02-03


 その日の帰りは遅くなった。あれこれ考え事をしているうちに須川と名越は帰ってしまい、俺は珍しく下校時間まで残るはめになった。広瀬が鍵をかけるのに付き合うのも久々だった。


「矢崎くん、このあと暇?」


「暇、っていえば、まあ……」


 暇、なのかもしれない。夕飯をつくったりしなければいけないが、紗雪は腹をすかせれば自分で適当なものをつくって食べるだろうし、両親の帰りは遅い。だったらべつに、多少遅くなってもかまわないわけだ。


「織野先生の誕生日プレゼント、買っていこうと思って。付き合ってくれない?」


「結局用意するのか」


「うん」


「何にする?」


「原稿用紙とボールペン」


 本気かよ、と思ったが、俺は何も言わないことにした。文士崩れ、という須川の推測は少し飛躍していたし、信憑性は薄い。それでも、外れたところで誰も損はしないし、当たったところでまずいことなんて何にもない。広瀬がそうしたいのなら、好きにすればいい、と思った。


 ただなんとなく、妙な罪悪感がある。


 俺たちは高校の傍にある商店街のアーケードを素通りして、そのまま道路沿いに歩いていった。


 どれだけ言い繕ったところで、俺たちの暮らすこの街は田舎だ。どこにでもあるような郊外型のショッピングセンターを除いたら、大きな建物なんてパチンコ屋くらいしかないんじゃないかっていうくらいに。そしてそのショッピングセンターのせいで、商店街の店はいくつか潰れて、全体としての印象は余計に寂れていく。それでも客は大きな店の方に流れていく。


 なにせ安いし品揃えがよく、一度にたくさんの用事を済ませられる。不思議なことに、そうなってからどんどんファミレスやコンビニが増えていき、新しい家が建つようになった。


 俺と広瀬も、商店街にある昔ながらの文房具屋ではなく、フードコートでクレープを食べられる複合商業施設に足を運んだ。原稿用紙もボールペンも探すまでもなく売っていた。そこで広瀬は頭を悩ませることになった。


「どう考えても、包装してはもらえないよね、これ」 


 文房具屋ならともかく、商業施設の筆記用具コーナーとなると、贈答用のボールペンなんてもちろん置いてない。当然実務用のペンしか置いていないわけで、そうなると、どうしてもプレゼントという雰囲気ではなくなる。ましてや原稿用紙も一緒なのだ。


 レジに並んで買い物を済ませた広瀬は、そのふたつが入ったビニール袋を眺めて困り顔をした。


「『読書感想文を書きます』って感じだよね」


「それもまあありだろ」


「わたし、形にだけはこだわりたいの」


 そうですか、と俺は思った。広瀬の好きにすればいい。


「箱でも作ろうかな。すごく大きいの」


「広瀬は、工作得意だよな」


「ん。まあね」


 彼女は困ったような顔で笑った。


「叔父さんがそういうの好きで、子供の頃にいろいろ教えてもらったんだ。だから、うん。得意っていえば、得意かもね」


 そういうことだったのか、と俺は納得する。それと同時に、やはり、なんとなく、引っ掛かりのようなものを覚えてしまう。


 広瀬がアイスを食べるというので、俺も彼女に付き合って店に並ぶことにした。外はどうにも暑かったし、こういう機会でもなければアイスクリーム屋になんて立ち寄らないので、物珍しさもあった。テナントの並ぶ通りは、平日の夕方だけあって主婦と小さな子供と学生ばかりだ。


 アイスを買って、通路の真ん中に置かれたベンチに腰掛ける。誰かとこんなふうに過ごすのも久し振りだ。考えてみれば、広瀬と学校の外を出歩くなんて、初めてかもしれない。


「さっきから、妙にぼーっとしてるね。どうしたの、矢崎くん?」


「いや、さっきの話思い出してて。織野が文士崩れだって話」


「うん」


「なんか、嫌な感じがするんだよな。ただの想像だってわかってはいるんだけど」


「どういうこと?」


「よく知りもしないのに、勝手に想像して、こういう人間だって決めつけたりさ。そういうのが、ただの冗談だって、わかってはいるつもりなんだけど」


 楽しい顔をしている人間が、心の底から楽しんでいるのか、悲しそうな顔をしている人間が、心の底から悲しんでいるのか、平気な顔をして過ごしている人間が、本当に平気でいるのか、外から見ているだけじゃそんなことはわからない。それなのに、いつのまにか、目に見えるものから勝手に想像して、決めつけている。


