妻の耳

@torinikuwokue

1話目

妻がよく話すようになったのは、梅雨を少し過ぎたくらいだった。その時は良い傾向だと私は思った。月に2回のカウンセリングと投薬が彼女に効き始めた証だと、そう考えていた。

妻が職場のストレスから鬱病を患ったのは、春先のことだった。症状は軽度だと言われたが、明るかった彼女がふさぎこんでいる様を見るのも、妻がまともじゃなくてごめんねと謝るのも、ひどくつらかった。

大丈夫だよ、ゆっくりやっていこう。謝る彼女の肩を抱いて慰めながら、本当は、こう言うしかないじゃないか、と思った。

手に触れる妻の肩の厚みは以前と変わらず、多少顔色は悪かったが大して痩せてもいない。鬱病なんておおげさなのではないか。逆にこれだけ健康そうなのに病気と言うのであれば、どうしたら治ったと言えるのだ。

妻のつらさは、妻でなければわからない。そう理解しながらも、自分が支えていかなければいけない状況に不安や不満があったのは確かだ。だから、思いの外早く彼女の病状が回復の兆しを見せ始めたのが純粋に嬉しかった。

近所の公園にひまわりが咲いててね。まだ梅雨が終わったばかりなのに、ひまわりって咲くんだね。

その頃の妻は花や天気の話を良くした。カウンセリングや治療についての話はこちらが水を向ければしてくれた。先生もカウンセラーさんも良い人だよ。妻が言うのを聞きながら、これだけ早く結果が現れるのだから良い人なのだろうと私も納得したものだった。


妻が話しすぎるようになったのは、秋が深まり始めた頃だった。風は日中も涼しく、道には落ち葉が増え、夜は細い声で虫が鳴いていた。

梅雨から増した妻の口数は、そこから増え続けていた。すらすらと水が流れるように彼女の口からは延々と言葉がこぼれ続けていた。

近所の公園にひまわりが咲いててね。もう秋なのに、ひまわりってまだ咲いてるんだね。でも大分花が茶色くなってきちゃった。だらんって、うつむくみたいに花が下を向いてるの。公園で三階の〇〇さんに会ってね。犬を飼い始めたんだって。お散歩してた。良いなあ、うちも飼おうよ。猫もいいね。ハムスターもチンチラもフェレットも。近所にペットショップができたじゃない?今度一緒に行こうよ。

妻は私に話しかけるように喋ったが、実際は私が相槌をはさむ暇などはなかった。彼女は私の言葉を待たずに話し続けていた。

おかしいとは思ったが、何か今までふさぎ込んでいた反動が来て、こんなに良く話すのだろう。最近一緒に過ごす時間が少なかったから、私に聞いてほしい話も沢山あるのだろう。ここでいぶかしんで、彼女の調子を崩してもいけない。私はそう考えた。

病院はどう?私が聞くと彼女はにこにこ笑いながら、良いところだよ、と言った。


やがて、彼女は聞き役の私が居なくても喋り続けるようになった。家に帰るとさざめきのように音が聞こえてくる。それはテレビやラジオの音ではなく、彼女の独り言なのだった。

彼女と向かい合って夕食を食べる。煮魚をほぐしながら、彼女は話し続けている。咀嚼の間だけ、わずかな沈黙が生じた。私は思いきって、最近病院はどう?今度のカウンセリング、ついて行こうかな、と言った。彼女の喉がこくりと動く。ああ、と妻はなんてことのないように言った。

行くのやめちゃった。あの人たち、変なことしか言わないんだもん。行っても無駄だよ、あんなところ。


彼女が静かなのは最早眠る時くらいだ。ベッドで眠る妻の顔を見下ろす。光度を落とした明かりの中で見る彼女の顔は以前に比べて痩せたわけでも、太ったわけでもない。明るい光の中でみれば、顔色はむしろ良くなったと思える。

けれど、妻の病状は素人目にも悪化していた。彼女の頬を手で撫でる。穏やかな寝息が聞こえる。明日、休みを取って妻をもう一度病院に連れて行こう。今度こそ、しっかりと彼女の病に自分も向き合わなければいけない。

決意を胸に私はベッドに横たわる。妻の方を向いた。彼女の顔を見ていたかった。彼女の額の曲線、鼻梁の角度、唇の凹凸、こめかみにあるシミ、頬の黒子。

一つ一つ確かめるように眺めていくうちに、ふと、彼女の耳の穴の奥に、なにかがあるのが見えた。なんだと覗き込む。

目だった。彼女の耳の奥で誰かがまばたきをしていた。私に見られていると気付いて、妻の体の中にいる何かが笑った。はにかむように、やわらかく。

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