第5話
家へ入り、自室へ急ぐ。カーテンを開けば、美しい夕焼け。血のような残照が雲を溶かしていた。遠くを飛ぶ鳥が真っ黒い影で見える。僕は鏡を覆っていた布を落とした。
鏡の中から、手が伸びてきた。
伸びた白い手は、縁を掴んでずるり、ずるり、と、その姿を表へ引っ張りあげてくる。
耳障りな音と共に、こやけが姿を現す。
背中に顔が向いている。彼女は自分の頭を両手で掴み、ごき……っと鈍い音を立てて首を回した。
「あなたの時間をほんの少し余分に消費いたしましたが、またお会いできましたね。ウフフ」
「きみが……僕を護ってくれたんだろ?」
「サテハテ? 何のことでしょう?」
「今日は、奇妙なことが二件あった。一つは、学校の教室で根暗女が発狂した。もうひとつは帰り道で犬が飼い主に噛みついた。僕の思ったことが、そのまま起こったんだ。きみが何かしたんだろ?」
「偶然でございましょう。しかし、偶然に偶然が重なれば、それは必然とも成り得るのでございます。
それはまるで朗々とした歌曲のようだった。踊るように彼女は両手を広げ、くぅるり、くるりら、廻る。
そうして廻った後に、僕に微笑みかけた。
猛毒を含んだ美しい笑みだった。
「本日のあなたは運が良い。拝み屋に会ったのでしょう。彼の匂いがぷんぷんいたします。あの白檀の強烈な匂いは、強く、強く! あなたのちっぽけな脳に刻まれたことでしょう。マア、それはどうでも良いのでございます。拝み屋は
「鏡を見るな。割れって」
「あァらまあ、ソレハソレハ……、無理な相談でございますね。それはさておき、あなたは私に助けを求めているように感じられました。そうですね? そうでございますね? ならば、私は助けてさしあげるのでございますよ。ソウルくん、あなたのお気に召すように!」
こやけに名前を呼ばれる度に、体に巻き付いた透明な糸が肌に食い込んでいくような感覚がする。
いつかこの糸は僕の体をバラバラにするのではないかとまで妄想してしまう。
その妄想に少なからず興奮して、気分が昂った僕は性器を膨張させていた。
「オヤア? 下半身がお元気でございますねえ。元気なのは良いことでございます。反応が無いと、退屈になってしまいますからね。では、真面目にお話しましょうか」
そう言うと、こやけは鏡に布を被せた。
「この鏡が繋がる先について教えてさしあげましょう。これは、
こやけは歌うように言葉を紡いでいく。
聞いているだけで心が落ち着いて浄化されてしまいそうな声だ。
透き通っているのに、どこか不審な影が見える。かと言って、汚くよどんでいるわけではなく、ほとんどが光に近い。どう表現すれば良いのかわからない。高潔さまで兼ね揃えた燃え上がる焔を宿した瞳がこちらを見やる。クスッ、と小さく笑ったかと思えば、くるぅり、と回る。その独特の――行動にどんな意味があるかもわからない――不自然すぎる行動に、僕は心を鷲掴みにされ、砕かれていた。何故だかわからないが目を離さずにいられない。彼女の動きひとつひとつに何らかの意味があるかのように錯覚してくる。実際には何も意味などないかもしれない。これは全て幻覚を見せられているのかもしれない。僕に絡みついた糸が引き絞られていく。苦しい、胸が。
「あはあは! 何か思い悩んでいらっしゃるご様子。私ならば、あなたを救えますよ。何かを失わずにして何も得ることはできませんが、あなたは私に代価を支払えば、それ相応のものを得ることができるのです。もうとっくに心は決まっておいででしょうが、今一度尋ねておきましょう。私に助けてほしいですか?」
「助けてくれると言ったろ?」
「はい、ハイ。言いましたとも! では、私があなたを助けるにあたり、代価を頂きましょう。時間でございます。物品や金銭は必要ありません。時間だけを頂きます。あなたは時間を支払って、私の加護を受けることができるのです。夕焼けの精霊の加護を受けることができるのでございます。こんな
「僕を助けてほしい」
「助けてさしあげますよ。
「助けてほしいんだ」
「具体的な内容を示して頂かないと困るのです。私もそこまで優しくないのです。助けてほしい内容を具体的に話すのです。犬の散歩は嫌なのですよ。猫のエサやりも願い下げでございます。虎を飼い慣らすぐらいなら喜んでするのです。では、張り切って、願いをどうぞ」
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