02-02


 夜、ベッドに入って眠りにつくまでの時間、瞼を閉じたまま、一日の反省をするんだ、と篠原ひさぎは言っていた。自分の言葉の瑕疵や態度の是非、その日の失敗なんかについて、あれこれ思いを巡らせていることが多かったらしい。あれはよくなかった、あんな言い方ではうまく伝わらなかった、あそこでああいうふうに言っておけばよかった、というように。


「そんなことしてたら、疲れない?」


 俺の言葉に、篠原は困ったように笑った。


「それは、まあ。でも、そういうふうに検証しておかないと、次に活かせないから」


 次に活かす、ということがどういうことなのか、俺にはよくわからなかった。


「矢崎くんは、そういうことしないの?」


「あんまり。そういうの考えだしたら、なんか、落ち込んじゃいそうだし」


「矢崎くんも落ち込むの?」


「そりゃあね」


「たとえばどんなとき?」


「そうだな。とっさには思いつかないけど、けっこう落ち込むよ」


「そうなんだ。矢崎くんも落ち込むんだね」


 篠原がうれしそうに笑ったのが、そのときの俺には不思議だった。


「誰だって落ち込むときくらいあるだろう」


「うん。それはきっとそうなんだろうね」


 七月のある日のことだった。梅雨も明けて、篠原がお気に入りの青い傘をさすこともなくなった。そのことを少し寂しいと思ったことを覚えている。傘をさしていないと、篠原が誰か別の人になったみたいに思えたのだ。

 屋上からは、季節や風景の移り変わりをくっきりと見渡すことができた。夏の盛りを目前にして、木々や草花は、その身を空に掲げるように高く伸ばしていた。


 いつもは意識せずにすべてひとくくりにして捉えてしまうが、一口に緑や青と言っても、実はさまざまな色彩がある。そんな当たり前のことを、その景色は俺に思い出させてくれた。


 空はどこまでも高く突き抜けるように青く、雲の輪郭は線で引いたみたいにはっきりと縁取られていた。そこに生まれた影すらも、澄んだ水色に染まっていた。


 あたたかでまばゆい日差し、風にまぎれて吹き込む草木の匂い。


 どれだけ暗い話をしても、そんな風景がすぐそばにあったら、なんだか空々しく、バカバカしく思えてしまう。


「落ち込むたびに、わたし、次は気を付けようって思うんだ」


「次?」


「そう、もっとちゃんとしなきゃ、って」


「それは、しんどそうだね」


「そうそう、バカだよね」


「もっと気楽に生きようぜ」


「気楽に、肩の力を抜いて、気分を楽にして」


 言い聞かせるみたいに繰り返すと、篠原は空を見てまぶしそうに目を細めた。それからイーグルスの「テイク・イット・イージー」のサビの最初の部分だけを口ずさみはじめた。下手くそな発音で、何度も同じところだけ。たぶん、他のところは歌えなかったんだろう。俺だってそこしか知らなかった。テイク・イット・イージー、テイク・イット・イージー……。聴いているうちになんだかおかしくなって笑ってしまった。すると篠原も笑った。


「頭をからっぽにするのがいいと思うんだ。ハロウィンのかぼちゃの飾りみたいにくり抜いちゃって」


 ちょっと痛そうな想像だな、とそのとき俺は思った。ジャック・オー・ランタン。それとはまた違うけれど、たしか、英語でパンプキンヘッドと言ったら、愚か者とか、バカとか、そういう意味になる。


「きっと、むずかしく考えるから失敗しちゃうんだよね。頭悪いのに考えてばっかりいてもしかたないし」


「だな。切り替えていこう」


「もしかしたら運動不足のせいかな、ネガティブ思考は」


「セロトニン?」


「そうそう」


「現代人は血行が滞りがちみたいだしな。逆立ちとかがいいらしいぜ」


「逆立ち」


「あとは日光浴とか」


「日光浴!」


 篠原は両手を空に向けて突き上げた。テイク・イット・イージー。


「もっと前向きに生きよう」


 言い聞かせるみたいに、篠原ひさぎはそう呟いた。


 そのときはそんな調子だったけど、俺たちは一週間後には元通り、お互いのだめなところを報告して慰め合うような関係に戻った。一度ついた癖がなかなか直せないのと一緒で、暗い人間が暗いことを考えるのだってそう簡単にはやめられない。


 そのとき俺たちがやけに明るいことを言えたのだって、日光を浴びて脳内環境が普段よりちょっとましになっていたからだろう。俺たちの気分は、その日の気温や天気なんかに簡単に左右される。日照時間が長い場所ほど自殺者数が少ないという話も、最近はけっこう有名だ。俺たちをいちばん容易く支配するのは、思想でも宗教でも哲学でもなく、「その日の気分」なのだということについて、俺はもっと自覚しているべきだったかもしれない。







