01-02


 広瀬は誰よりも早く部室にやってきて誰よりも遅く部室を後にする。だからなかなか機会は訪れなかったが、そのやりとりから三日が経った日の放課後、彼女が飲み物を買いに部室を離れた隙に、俺はこっそりと書棚の上からその箱を下ろし、慎重に開けてみた。思ったとおり、中身はからっぽだった。


 その日は六月末の金曜で、部室にいたのは、俺と広瀬と名越の三人だった。普段から部に頻繁に顔を出しているメンバーだ。

 広瀬は自販機で買ってきた紙パックのカフェオレを飲みながら、スマートフォンでマインスイーパをしている。名越涼平はというと、ずいぶん遅れてやってきたかと思ったら、退屈そうな顔で折り紙の鶴を折り続けていた。


 ふたりがそういう調子なのはいつものことだ。広瀬は他にすることでもないかぎり、ずっとひとりでできる遊びばかりしている。パソコンやスマートフォンのアプリケーションにはじまり、クロスワードパズルや数独、果ては一人二役でリバーシや将棋をはじめることもある。勝負の相手に誘われたことは一度もない。名越の方は、最近は鶴ばかり折っている。どうしたのかと思って少し前に理由を訊ねてみたら、


「妹が入院したから、千羽鶴でもと思ってね」


 と教えてくれた。ひとりじゃ大変だろう、少し手伝おうかと声を掛けると、もういいんだ、と彼は言った。妹さんが肺炎で入院していたのは先月までのことで、今は退院して元気に学校に通っているらしい。千羽折る前に治ってくれて何よりだと、そう言って笑った彼の表情は少し照れくさそうだった。

 けれどそれなら、どうしてまだ鶴を折っているんだろう。そう思った俺が訊ねるより先に、彼は苦笑まじりにこう言った。


「こういう願掛けは、半端でやめるのも気持ち悪いから」


 たしかにそういうものなのかもしれない、とも思ったが、俺には真似できそうにない。ましてや、妹さんに千羽鶴をつくっていることを伝えたら、いらない、と断られたらしいのだ。


「だって、あれをもらった人は死んじゃうんでしょう?」


 ドラマや漫画でしか見たことがないのなら、そういう認識になってもおかしくはない。名越はその言葉を聞いて腹を抱えて笑ったという。にもかかわらず鶴を折り続けているのだから、結局祈りというのは自己満足や自己暗示に近いものなのだろう。それを欺瞞だ無駄だとあげつらうほど、俺は繊細でも善良でも野暮でもないつもりだ。

 自分の力ではどうしようもないことが起きれば、拠り所くらいは誰でもほしくなる。不安でしかたがないときには、手仕事でもしていればいくらか気もまぎれるだろう。願掛けの途中で願いが叶ってしまったからといって、それを中断しては不義理なようで落ち着かないというのも、わからなくない。


 ただ、真似できないと思うだけだ。


 とにかく、名越も広瀬もひとりの時間を悠々自適に過ごしている様子だったので、俺は俺でふたりを無視して本でも読むことにした。

 図書室で借りてきた、よく知らない作家の本。


 ずっと前に、篠原ひさぎがその作家について何か話していたことがあった。それをふと思い出したからだ。けれど、どんなことを話していたかは忘れてしまったし、もう思い出せる気もしない。さまざまなことをこうも容易く忘れてしまえるのは、長所なのか短所なのか。

 視線をページの上に落として、文字を目の中に流し込むようになぞってみるけれど、内容はまったく頭に入ってこなかった。篠原のことを考えてしまったせいだろう。


 ノックの音が聞こえたのがそんなタイミングだったので、読書を中断させられたからといって、苛立ちらしい苛立ちも覚えなかった。

 扉は誰かが返事をするよりも先に、勝手に開けられた。


「失礼します」


 声につられて部室の入口を見ると、また須川小鳩が堂々とした様子で立っていた。

 一度顔を合わせている広瀬は、「いらっしゃい」と平気な顔で笑いかける。


「誰?」


 名越の小声での質問に、「入部希望者らしい」と簡潔に答える。彼は「ふうん」と興味なさそうに声を漏らして、折り鶴の作業に戻った。


 俺は、須川に視線をやった。もう彼女が顔を見せることはないだろうと、勝手にそう思い込んでいたから、二度目の訪問はかなり意外だった。


「えっと、須川さん?」


 広瀬が声をかけるのとほとんど同時に、須川の背後から顧問の織野が顔を出した。二十代後半の現国教諭は、いつものように気だるげだ。

 織野は、「おう、揃ってるな」と言ってすぐに、「いや、揃っていないか」とどうでもよさそうに言い直す。それから俺たち三人の顔を順番に見た。


「新入部員だそうだ。須川小鳩というらしい。よろしくしてやってくれ」


 顧問をしている部のことなのに、織野の言いぐさはどこまでも他人事めいている。興味がないのかもしれない。そっけなく言い残すと、あとは任せたと言わんばかりに、彼は踵を返して去っていった。

 顧問が何の説明もせずに部室を後にしたことに、須川はいくらか戸惑った様子だったが、かといって不満そうにもしていなかった。あらかじめ予想していたのかもしれない。


 沈黙を嫌ったように、彼女は名前と所属だけの簡単な自己紹介をした。俺たちもそれにならって、自分の名前を彼女に告げた。空気はどこかよそよそしく、白々しかった。


 どうしてこの時期に、とか、なんでこの部に、とか、名越がそんな質問をいくつかしたけれど、須川はそのひとつひとつに曖昧に返事をするだけだった。


「てっきりもう来ないかと思った」


 広瀬の言葉に、須川は苦笑する。この間と同じ組み合わせとは思えないくらい、穏やかなやりとりだった。


「わたしもそうしようかと思ったんだけど、少し考えてみたの」


 何を、と訊ね返されるよりも先に、彼女は話を続けた。


「正直言って期待外れだったのは事実だけど、どこかの部には所属しなきゃいけないし、それならここでも問題ないかなって」


「人形劇ならやらないよ」と俺は言う。須川は予期していたみたいに頷いた。


「わかってる。やりたいのはわたしの勝手だから、押し付けるつもりはない」


 思ったよりも柔らかい態度だったことに、俺は少しほっとした。


「ここ、サボり部なんでしょう?」


 須川の問いに頷きながら、広瀬は壁に立てかけられていたたパイプ椅子を適当な位置に起こして彼女に勧めた。


「ありがとう」と返事をしながら、須川は椅子まで歩いていく。その途中で、名越の手元を見て何かに気付いたように声をあげる。


「折り鶴?」


 自分が声をかけられていると気付いた名越は、顔をあげて返事をした。


「ああ、気にしないで。これは趣味みたいなもんだから」


「部には関係ない折り鶴?」


「そう。部には関係のない折り鶴」


 須川は納得した様子でまた頷く。


「それじゃあ、わたしが部に関係のないことをやっていても、誰にも咎められないわけね」


 その通り、と広瀬が笑った。


 正直言って意外な成り行きだったが、新入部員を歓迎する気持ちがないわけでもない。


「ようこそボランティア部へ」


 試しにそう言ってみると、三人は顔を見合わせておかしそうに笑った。似合わないらしい。


「ところで、ひとつだけ聞いてもいい?」


 俺がそう声を掛けると、須川は何気ないふうに頷いた。


「どうして人形劇なんてやりたかったんだ?」


 べつにたいして意味のある質問ではなかった。ただ、少し気になっただけだ。


 彼女はそう質問されることをわかっていたみたいに笑う。


「少なくとも、ボランティアのためではないかな」


 なるほど、と俺は思った。


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