01-05


 家に帰ると妹の紗雪がリビングのソファで休んでいた。「ただいま」と声をかけるが、返事はない。眠っているのかもしれないし、無視されたのかもしれない。どちらかというと眠っていると思った方が気持ちが楽なので、そう考えることにしておく。

 サンルームに干してあった洗濯物を取り込んで畳んでから、流しに置きっぱなしになっていた朝の食器を洗った。冷蔵庫の中身を確認する。たまごとベーコン、にんじんとキャベツ、冷凍の鮭、豆腐に油揚げ。充分だ。そういえば紗雪の朝食用の食パンを切らしていたんだっけ。まあ、あとでコンビニにでも買いにいけばいいだろう。


 米を炊く準備をしてから、自室にもどって着替え、課題に取り掛かることにした。そんなに苦戦する量でもないが、早めに終わらせておくに越したことはない。どうせほかにやりたいこともないのだ。

 机に向かって黙々と課題を進めていると、不意に扉がひらいた。紗雪だった。


「ただいま」ともう一度言う。紗雪は返事もせずに勝手に部屋に入ってきて、俺のベッドに横になった。こちらには視線もよこさない。俺の姿が見えていないのかもしれない。


 いつのまにか空は赤く染まっていて、気付けば部屋のなかは薄暗い。電気をつけるほどではないけれど、教科書の字が読みにくくなってきた。


「もうすぐ夕飯だけど、腹減ってるか?」


 今度は、うん、と返事がかえってくる。聞き逃しそうなほど小さい声だった。


「ごはん、なに?」


「鮭と、たぶん野菜炒め」


「手抜き?」


「かもな」


 紗雪は文句も言わなかったし、笑いもしなかった。


 課題を進める手を止めて、俺は紗雪の方を見る。パジャマ姿のままだ。


「昨日は何時に寝たんだ?」


「わかんない。新聞配達のバイクの音がした」


「それから寝たのか」


「うん」


 そうか、とだけ答えた。ろくに日も浴びない昼夜逆転の生活をしているくせに、肌も髪も冗談みたいに綺麗だった。手足は細く、肌は異様に白い。つくりものみたいだ。

 そこで話は終わりだろうと勝手に思っていたら、紗雪が言葉を続けた。今日はいくらか気分がいいらしい。


「映画を観たいんだけど」


「映画?」


「うん。お兄ちゃん、付き合ってくれる?」


 映画館に、というわけではない。レンタルショップに借りにいきたいからついてこい、ということだ。ストックが尽きたのか、気になる映画ができたのか、どっちかだろう。


 ひとりで出歩こうとしない紗雪のおでかけに付き合わされて、本屋やレンタルショップに行くことは、多くはないが珍しくもない。なにせひとりではレジにすら並ぼうとしないし、店員に質問もしない。ひとりで行けと言ったら、映画なんてあきらめて家にあるもので暇をつぶそうとするだろう。

 甘やかしてるな、とそう言ったのは誰だったっけ。自分でもそう思う。でも、ほしいものや観たいものがあるなら、まだいいのだ。そういうのを諦めてしまって何もなくなってしまうより、ずっといい。ちょっと前までに比べたら、紗雪もずいぶん明るくなった。


「いいよ。夕飯のあとでな」


「うん」


 紗雪は寝転がったままぼんやりと天井に視線を投げ出していた。こいつの目に、世界はどんなふうに見えているんだろう。それは、俺が見ているものと、どのくらい違うんだろう。




 ◇




 紗雪が学校に行かなくなったのは、去年の十月のことだった。理由はよくわからない。クラスメイトたちとトラブルがあったわけでもないそうだし、勉強についていけないというわけでもなかったらしい。ひょっとしたら紗雪自身もよくわかっていないのかもしれない。

 鍵をかけて部屋に閉じこもって、学校にはいかない、と紗雪は泣いた。もう行かない。なんにもしない。どうなったってべつにいい。どこにも行けなくっていい。そんなふうに泣き叫ばれて、両親はひどく戸惑っていた。何かあったの、と訊ねると、なんにもない、と紗雪は言うのだ。


 でも、何かあったからこんなことをするんでしょう? 扉越しに母はそう訊ねた。


 紗雪の答えは同じだった。


 なんにもない! なにも起きたりなんかしてない! ずっとずっとそうだった!