 そういう自分に気が付くと、いつも居心地の悪い気分になる。


 なるほど、と頷いて、広瀬は手に持ったビニール袋を見た。


「たしかに、悪趣味だったかもしれないね」


「そこまでは言わないけど」


「わたしは逆なんだよね」


 そう言って、広瀬はアイスを口に頬張った。


「ときどきね、そういうふうに人の知らない一面を想像しないと、その人のことをわかったつもりになって、知ってる面だけで判断しちゃいそうになるの。だから、荒唐無稽でも突飛でも、その人について想像を広げると、それが本当じゃないにせよ、『わたしの知らない一面をその人がもってるかもしれない』っていう当たり前のことを思い出せる気がするんだよね」


 それもまた、理解できるような気がした。


 俺たちはすぐに知った気になる。なにかについてわかっているような顔をする。他人のことを理解できるなんて思うのは傲慢な錯覚だ。自分自身についてだって、俺は十全に理解していると言えるだろうか?


「でもまあ、せっかくだし、原稿用紙とボールペンは渡すとして、それとべつにお菓子でも渡そうか」


「どこまでもマメだな、広瀬は」


「矢崎くんはわたしのことも誤解してるよね」


 思わず返す言葉に詰まった俺に、広瀬はなんでもないふうに笑いかけてくる。


「わたしはね、人に恩を売ったりやさしくしたりすることで、自分が安心したいだけなの」


 それだけ言ってしまうと、彼女はアイスクリームを食べるのに集中しはじめた。


 俺は特にその言葉を否定するつもりにはならない。でも、どこまでも偽悪的な言い分だとは思う。彼女は気付いていないのだろうか。気付いたうえでそう言っているんだろうか。


 広瀬はアイスを食べきって立ち上がり、コーン部分を覆っていた紙をゴミ箱に捨てた。


「矢崎くんは、たぶんわたしより良い人だよね」


「そういう評価は初めてだな」


「たぶん、ひさぎちゃんも」


「どうなのかな」


 広瀬が篠原の名前を出したことを、少し意外に思う。彼女は篠原の話を避けているようなところがあった。俺だって、広瀬の前で篠原の名前を出すのを避けていた。どうして避けていたのかは、自分でもよくわからない。


「みんな元通りだよね。わたしも、そういうふうに見えるんだろうけど」


 広瀬は篠原と仲が良かった。中学からの同級生で、高校でも同じクラスになって、去年はいつも一緒にいた。


「俺も元通りに見える?」


 そう訊いてみると、広瀬は困ったように笑った。


「傍から見る分には、そうかもね」


 俺たちの目の前を、ひとりの子供が不安そうな顔で横切っていく。俺たちは声もかけない。


 その姿を見送ってから、広瀬は口を開いた。


「そろそろいこうか」


 そうだな、と俺も立ち上がった。


 俺たちは店の入り口で別れることにした。広瀬は「買い忘れたものがあった」と言って店の中に戻っていく。「じゃあね」と彼女は言う。俺は頷く。


 なんとなく気になって広瀬の後をつけると、広瀬はさっきの子供に声をかけていた。


 どうしたの? お母さんとはぐれちゃったの? お名前は? じゃあ、店の人に呼び出してもらおうか。


 広瀬はその子の手をとってサービスカウンターの方へと歩いていく。その姿を黙って見送ってから、俺は店を出た。







 すぐに家に帰る気にはなれなくて、帰り道の途中にある児童公園に立ち寄ると、顔見知りがいた。俺はその姿を遠目に眺め、声を掛けるか掛けないか悩みながら、自販機でコーヒーを買った。彼は、何人かの小学生と話をしているようだった。それが無性に気になって、結局声をかけることにする。


「桐島。なにやってんの」


 俺の声に驚いたのは、名前を呼ばれた桐島ではなく、子供たちの方だった。彼らは今にも泣きだしそうな顔をしている。


 桐島はゆっくりと振り返り、俺を認めて笑った。


「ああ、矢崎か」


 彼がそう言った瞬間、子供たちが逃げるように散り散りに駆け出して、あっというまにいなくなってしまった。


「あーあ。逃げちまった」


 からかうような底意地の悪い笑みを浮かべて、彼は子供たちの背中を見送った。


 桐島遥はボランティア部の部員で、一応、ときどき部室にも顔を出す。本当にときどき。口を開くと冷笑的なことばかり言うのが広瀬とは真逆で、ずいぶん相性が悪いらしい。話しているところさえ見たことがない。