 七月八日は織野先生の誕生日だよ、と広瀬が教えてくれた。


「部のみんなでプレゼントでも渡す?」


 広瀬は何気ない調子でそう言った。

 七月になったばかりで、まだまだ夏本番とはいかないが、風はぬるく、空気はまとわりつくようにじっとりと暑苦しい。開け放した部室の窓からは風も吹きこまない。ただ座っているだけで額に汗が滲んでくる。おかげで返事をするのも億劫だった。


「プレゼントね」


 相変わらず鶴を折りながら、名越はどうでもよさそうに相槌を打った。この暑いのに、よく折り鶴なんてちまちましたことをやる気になるものだ。感心はするが、やはり俺には真似できそうにない。


「必要ないんじゃない? あいつたぶん感謝なんてしないよ」


 名越の言葉に、そうかなあ、と広瀬は首をかしげる。織野なら、感謝しないというのは十分にありうる。


「まあ、わたしもどっちでもいいんだけど、たまたま知ってたから」


 広瀬が織野の誕生日をたまたま知っている、というのが少し不思議だったけど、彼女のことだ。俺や名越が知らないうちに、いろいろ話していてもおかしくない。


 織野の誕生日。俺は少し考えてから口を挟む。


「まあ、渡すのもありだろうな」


 そう言うと、広瀬も名越も須川も、そろって目を丸くした。


「いちばん意外なところから賛成意見がきた」


 思わず口をついて出た、というふうに広瀬は言う。失礼な話だ。


「織野の機嫌をとっておいて損はないだろ」


 感心したような三人の様子に据わりの悪さを覚え、そんなふうに付け足してみると、広瀬が苦笑した。似合わないとでも言いたいらしい。


 べつに俺だって、織野にどうしても何かを贈りたいわけじゃない。ただ、渡すならそれはそれでいいんじゃないかと思っただけだ。そう言おうかとも思ったけれど、なんだかからかわれそうだったので、やめた。


「ねえ、織野先生って好かれてるの?」


 俺たちのやりとりを聞いて、須川が不思議そうな顔でそう訊ねてきた。どうもピンと来ないらしい。


 好かれているというのとは、少し違うだろう。俺は適当な言葉を頭の中からさらい上げた。


「気安い相手ではあるな」


 俺の言葉に頷いてから、広瀬が付け加える。


「サボってても見て見ぬふりしてくれるしね。本人が面倒がってるだけなんだろうけど」


「俺は織野好きだよ」と、黙って聞いていた名越が言った。


「なんで?」


 ちょっと意外な気がしてそう訊ねてみるが、かえって来た答えは単純だった。


「俺の好きなバンド、あいつも好きだから」


 名越と織野が音楽の話をするというのも、俺には意外に思えた。もしかしたら俺以外の人間は、織野とそれなりに話をしているのかもしれない。そう思うと、妙な疎外感を覚える。


「じゃあ、やっぱりプレゼント渡しておく?」


「いいよ、めんどくさい」


「でもわたし、人に贈りものするの好きだし」


 広瀬のその言葉に、目から鱗が落ちるような気持ちになる。「贈りものをするのが好き」なんて、俺には倒錯としか思えない。相手が喜ぶ姿を見てうれしくなる、というのなら、まあ、わからなくはないけれど、この場合、相手は家族でも恋人でもない、ただの部活動の顧問だ。広瀬はそういう奴だからと言ってしまえば、それで済む話ではあるが。


「何を渡したら喜ぶのかな。どう思う?」


「ホントに渡すの?」



「ううん。渡すにしても渡さないにしても、考えてみるのも楽しいかなって」


 なるほど、と俺は頷いた。つまり、そういうゲームなのだ。マインスイーパやクロスワードパズルと同じような遊び。


「そうだな。そういうのも楽しいかもしれない」


 俺の言葉に、広瀬は悪戯っぽく笑った。たしかに、おもしろそうだ。


 冷静に考えてみよう。もし仮に、織野に誕生日のプレゼントを渡すとして、いったい何を渡せば、彼は喜ぶだろう?