 途方に暮れた母が学校に問い合わせても教師は首をかしげるばかりだったし、俺が紗雪のクラスメイトだった顔見知りの後輩に訊いてみても、心当たりはないと言っていた。


 クラスで紗雪がいじめられているようなことは間違いなくなかった、と彼は言った。珍しいくらいに仲の良いクラスだったし、紗雪はみんなに好かれていたはずだ。部活の先輩にだってかわいがられてたように見えた。何人かに話をきいたけれど、答えは似たり寄ったりだった。

 両親がそれを信じたのかどうかは知らない。ふたりともどう対応すればいいかわからないみたいで、今じゃすっかり腫れ物扱いだ。


 俺は、紗雪の言うとおり、なんにもなかったのだと思う。隠したいことや言えないことがあったわけでもないのだろう。言葉にできることなら、紗雪はきっと言葉にしてくれる。

 ただ、紗雪はいつものように何気ない日々を送っていただけなのだ。それまでずっとそうしてきたのと同じように。 


「何もなければそんなことは起こらない」と言えるほど、「何もない」日々は疑いようのない平穏だろうか。俺にはよくわからない。


 





 夕飯のあと、紗雪とふたりで近所のレンタルショップに向かった。夜の空気もいつのまにか生ぬるい。

 外に出歩かなくなってから、紗雪は不思議な雰囲気をまとうようになった。世界を遮断し、世界から隔絶されたことで、彼女の体の内側に押し込められた何かが肌を通り抜けて滲み出ているような感じだ。


 一緒に歩いていると、俺は紗雪のそんな雰囲気に気おくれのようなものすら感じることがある。ある種の聖性、知性。隠遁した賢者の一対の目のように、彼女のまなざしは眼前に広がる光景の表面ではなく、その奥底にひそやかに隠された本質のようなものを眺めているように見える。それが俺の錯覚なのかどうかはわからない。


 俺は観たい映画もなければほしい本もなかったので、店についたところで棚にあるものを眺めて暇を潰すことしかできなかった。興味がないというわけではなく、単純に何かをしようという気になれないのだ。このところ、そういう憂鬱に近い無気力が、気だるさになって体を支配するのがはっきりとわかるようになってきた。


 ずっと前に観た映画のジャケットを見て、ああ主演の役者はこんな顔をしていたんだっけ、と違和感のようなものを覚えていると、不意に「お兄ちゃん」と声をかけられた。


「さがしてほしい映画があるんだけど」


 振り返ると、紗雪が困り顔で立っていた。


「端末で検索できるだろ」


「在庫ありになってるんだけど、あるはずの棚に見当たらない」


「なんてタイトル?」


「『海を飛ぶ夢』っていうの」


 紗雪に言われて、端末で印刷したらしい紙片を受け取り、書いてある棚に向かうと、たしかにそのタイトルの映画がなかった。


「店員に聞いてみる」


 うん、と頷くと、紗雪は逃げるようにべつの棚へと向かっていった。少し離れたところにいた店員に声をかけて探してもらうと、どうやら他の棚に紛れ込んでいたらしい。


 店員は愛想がよくて話しやすかった。


「この映画観るんですか。いい映画ですよ」


「ええ、まあ、妹が」


「妹さんが? へえ」


 二十代くらいの茶髪の店員は、意外そうな、でもどこかうれしそうな顔で笑った。


「どんな話なんですか?」


「尊厳死についての話ですね」


 ありがとうございました、とだけ言うと、店員は営業用というわけでもなさそうな笑顔で「どういたしまして」と返してくれた。俺は頭の中で彼の言葉を繰り返した。尊厳死。

 紗雪はアニメ映画の棚にいた。そばまで歩いていくと、ちらりと俺の方を見てから棚に視線を戻し、「なつかしい」とひとりごとみたいに呟いた。子供の頃、一緒に見ていた奴だ。


