第9話
僕は部屋のカーテンを開き、窓を開く。
灰色の雲が空を覆い、雨が降っている。雲の切れ間から赤い空が見えるが……夕焼けは出ていないか。
雨が降っている時は、鏡を見てはいけない。絶対に見てはいけない。
絶対に。と言うくらいだ。何か理由があるはずだ。僕の時間がどうのと言っていたか? 何だった?
風が室内にごうっと吹き込んできた。
背中に視線を感じる。僕の背後には鏡がある。
まさか、今の風で鏡の布が落ちたか?
恐る恐る振り返る。
鏡に灰色の空が映っている。
雨の日に鏡を見てはいけない!
僕は目を閉じて、足元に落ちた布をひろい、手探りで被せた。これで、大丈夫なはずだ。
目を開く。室内に変化は無い。
背中にビリビリと微弱な電流が走ったかのように痺れる。気を張り詰めすぎたかもしれない。
気のせいだ。
体に絡みついた糸が身を切るほどに食い込む幻覚が見えた。これはただの妄想だ。僕の妄想でしかない。何も無い。
ふと、足元に黒い水溜まりができていることに気付いた。
黒い水溜まりが泡立ち、破裂して、蛆虫がわく。ひどく気分が悪い。思わずその場に膝から崩れ落ち、吐き出す。黄色い液体が広く
ビシャリッ!
閃光が部屋中を駆け抜ける。
雷が落ちたのか地響きがする。閉め忘れた窓から強風が吹き込み、再び鏡にかけた布を落とした。
僕が床を這い、布を手にしようとした瞬間、先にそれを拾い上げる手があった。
こやけか? 僕は顔をあげる。
閃光が再び部屋を駆け抜ける。
瞳が光った。こやけではない。彼女の瞳の色ではない。
冷たい紺碧色の瞳に
「こういうものは固定しておいたほうがええんよ。余計なモノが入り込んでしまうやろ?」
裏声で話せば女でも通るような中性的な声だった。
男は拾い上げた布を鏡に被せて、椅子に腰かける。
「あなたは何者だ? どこから来た?」
「何処からって愚問やね。この鏡を通ってきた。それだけ。……へえ。実につまらない部屋やね。面白みが一切ない。すべてがありきたりで、個性の欠片もない。唯一の個性と言えば、この鏡ぐらいか」
何故だかよくわからないが、男が声を発する度に糸が体に食い込んでいくように錯覚する。
実際に糸なんてものは僕の体には絡みついていない。だが、確かに、糸があるんだ。糸が肌に食い込んでいく。強烈な痛みを伴い、身が避けそうだ。糸鋸の刃が押しては引いていくように、ゆっくりと、確実に、切られるような痛みがある。手首が、足首が、首が、痛む。
「あなたが『邪魔』と言ったものは、こちらで預かっている。あなたのことを恨んではいないし、存在すら忘れているとも言える。根暗の眼鏡少女がどうして狂ったと思う? それは、見てはいけないものを見てしまったから。心が狂気に耐え切れず、あの日の少女に刃を握らせた。犬がどうして飼い主に噛みついたと思う? それは、失いたくないものを護りたかったから。早く逃げられるように、注意を促そうとした。どちらも狂った根本は、逃げたかったから。何から逃げたかったか? あなたはわかる? あなたはもう知っているはずだけれど、知らないはずをしている。そして、あなたの願いは、自分を邪魔する者を消してもらうこと。どうして、一番簡単な方法に気付かない? どうして、あなたは、自分が世の中の邪魔になっているとは思わない? 自分の邪魔をする者を消すより、世界の邪魔になっている自分を消したほうが、時間も、労力も、最小限で済む。それだと言うのに、とても面倒な願いをした。あなたは時間を失う。等価交換として、彼女は『時間』を要求した。つまり、あなたは『自分の邪魔をした者』に残された時間も奪っている。等価交換なのだから、あなたは……どうやって時間を支払う?」
情報が流れ込んでくる。
脳に一斉に鮮明な映像を感じる。見えるはずのない映像が食い中に浮かんで見える。
紺碧色の瞳をした男は布越しに鏡を撫でて薄く笑う。
嘲笑っている笑みだった。全てを見下したかのような、笑みだった。
「では、問おう。生きるか死ぬか、あなたが選べるものはひとつだけ」
僕はまだ死ぬわけにはいかない。
よく
彼女が願いを叶えてくれるならば、目の前にいる得体の知れない者も消してくれるか?
「僕の邪魔をするな」
「……こやけに、助けを求める? それは……うん。悪い判断ではないと思う。この場に於いて、彼女だけが俺に対抗できる勢力であることは、あなたが一番よく知っているはずやから。しかし、あなたは知っている。彼女は、あなたの願いを叶えないことも。あなたは知っている。精霊は気まぐれだと言うことも。ここまで言えば勘の良いあなたなら
「邪魔をするな! 僕はまだ死ぬわけにはいかない! 僕の、邪魔をするなぁああ!」
僕は頭を抱えながら大声で叫ぶ。
窓が風でガタガタ……、不気味な音を鳴らしている。
目の前の男は、紺碧色の瞳に星をまたたかせながら薄く笑った。手の甲で僕の頬を撫でる。
「なるほど、な。こやけが気に入るはずやね。反応こそが、すべて。では、俺は引き上げよう。くれぐれも、雨の日は鏡から布を外さないようにすることやね。そうでないと、俺のような良くないものも混ざりこんでしまう。クククッ、あは、あっはっはっはっはっはっは!」
笑い声を残して、男は姿を消していた。
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