い通路、高い天井、立ち並ぶテナント。賑わっているわけではなかったが、人の姿はそこそこあったはずだ。


 夢の中の俺は「ヴィオラ」というのを花の苗のことだと思っていた。それなのに篠原は入口から入ってすぐの場所にあるディスカウントショップへと向かった(そんなものは実際のあの店にはなかった)。そして、棚の上に飾りもののように置かれていた弦楽器のヴィオラを指差した。値札はすぐ傍にあった。六千円。


 俺は頷いて、背伸びして棚の上に手を伸ばし、ヴィオラを掴んだ。ずいぶんぼろぼろだったが、それでも音を鳴らすことはできそうな代物だ。


 俺はレジに向かい、愛想のいい中年の女の人にヴィオラを差し出す。「いらっしゃいませ」と彼女は言って、ヴィオラの首に巻き付けられていたタグのバーコードを読んだ。やはり六千円だった。


 彼女はヴィオラを裸のまま大きめのビニール袋に詰め込み、俺に「アプリコットはどうしますか?」と訊ねた。俺はアプリコットというのが何のことだかわからなかった。そして訊ねてみた。


「アプリコットって?」


 彼女は「そんなことも知らないのにヴィオラを買うのか」と言わんばかりに呆れた溜め息をつくと、「じゃあ五枚か十枚つけておきますね」とそっけなく言ってビニール袋に白い布切れを放り込んだ。どうやらそれがアプリコットらしかった。


 彼女がそうしている間に店の奥の様子を覗くと、休憩所のようになっていて、何人かの老人が集まって楽器の手入れをしていた。


 テーブルの上に丈夫そうな楽器ケースがいくつか開かれたまま置かれていて、その傍にはさっき見た「アプリコット」が置かれていた。ああ、みんなアプリコットが何かということをわかっているんだ。知らないのは俺だけなんだ。そう思った。


 俺がレジを去るとき、店員は何も言ってくれなかった。篠原のもとに戻ると、彼女は何も言わずに笑いかけてきた。俺の手からヴィオラの入ったビニール袋を受け取ると、反対の手のひらで俺の手を握った。


「ありがとう」と彼女は言った。


 所詮それは夢の中の出来事にすぎない。


 目を覚ましたあとも夢の記憶がはっきりしていたので、何度もその意味を理解しようとしたが、なにひとつわからなかった。どうして篠原と俺は、あの店の中を歩いていたのか、篠原はなぜヴィオラをほしがっていたのか、アプリコットとは結局なんなのか。なにもかもわからなかった。


 アプリコットなんて言葉、ヴィオラについていくら調べても出てこなかった。きっと、俺の脳が勝手に作り上げたものだったのだろう。夢というのはそういうものらしい。脈絡がなく唐突で、悪趣味だ。


 目をさましたあと、しばらく余韻に浸って天井を見つめていた。少ししてから、その夢の続きを見ようと思いつき、二度寝をしようと思った。その試みは失敗に終わり、夢の続きは分からずじまいだ。たぶん、これから先ずっとわからないままだろう。


 バスの車窓から見える風景を眺めてみる。去年の夏、俺と篠原はこの道を並んで歩いていたのだ。どこに向かうでもなく、ただ街の中をふたりで歩き回っていた。どこかに辿り着けるなんて思ってもいなかったし、いつまでも一緒にいられるかどうかなんて考えもしなかった。


 彼女は俺の手を握って、俺は彼女の手を握っていた。そのとき俺は何か満たされたような気分になった。彼女が楽しそうに笑うのを見て、何かを手に入れたような錯覚さえ覚えた。でもそれは去年のことだ。








 家につくと、また紗雪がリビングのソファに寝そべって休んでいた。「ただいま」と声をかけてみたけれど、やはり返事はない。ソファのすぐ脇には、紗雪がいつも飲んでいる薬がコップと一緒に置かれていた。


 子供のころに一度、紗雪はてんかんの発作を起こしたことがあった。


 そのときのことは今でもぼんやりと覚えている。真夜中のことだった。母の隣で眠っていた紗雪が、突然手足を痙攣させて泡を吹き始めた。その光景だけが印象に残っていて、あとの記憶は断片的だ。両親の慌てた声、救急車のサイレン。


 翌朝目をさましたとき、俺はてっきりすべてが夢だったのだと思った。でも、家には母と紗雪の姿がなく、俺は父の用意した朝食を食べた。そうして何事もなかったように学校に向かった。そういう記憶だ。




 ◇




 それからというもの、紗雪は毎朝、毎晩、薬を欠かさず飲んでいる。


 一度なんて泣きながら嫌がったものだった。

 どうしてわたしは毎日薬を飲まなきゃいけないの? どうしてわたしだけ?


 母の返事はこうだった。


 でもね、薬を飲むだけじゃ済まなかった子だっているのよ。あなただけじゃないのよ。


 その言葉は間違いではなかったが、的外れでもあった。


 紗雪が発作を起こしたのは一度きりのことで、何かの後遺症が残ったわけでもない。たしかに、紗雪よりもひどい症状の子もいただろう。それは事実だ。


 でも、それが何かの救いになるだろうか? あの子だってがんばってるんだから、とか、あの子よりはマシだった、とか、そんなふうに思えるだろうか? 