「映画、あったよ」


「わーい」


 とわざとらしい声で紗雪は言った。表情はさして変わらなかった。


 尊厳死についての映画だってさ。そう言いかけて、なんだか怖くなってやめてしまった。


 帰り道の途中で近所のコンビニに寄って食パンを買った。道すがら紗雪は終始上機嫌で、めずらしく鼻歌なんかをうたっていた。

 スキータ・デイヴィスの「この世の果てまで」だった。







 家に戻ると母が仕事から帰ってきていて、ダイニングで夕飯を食べているところだった。「おかえり」という母の言葉に「ただいま」と小さく返事をしてから、紗雪はすぐに部屋に引っ込んでしまう。その様子を見て、母は小さく溜め息をついた。


 紗雪は両親の姿を見ると、隠れるみたいに部屋にこもってしまう。それはもう半年以上続いていることだ。それなのにどちらも、慣れる気配がない。母はそのたびにいちいち傷つくし、紗雪の方も、母が傷ついていることをわかったうえで、それでも逃げてしまう。そうすることで、きっと紗雪自身も傷ついている。


 どうして母さんを避けるの? 紗雪に一度、そう訊いたことがあった。


 こわいから、と紗雪は言った。


 母さんは叱らないと思うよ、と俺は言った。ただどうすればいいかわからないんだと思う。


 うん、でも、ちがうの。紗雪はもどかしそうにそう言った。


 ただ、うしろめたいの。


 両親に過失があったわけではないと思う。もちろん本屋に行って「問題のある親の行動」とか「子育ての間違い」みたいな本を買って読めば、当てはまるところはいくつもあるだろう。でも、完璧な親なんていないし、完璧な子育てなんてありえない。

 子供のありかたの正解も、どこにも存在しないはずだ。


 俺は紗雪の籠城をそんなに重く受け止めてはいなかった。両親が将来のことや金銭的なことを考えて不安がるのもわからなくはないが、だからといって家族が悲観してもしかたない。ひとりが暗くなればそれが伝染する。家がまとう空気が暗くなれば紗雪にもそれが伝わる。そうなれば紗雪は自分を責める。そんなの、余計につらくなるだけだ。


 どうなろうと結局紗雪の人生だ、と軽く受け止めてしまえるのは、俺が本当の意味で当事者ではないからだろうか。それは、俺が紗雪のことを大事に思っていないからなんだろうか。


 そんなことはない、俺は紗雪のことを大事に思っている、と、そう迷いなく断言できるほどの自信が俺にはない。大事に思うということがそもそもどういうことなのか、本当のところよくわからない。


 ただ、つらそうな顔をするよりは笑ってくれていたほうがいい。苦しそうにしているよりは、穏やかに過ごしてほしい。そういうふうに思うだけで、それだって、俺が安心したいからじゃないのかと誰かに言われたら、そのとおりだとしか言いようがない。






 ダイニングをあとにして、自室に戻ろうと二階の廊下を歩いている途中で、紗雪の部屋の扉が静かに開いた。


 細い腕がドアの隙間から伸びてきて、ちょいちょいと手招きをする。


「お兄ちゃん」


「なに」


「一緒に映画見よう」


「課題終わってないんだけど」


 ああ、そっか、と紗雪はうろたえたような声で言う。課題とか、部活とか、学校に近いワードをあげると、紗雪の返事はいつも鈍くなる。


「いいよ。半分以上終わってるし、観ても」


「じゃあきて」


 お招きに応じて紗雪の部屋に行き、ふたりで部屋を暗くして映画を観る。


 紗雪が掛けたのは、どうやら探してきたのとは違う映画みたいだった。持ち込んだマグカップとポットのお湯で、紗雪はコーヒーをつくってくれた。


「なんだか地味な映画だな」


「わたしたちの生活も地味でしょ」


「退屈だし」


「わたしたちの生活も退屈でしょ」


「何が言いたいかよくわからない。テーマが見えない」


「わたしたちだって何かを伝えるために生活してるわけじゃないし、その生活にテーマなんてないでしょ」


 それに、と紗雪は言葉を区切った。映画に関しては、紗雪は饒舌だ。


「まだわからないようにしてあるだけかもしれない」


「そうなのかな」


「まあ、ないならないでそれはいいの」と紗雪は真剣な声で言う。


「でもこの映画」


「うん?」


「ところどころ、おもしろいな」


「うん。まあ、ところどころね」


 さて、まだわからないようにしてあるらしいテーマが、俺の頭でわかるように描かれていたらいいのだが。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る