 それなのに、「あいつ、なんかうぜえ」と桐島は言っていたし、広瀬は広瀬で、「桐島くんはわたしのこと好きじゃないと思う」と入学当初からあっさりした調子で言っていた。それについては、特に感想はない。べつにどうだっていいとも思う。誰にも迷惑はかからない。


「小学生いじめてたのか?」


「そう見えたか?」


「見えたけど、たぶん違うんだろうな」


 俺の言葉をバカにするように、桐島は笑った。普段はつかみどころがない奴だが、今日はどこか腹を立てているようにも見える。


「こいつだよ」


 と桐島は屈んだまま地面を示した。覗き込むと、彼の影になっていたところに、一匹の猫がうずくまっている。


「猫?」


「そう。猫。あいつら、こいつの髭を切ったんだよ」


「髭?」


「そう。髭」


 頷いて、桐島は、ばかばかしそうに笑った。


「猫の視力が低いって知ってるか? 動体視力はいいし夜目もきくが、こいつらは近眼だ。それでどうやって歩き回ってるかっていうと、髭がセンサーになってるんだ。髭の根元には神経が集中してて、かすかな刺激も鋭敏に感じ取る。空気の流れや音や匂いの元だってわかるって言われることもある。それを切ったらどうなると思う?」


「どうなるんだ?」


「髭があるときほど動けなくなるんだよ。人間だって片目が見えなきゃ遠近感がなくなって動きに自信がなくなるだろ。ひどいとあちこちにぶつかってまともに歩けなくなるぜ」


「切られたのか、その猫」


「ほんの悪戯のつもりだったんだろうな」


 そう言って桐島は足元の三毛猫の背中を撫でた。


「無知は罪っていうけど、あれは本当だな。犬にハンバーグでも食わせかねない。知らなかったなんて言い訳にもならない。知らないなら知らないでいいが、余計なことしなけりゃいいんだ。『知らなかった』じゃ済まないことはそこらじゅうに転がってる」


「ひょっとして、だから逃げていったのか、さっきの子供らは」


「教えてやったらすぐに涙目になってたよ。いい教訓だろ」


 俺がどうこう言うことでもないだろうと思って、黙っておいた。桐島がこういう奴なのは今に始まったことじゃない。


「さて、じゃあ俺は帰る」


 桐島は立ち上がって、制服の裾についた砂を払った。


「その猫、どうするんだ?」


 何気ないつもりの質問だったが、桐島は想定外のことを訊かれたみたいに意外そうな顔をした。


「べつに、どうもしないけど」


 そうなのか、と俺は思った。


「髭はまた生えるだろうしな。それまではしばらくは大変だろうけど、俺には関係ない。野良だしな」


「さっきまで庇ってたのに、ずいぶん冷たい気がするけど」


「べつに庇ってたわけじゃないよ。タチの悪い遊びだと思っただけだ。かわいそうだと思うなら、おまえ、引き取ってやれよ」


 俺は黙った。


「保健所で野良猫も引き取ってくれりゃいいんだけどな」


「保健所って、殺処分するんだろ?」


「イメージで物言ってるだろおまえ。正解だけど。動画サイトで殺処分の様子が見れるぜ。見てみろよ」


 俺が答えないでいると、桐島は強い語調で言葉を続けた。


「見ろよ。考えてみろよ。殺処分される猫の数は年間で何万匹だ。いちいちかわいそうなんて言ってたら気が狂うぜ。俺は生まれ変わっても保健所の職員にはなりたくないね。中には飼い猫だった猫だっているし、飼い猫が産んで飼えないからって理由で引き取られた生後間もない子猫もいるんだ。なぜ殺すか? コストがかかるから、野良が増えると糞が汚いし鳴き声がうるさい……『近所迷惑』だから。完膚なきまでに人間の都合だな。でも誰もそれを責められない。毎晩家の周りでやかましく鳴かれたら、おまえだったらうんざりしないか? おまえだったら身銭を切って何万もの猫を養うか? しかも増え続けるんだぜ。飼い主が次々連れてくるんだ。『すみませんけどまた生まれちゃったんでお願いします』とか、『新しいアパートがペット禁止なので』とか言ってな。結局俺たちはどこまでも自分の都合でしか物を考えられない、なあなあの線引で考えた気になってるだけで、必要とあらば『仕方ない』から殺すしかない。見ない振りをしたっておんなじことだ。だってそれは俺たちが普通に暮らしている場所で起きていることなんだ。なあ考えてみろよ。それは今だってそうなんだ。俺たちはそういうことが起きてる場所で平気で暮らして愛だの夢だの希望だの絆だの生きる意味がどうだの言ってるんだ。目の前に猫がいるときにだけ善人ぶったって嘘くさい。だって俺たちは、四六時中そんなことを考えてるわけじゃない。ときどき思い出したように考えてるふりをするだけだ。俺たちは勝手な生き物なんだよ。だったら最初から気にしなけりゃいい。気にしたって無駄なんだよ。それでもかわいそうって思うなら、動物愛護団体に寄付でもすりゃあ何匹かは助けられるかもしれない。でも、俺の実感だがね、『かわいそう』なんて言う奴の九割は、そういうところに金なんて払ってないぜ。賭けてもいい」


