01-04


 荷物をもって部室を出たあと、ふと思い立って俺は階段を昇った。踊り場の窓から中庭の大きなケヤキが見える。


 階段を昇りきって扉をあけると、冷ややかな静けさに満ちた屋上が、いつものように迎えてくれた。頭上を覆う空は透きとおった水色だ。フェンス越しに見える遠く向こうの山の上を、薄い灰色の雲が漂っていた。

 屋上には誰の姿もなかった。それはそうか、と思ってから、俺はフェンスの方へと近付いていく。見下ろす街は、いつもと何も変わらないように見える。


 もちろん、長い目で見れば何も変わっていないなんてことはないのだろう。新しいドラッグストアが建って、何本かの道路がいくらか広がって、古い家がいくつかなくなって、何もなかったところに洒落た建売の家が並び始めた。目につく変化だけでもたくさんある。

 それでも、全体としての印象は、いつもとなにひとつ変わらない。その「いつも」というのが、いったいいつのことなのか、考えてみてもよくわからないけれど、その「何も変わっていない」という印象に、勝手に打ちのめされることがある。どうして何も変わらないんだろう。


 ひょっとしたら何年も前から、何十年も前から、何百年も前から、なにひとつ変わっていないのかもしれない。


 車が走る。飛行機が飛ぶ。天気予報はそこそこ当たり、電波は飛び交い、遠く向こうから知らない商品がこの街に届く。それでも、そこで暮らす人々の営みは、本当のところ、ずっと前からなんにも変わっていないのだろう。そう考えた人だってきっと、俺が初めてじゃないはずだ。


 同じ脚本の芝居が時代によって役者を替えて演じられるように、ささやかな進歩や変形を繰り返したところで、そのなかで起こっていることはいつも同じなのだろう。スケールの大きなことを語りたくなるのは思春期の常だと、以前、教師の誰かに笑われた。けれど、そういう話を誰かにしたくなるのは自分ではどうしようもない。

 幸か不幸か俺には篠原ひさぎがいた。去年屋上で初めて会ってから、俺は何度篠原にそういう話をしたかわからない。彼女の方だって、自分のなかで膨らんだ思考の搾りかすみたいなものをいくつも俺に教えてくれた。あの、舌足らずな喋り方、少し掠れたささやき声で。


 いま、篠原がいてくれたらいいのにな、と思ってしまう。でも、彼女はこの場にいない。


 さっき、彼女の言葉を思い出しそうになった。そのことについて考えてみる。彼女は、なんて言ってたんだっけ?




 ◇




「わたし、もうちょっとやさしい人間になれたらいいなあって思うんだよね」


 そうだ。彼女はあのとき、そう言っていた。去年の、今くらいの時期だ。そうすると、俺たちが初めて顔を合わせたのは、ひょっとしたら春頃のことなのかもしれない。

 そのときも俺たちは放課後の屋上にいて、何かから逃げるみたいにどうでもいいような話を続けていた。


「やさしい」と俺は繰り返した。篠原は照れくさそうな顔で頷いた。


「たとえば、嫌なことがあると、ああ、嫌なことがあったなあって顔をしちゃうでしょう? 不機嫌になったり、いつもよりちょっときつい態度になったり、些細なことで怒ったりして。そうすると、わたしに不機嫌な態度をとられた誰かが、またおんなじように不機嫌になっちゃうんじゃないかなって」


 そのときの俺には不機嫌を周囲に当たり散らす篠原がうまく想像できなくて、その話がいまいちピンとこなかった。


「そうするとほら、今度はその人の不機嫌が誰かに伝染して……どこまでもどこまでも広がっていって、いつかはその不機嫌が世界中を埋め尽くしちゃうような気がしない?」


 些細なことから始まって、苛立ちは放射状に拡散していく。悲しみが悲しみに、怒りが怒りに連なっていく。それはどこまでも途絶えることなく広がっていき、蜘蛛の巣のように俺たちの頭上に覆いかぶさる。その見えない天幕の下にいる誰もが、自分は被害者だと思っている。そんなイメージが、頭の中に浮かび上がる。


「たとえばコンビニでもさ、面倒そうに接客されたりすると、ちょっと嫌な気分になるでしょう。むっとしたり、悲しくなったりするよね?」


 そうかもしれない、と俺は頷いた。あんまり気にしたことがなかったのだ。


「でも、にこにこしてる店員さんとか、明るい店員さんとかに接客されると、ああ、いいな、素敵だなあって思うの。そうすると、わたしも誰かにやさしくなれそうな気がするの。そういうの、わかる?」


 わかるような気もする、と俺は答えた。好循環と悪循環。


「だからわたしは、やさしい人になりたいな。機嫌のいいときや元気なときだけじゃなくて、嫌なことがあっても、つらくても、できたら笑っていたいなあ」


 わたしが誰かにやさしくできたら、その人もほんのすこしだけ気分がよくなって、誰かにやさしくしたくなってくれるかもしれない。そこまではいかなくても、わたしが不機嫌でいるよりは、穏やかな気持ちでいてくれるかもしれない。そうしたらほら、世界はほんのすこしだけ、それまでよりもやさしいよね、きっと。

 そんなふうに過ごせたら、わたしはわたしのことを、今より少しだけ好きになれると思う。


 篠原ひさぎは、たしかにそう言っていた。


 そうかもしれないね、と俺は頷いた。そうじゃないかもしれない、とも思った。


 俺には、彼女の言いたいことがわかるような気がした。ほんの少しだけ、誰かの生活をやさしく彩ろうとすること。口で言うほど簡単ではないだろうし、思うようにはうまくいかないだろう。それでも、そういう考え方は悪くない。

 でも、そのとき俺は、ただ表面だけをなぞって、なにかをわかった気になっていただけだったのかもしれない。


「猫のひなたぼっこみたいに、穏やかに生きられたら、それがいちばんだよね」


 そう言って彼女は笑った。猫のひなたぼっこみたいに、という比喩がよくわからなくて、俺は首をかしげて篠原の方を見た。彼女が眠たげにあくびをこらえるのを見つけて、それこそ、ひなたぼっこをしている猫みたいだな、と思った。







 あれこれ思い出しているうちに余計な考え事をいくつもしてしまって、用事もないのに屋上に長居をしてしまった。


 しばらくのあいだそのままぼんやりフェンスの向こうを眺めながら、歩きはじめるためのきっかけがあらわれるのを待ち続ける。帰らなければ、と思うのに、なかなか足を動かす気になれない。

 きっかけ。

 そんなものはいつまで待っても訪れる気配がなかった。誰かがこの場にやってきて声を掛けたり肩を叩いたりしてくれるとは思えない。雨は降りそうにないし、風も穏やかで心地いいくらいだ。きっかけらしいきっかけなんてどこにもない。


 結局俺は、自分で意思を固めてどうにか足を動かすしかなかったし、実際にそうした。とどまらなければならない理由がないのだから、いつかはそうするしかない。


 でも本当は、もう、なにひとつしたくなかった。


 たぶん、俺はやさしい人間じゃないんだろう。


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