「まず、織野先生が好きなものから考えてみないとね」


 広瀬の言葉を受けて、俺はさっきから思いついていたことを口に出す。


「織野は名越と同じバンドが好きなんだろ? CDとか、グッズなんかはどうだ?」


「顧問のプレゼントに、CD?」


 須川が驚いたような声をあげた。


「なんだか大袈裟じゃない? お菓子とかでいいと思うけど」


「えっとね、実際に何を贈るかは、今は棚上げ。『何を贈るか』じゃなくて、『何をあげたら喜ぶか』を想像する遊び。須川さんも一緒にどう?」 


 ああ、なるほどね、と須川は頷く。それから広瀬に向かって「小鳩でいい」と言った。


「え?」


「須川さん、っていうの、落ち着かないから。下の名前でいい」


「ん。そっか。わかった」


 見ているだけで面映ゆくなるようなやりとりを横目に、「それで」と俺は話を続けた。


「とりあえずCDっていうのは?」


「ナシだろうね」と口を挟んだのは名越だった。


「あいつは全部自分で買ってるよ。ネットでプレミアついてるインディーズ時代のミニアルバムだって持ってるんだ。揃えてるよ、きっと」


「じゃあ、グッズはどうだ?」


「どうかな。喜ばないことはないだろうけど、そんなアルバムまで持ってるくらいなんだ。ほしいものがあったら自分で買ってるだろうね」


「本当に好きなんだね、そのバンド」


「本当に好きみたいだ」


 と、名越は広瀬の言葉を肯定した。バンド方面で攻めるのは無理がありそうだ。


「ひとつ教訓があるな」と俺は言った。


「……教訓?」と広瀬が首をかしげる。


「本当にほしいものなら、人は既にそれを手に入れている」


「そんなことないと思うけど」


 俺の思いつきの発言を、須川が呆れたように否定した。続けて広瀬が仕方なさそうに苦笑する。


「それらしいだけで中身がないことを言いたがるのは矢崎くんの癖だから許してあげて」


 女子ふたりの息が合うようになっているのを感じて、俺は奇妙な居心地の悪さを感じた。


「でも、話を生徒から教師へのプレゼントに限って言えば、矢崎の言葉も間違いじゃないのかもね。金額的なことも考えると、生徒が教師に贈っても違和感のないものは、だいたい自分で買えるだろうし」


 そうか、須川は俺のことは呼び捨てにするのか、と、妙なところに引っかかりながら、彼女の言葉について考える。

 たしかに、俺たちが手に入れられないようなものを「贈りもの」として想像しても意味がない。大金や債権や土地の権利書だったら、誰だってもらって損だとは思わないだろうが、それではゲームとしてつまらない。あくまで俺たちが現実的に贈れる範囲のものでなければ。


「そう考えると、そもそも、自分が本当にほしいものって、誰かからもらうことはできないのかもね」


 溜め息でもつくみたいに須川はそれらしいことを言ったが、俺のときと違って誰もからかったりしなかった。


 少し考えてから、言葉を返す。


「たしかに、本当に欲しいものなら、自分で買いたいってこともあるしな。でもプレゼントって、必ずしも欲しいものである必要はないんじゃないか?」


「どういうこと?」


「たとえば名越はチョコが苦手だけど、二月十四日に広瀬からチロルチョコをもらうと喜ぶ」


「なんで俺を例に出すんだよ」と名越。


「どうしてわたしまで巻き添えなの」と広瀬。


 べつに俺としては他意はなかった。たまたま近くにいたからだ。


「だけど、言わんとすることはもっともかもね」と名越は頷く。


「チョコは苦手だけど、二月十四日にもらえるなら相手が広瀬でもそこそこ嬉しい」


「……名越くんには絶対チョコあげないから」


 仲が良いのか悪いのかわからないやりとりでじゃれる二人を無視して、須川が話を続けた。


「でもその理屈だと、誕生日に生徒からプレゼントなんてもらったら、それがなんであれそこそこ嬉しいんじゃないかな?」


「話がなかなかに混乱してきたな」


 たしかに、生徒から誕生日を祝われれば、教師なら何をもらってもそこそこ喜びそうな気がする。とはいえ、「なんでもいい」ではゲームの主旨に反するし、その「教師」が織野であることを加味すると、確実とは言えない。


「立ち止まって考えるべきかもね」


 作業机の下で名越の足を蹴りつけているのか、広瀬は何度も体を揺らしながら、不機嫌そうにそう言った。


「彼を知り己を知れば百戦危うからず、って、孫子が言ってた」


 広瀬にかかると、「孫子」が友達の名前みたいだ。その言葉の意味について、俺は少し考えてみる。


 織野について知っていること。何かあるか、考えてみよう。


 現国教諭、二十代。教師としては、やる気のない部類に入りそうだ。いや、そもそもやる気のある教師の方が少ないのかもしれないが。いずれにせよ織野はあからさまにやる気がない。