 大いに語るとはこのことだろう。俺が話をちゃんと聞いているかどうかすら、彼はどうでもよさそうだった。


「気にしたって無駄なんだ」と桐島は吐き捨てるように言う。その言葉に自分で傷ついているようにも見えたが、気のせいなのかもしれない。


「まあ、一番タチが悪いのは、俺みたいな人間なんだろうけどな」


 俺は桐島遥のことをよく知らない。タチが悪い、という言葉の意味も、どうして彼がいま殺処分される猫の話をしたのかも、よくわからない。たぶんそこには、傍から見ているだけではわからない何かがあるのだろう。外からは中身の覗けない箱のように。


「それじゃあ、俺は帰る。またな」


 桐島はそう言って、猫を残して本当に行ってしまった。俺だって、その猫のために何かをしてやれるわけじゃない。ただ、髭が早く生えてくればいいなと、そう思うだけだ。


 正しいことがなんなのか、俺にはどうしてもわからない。


 生き死にがどうこうなんてことを考えられるのは、生活に余裕がある証拠なのだろう。


 ひそかに、俺は桐島に嫉妬していた。彼が言っていたことは、どこか篠原の言っていたことと重なるような気がしたから。




 ◇




「犬や猫は、かわいそうだと思うのにね」


 篠原は、そう言っていた。


「豚や牛は、気にならないよね」


「食べるのは別ってことなんじゃないの?」


 篠原は、そのとき珍しく、俺の言葉を真っ向から否定した。


「飼えないから殺すのも食べるから殺すのも一緒だよ。どっちも人間の都合だもん」


「そうしないと生きていけないだろ」


「生きていきたいのも、誰かに生きていてほしいと思うのも、人間の都合でしょう」


 そういう言い方をしたら、まあ、そうなのかもしれない。べつにそこに関して持論があるわけでもないから、俺はあえて否定することもしなかった。


「でも、立場が逆だったら豚や牛が俺たちを食ってたかもしれない」


「……」


「殺して食べるのを悪いことみたいに思うのは、自分たちが優位に立っているからだろう。腹が減ったら食えるものを食うしかない」


「そうかもね」


「屠殺場にでもいけば気分が変わるかもしれないな」


「そうだね」と篠原は頷いた。


「わざわざいかなくても、たぶんネットで画像検索でもしたら見られるんだろうな」


「そんなの見たら、豚肉も牛肉も食べられなくなりそうだよね」


「そういや思うんだけどさ」


「うん?」


「豚肉の豚は訓読みなのに、牛肉の牛は音読みだよな」


「ほんとだね」


「豚や牛や鶏を食わなくたって逃げられないんだろうな」


「どういう意味?」


「食べるとか食べないとか以前に、生き物を殺すのがかわいそうって言うなら、手も洗えないんじゃない? 菌だって微生物だろ」


「んー」と篠原は言ってから、考えるような素振りを見せた。それとはまた話が別だと思ったのかもしれない。俺には同じ話に思えるが、伝わらないなら仕方ない。


「ねえ、わたし思うんだけどね」


「うん」


「ある日地球に宇宙人がやってきて、『人間の肉はたいへんおいしいので、この星を牧場にします』って言って、わたしたちを大きく育てて精肉して食べちゃうとしたら、嫌じゃない?」


「嫌だね」


「なんで、食べる分には殺してもいいってことになるんだろう?」


「べつに誰もいいって言ってるわけじゃないと思うけど。そういや聞いたことがあるな」


「なに?」


「菜食主義者の中には、魚は肉に含まれないって考える人もいるらしい」


「……なにそれ?」


「さあ?」


 その日の天気は曇りで、おかげで俺たちの話の内容もどこまでも落ちていけそうなほど暗かった。よく考えれば俺は、自分の履いているローファーが本革なのか合皮素材なのかも知らなかった。