 だって、少なくとも、俺も父も母もそんな薬は飲んでいなかったのだ。自分より苦しんでいる見ず知らずの他人より、自分より苦しんでいないように見える目の前の誰かを羨んでしまうのは、当然のことじゃないか?


 朝夕に飲む薬には眠気を誘発する副作用があった。発作は一度しか起きていないとはいえ、定期的に病院に行き、脳波検査と診察を受ける必要があった。また発作が起きれば、危険がないとは言い切れないし、もしこのまま発作が二度と起きなかったとしても、下手をすれば自動車免許の取得に支障が出る。


 でも、紗雪にとってそれは日常だった。薬を飲むのを面倒がって駄々をこねたのだって、たぶん、虫の居所が悪かっただけだったんだと思う。


 どうしてわたしだけ、と紗雪が言ったのは一度きりだ。


 どうしてこの子が、と母は何度も思っただろう。ありもしない原因を求めて、自分を責めたりもしたかもしれない。少なくとも紗雪の症状は、最悪ではなかった。そして、薬を欠かさず飲みさえすれば、ふたたび発作に襲われることもない、かもしれない。でも、最悪ではないということが、紗雪の慰めになっただろうか?


 一度、紗雪が脳波検査の様子について教えてくれたことがある。


 パソコンの並ぶ部屋で、白衣を着た人々が、機械をいじったり、何かを運んだり、せわしなく動き回ったりしている。その部屋の右手にある扉の向こうが、脳波室だ。


 ――扉はとても分厚くて、わたしの力じゃ開けることもできないの。


 その扉の向こうには、何かの機械と、絵本とぬいぐるみの入ったおもちゃ箱、それから白いシーツの敷かれたベッドがある。


「部屋に入ると椅子に座らせられて、白衣を着た女の人が、機械から伸びたコードの先を、わたしの頭に貼り付けていくの。最初はクリームみたいなものを塗られて、留めるときはビニールテープみたいなのをつかって、頭のあちこちとか、手の甲のあたりにも、たくさん。それが終わったら、わたしはベッドに横になって、女の人は部屋の外に出ていくの。そうして、すうって部屋の灯りがゆっくりと消えていく。扉が閉まって、真っ暗になる。機械が喋るみたいなアナウンスが聞こえて、目を閉じて深呼吸をしたり、光を目の近くであてられたり、そのなかで目を開けたり閉じたりして……それで、そのあと眠らなきゃいけないの」


 真っ暗な部屋にひとりきりで残されて、よくわからない指示に従って、最後には眠らなきゃいけない。閉じ込めるように分厚い扉、薬の匂いのするシーツ。


「眠らないと検査が終わらないんだ。だから子供が検査を受けると、どうしてもうまくいかないときがあるんだって。そういうときは、睡眠導入剤をつかうこともあるんだって言ってた」


 眠れなければ眠れないほど、検査は長引く。そのあいだずっと、母は待合室で紗雪のことを待っている。


 ときどき俺は、そのときのふたりの気持ちを想像してみる。


 ひとつの箱のような部屋。その中にいる紗雪。それを外から眺めている母。


 いくら考えみても、俺にはなんにもわからない。ひょっとしたら、わかろうとすること自体、間違っているのかもしれない。



 両親の帰りは今日も遅かったので、紗雪とふたりで夕飯を食べることにした。紗雪の生活リズムはぼろぼろなのに、夕飯の時間は一緒だというのは、考えてみれば不思議な気がした。


 夕飯は、面倒だったからパスタにした。紗雪はやっぱり何の文句も言わなかった。


「お兄ちゃん、何かあったの?」


 食事中、突然そう訊ねられて、俺は困った。紗雪はフォークでくるくるとカルボナーラを巻取りながら、不思議そうにこちらを見ている。


「何かって?」


「なんかだるそう。風邪でも引いたの?」


「べつに、そういうわけじゃないと思う」


 心配されているのだろうか。少し意外な気がした。それ以上気にされるのも面倒だから、話を変えることにした。


「部活で人形劇をやることになったんだ」


「人形劇?」


「まあ、割り箸に紙で書いたキャラクターを貼り付けて動かすような、簡単な奴だろうけど」


「不思議」


「なにが?」


「お兄ちゃんと人形劇っていう組み合わせ」


 自分でもそう思う。どう考えても柄じゃない。


「でも、お兄ちゃんらしいって言えば、らしいのかもね」


「……どういう意味?」


「ん。謝肉祭とか、流し雛とか?」


 何を言っているのかさっぱりわからない。


 紗雪がこういう妙な知識を変なタイミングで持ち出すことは、よくあることだ。べつにひけらかすつもりでもないらしく、詳しい説明を続けることもない。こっちは置いてきぼりだ。べつに興味があるわけでもないけれど。


「人形劇にかぎらず、物語って、そういうものなのかもね」


 物語。そんなに大袈裟な話だろうか? よくわからなくて返事をせずにいたら、紗雪もそれ以上は何も言わずに食べるのを再開した。


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