 そういう教師の常として、生徒からの人望はまったくないわけじゃない。タメ口で話しかけられて平気でいられるような奴。

 身長は高く細長いが肩幅があり、ひどい猫背だ。均整のとれたスタイルに見えることもあるし、ひどくアンバランスな体つきに見えることもある。目つきは妙に気だるげで、表情の変化は乏しい。

 わりと権威に弱いところがあるらしく、学年主任あたりに注意されてへこへこしている姿を見ることがある。もっとも、それは誰だってそうなるのかもしれない。


 生徒に対してはリラックスした様子で接してる事が多い。ボランティア部の顧問をしているが、たまにしか様子を見に来ない。それでいいと俺たちも思っている。

 いつもつけている腕時計は、シチズンだ。詳しいわけじゃないけど、時計の文字盤にアルファベットでそう書いてあった。市民。ごくまれに、不思議なほどのやさしい沈黙を漂わせることがある。俺は、その沈黙に、たった一度だけ触れたことがある。


 考えてみれば、俺は織野が何歳なのか、どこに住んでいるのか、結婚しているのかどうかさえも知らない。興味もなかったし、必要も感じなかった。

 なんだか急速に面倒になってきた。


「無理だろ、このゲーム。破綻してる。俺、織野のことなんてなんにも知らないし。推測する材料も足りないし、憶測でものを言っても否定する根拠がない」


 弱音を吐くと、広瀬が笑った。それから書棚の上に置きっぱなしの白い箱に視線をやって、口を開く。


「わたしが思うに、なんだけど、織野先生って、たぶん、夢破れた人なんだよ」


「……夢破れた人?」


「そう。なんかそんな感じしない? やりたくて教師をやってるようには見えないけど、仕事だって割り切ってるふうでもない」


 ここに来て、広瀬は唐突に印象論を持ち出した。イメージで語ってどうする、と言いかけたところで、名越が広瀬に同意した。


「それは俺も思ってた」


 本当かよ、と思ったが、名越がそのまま言葉を続けたので口を挟まなかった。


「俺と織野が好きなバンドって、そういう曲が多いんだよね。とにかくやりたいことを突き詰めるんだけど、認められない。それでも、やめない、っていう。あれだけ入れ込んでるから、曲もだろうけど歌詞にも自分を重ねてるんじゃないかと思って」


「そういう印象でいいなら、わたしもひとつ思ってたことがあるんだけど」


 須川まで、話に乗ってきた。いったい、この話はどこまで向かっていくんだろう。


「わたしが入部届をもらいに職員室に行ったとき、机の棚にユングとかバルトとかレヴィ=ストロースの本が置いてあって、なんだか意外だなって思ったの。それがすごく印象に残ってて……」


 ユング、バルト、レヴィ=ストロース。なんだか頭がよさそうな言葉が出てきた。ユングは深層心理学だったか。普遍的無意識とかアニマとか、そういう奴。バルトは……テクスト論? レヴィ=ストロースはなんだっただろう。悲しき熱帯、というタイトルだけは思い出せる。


「授業で使うのかなとも思ったけど、高校の授業で実際の著作が必要なところまでやらないだろうし、そもそも織野先生って、現文だし」


 俺は頭の中で「悲しき熱帯」を読む織野を想像してみたが、いまいちピンと来なかった。


「なんだか意外な一面だな、それ」


 だよね、と須川自身も頷いていた。

 そういえば、と今度は広瀬が口を開く。


「ずっと前、織野先生に好きな作家を訊いたことがあったんだけど……」


「誰だって?」


「小島信夫」


「……誰だっけ?」


「いちおう、芥川賞作家だったと思う。『アメリカン・スクール』だったかな。ヴォネガットとも言ってた気がする」


 なんだか、別の人間の話でもしてるみたいだ。本当に、俺は織野についてなにひとつ知らない。


「文士崩れ、って感じなのかもね」


 須川がそう話をまとめた。それがまるで本当のことみたいに思える。俺は織野についてなにひとつ知らず、そうして今、いくらかの手がかりをもとに、その中にあるものについて少しだけ推測した。それがあたっているのかどうかはわからない。ただ、そういう行為そのものに、据わりの悪いような気分になる。


 ――きっとわたしたち、本当はなんにもわかってないの。


 不意にそんな声が頭をよぎる。そこで俺は考えるのをやめた。


「えっと、何の話してたんだっけ?」


 そう訊ねると、みんながみんな、「さて、何の話だったっけか」という顔をした。

 誕生日の話だった、と思い出すのに、少し時間がかかってしまった。


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