「家畜になるのが嫌だっていうなら、愛玩動物だってそうだろうな」


「ペット?」


「宇宙人に飼われたい?」


「それはそれで、案外幸せなのかもしれないね」


「本気?」


「うん。だめ?」


「宇宙人はやめとけよ」


「じゃあ、矢崎くんがわたしを飼ってくれる?」


 俺は、少し考えてから答えた。


「あのさ、ペットに服を着せる飼い主っているだろ。俺、あれ好きじゃないんだよな」


「やっぱりやめとく」と篠原は言った。


 俺たちの話はどこまでいっても現実感の欠けた戯言でしかない。そういう自覚だってなかったわけじゃないけど、口に出そうと思えば、どこまでも話し続けることができた。たぶん、退屈だったからだ。


「ヘビの餌ってマウスでしょう」と篠原は言った。


「そのマウスのかわりに子猫を食べさせたらどうかな? どうせ保健所で殺処分されるくらいなら、餌にした方が理に適ってるでしょう。食用にするなら殺しても許されそうだし。もしくは人間が猫を食べるっていうのはどうかな?」


「そういえば猫も肉食だな。ヘビと猫ならどっちが肉を食うんだろう」


「猫かもね。小鳥とか、食べてるでしょ、ときどき」


「どうしてなんとなく不快な気がするんだろうな?」と俺は思わず口に出していた。


「なにが?」


「ネズミを餌にすることと、子猫を餌にすることとの違いってなんなんだろうな? わざわざ餌用マウスを繁殖させてる人だっているわけだろ。食われる為の命を作るのと、どうせ死ぬ命を食うのなら、失われる命の数は『どうせ死ぬ命の再利用』の方が少なくて済むわけだ。だってそうだろ? 野良猫が子供を産むと子猫を殺さなきゃいけなくなるからっていって、野良猫に避妊手術して子供を産ませないようにするボランティアってあるだろ。殺されるくらいなら生まれてこない方がいいって理屈だ。その理屈でいうなら、ハツカネズミだってわざわざ産ませることないじゃないか。猫の死骸は有り余ってるはずだ。それなのにさ、俺は、猫をヘビに食わせるなんて想像したくないとすら思っちゃうんだ。いったいこれってどういうことなんだろうな?」


 篠原はしばらく黙り込んだあと、どこか苦しげに笑った。


「わたしもやっぱり、犬や猫の方がかわいそうって思っちゃうな」


 俺は何も言わなかった。


「わたしたちって勝手だよね。かわいそう、なんて、安全圏にいるから言えることだよね」


 それから彼女は長い長い溜め息をついて、思い出したみたいに口を開いた。


「でも、かわいそうって、思っちゃうな。わたし、偽善者だから」


 結局のところ、俺たちがそのとき交わした会話だって傲慢でしかなかった。桐島が言うとおり、俺たちが意識しようと意識しまいと、俺たちはそういう場所で生きている。


 わたし、佳代ちゃんみたいになりたかったな。


 最後に篠原はそう言った。広瀬佳代に対して篠原がどんな感情を抱いていたのか、俺にはやはりわからない。




 ◇


 


 織野の誕生日に、広瀬は厚紙に布を張り付けて作った箱を用意して、そのなかに原稿用紙とボールペンと駄菓子の詰め合わせをいれた。俺は彼女がそうするだろうとわかっていたので、あらかじめ用意しておいたトカゲと蛇のおもちゃをそっと箱の中に忍ばせた。


「織野先生、かわいそう」と広瀬は困り顔をしていたが、「これが織野に対する感謝の証なんだ」と言ったら「それなら仕方ない」と許してくれた。その感謝が織野に伝わるかどうかはわからないが、俺は実際に織野に感謝していたし、ある意味で尊敬してもいた。


 部室にやってきたあと、広瀬から渡された箱を開けた織野は、原稿用紙とボールペンを見て不可解そうにしていたが、駄菓子の詰め合わせを掴んで、うれしそうに顔を綻ばせた。

 そうして何気なく掴んだトカゲのおもちゃに驚いて、「なかなか味な真似をするじゃないか」と広瀬を恨めしそうな目で見た。やったのが俺だったと聞くと、「矢崎なら仕方ないな」と納得してくれた。


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