第126話「深紅の残像」
参加者控室から出て、しばらく歩いた先にあるステージ裏付近の森のような雑木林で待ち合わせをした。
俺がその場に立ち、彼女が訪れるのを一人待っていた。
真夏の午前中の森の中は、湿度が高くむせ返るほどの新緑の匂いがした。
見上げた空は、日が昇り始めた快晴だった。
そこに、一人の少女が歩み寄る。
アリサは、うすく笑みを浮かべている。
夏らしい白いワンピースと、紅い髪色が合わさって鮮烈な印象を与えた。
「お疲れ、セイジ。もうすぐ本番だよね、準備はいいの?」
アリサは、いつもよりも幾分おとなしい声音でそういった。
「ああ、もうすぐリハが始まる。……本番の前に、どうしてもアリサに言っておかなきゃいけないことがあるんだ」
俺は、極力平静を装って口を開く。
けれども、そこから出てくる声はどうしたって、重苦しく感じてしまう。
新緑の木々に囲まれ、はるか遠くに会場の喧騒が聞こえる。
俺とアリサは少しばかりの距離を開け、お互いの顔がはっきり見えるように向かい合って立っていた。
「うん、どうぞ」
彼女は両手を背中で組み合わせながら、そう促した。
俺は頷き、言葉を続ける。
「……俺は、アリサとのユニット、『Umu』の活動が出来て本当に良かったと思ってる。音楽的にも俺の視野は広がったし、色々な刺激を受けてこれまでには作れなかったような『Jellyfish』という曲も生み出せるようになった」
このネクスト・サンライズ最終審査用に書き下ろした最新曲は、アリサがいなければ作ることはできなかっただろう。
そして、間違いなく最高傑作の曲となった。
「だけど……」
「待って」
俺がその言葉の続きを言おうとすると、アリサは顔を伏せたまま、声だけで俺を制した。
「今日で、『Umu』は解散しよ」
アリサは、地面を見ながらそう言った。
俺はその様子を目に焼き付けるように、視線を逸らさなかった。
そして、表情の見えない彼女が言葉を続ける。
「……アタシたちはそれぞれのバンドがあって、活動に支障が出るようなら解散する。アタシもバンドの方が忙しくなっていくだろうし、セイジも結構無理してたんでしょ。最初に決めていた約束通り……だからさ」
「……すまない」
俺は解散することに対してでは無く、その言葉を彼女に言わせてしまったことに対して、申し訳なかった。
「ただ、これだけは言わせてくれ。俺は……俺は本当に……アリサとこの半年間、『Umu』として活動できたことを嬉しく思う、誇りに思う。そして……」
俺は息が詰まりそうになって、大きく深呼吸をした。
まだ、伝えなければならないことは半分も伝えていないのに。
俺の胸は、鼓動は、暴れまわって上手に言葉が出てこない。
「そして、有紗はたくさんの”初めての感情”を、俺にくれた」
活動期間にしてみれば、時間は短かったかもしれない。
だけど思い返せば、俺の部屋で2人で作曲したことや、創作テーマを探しに街をぶらついたこと。
インスピレーションを得るために水族館へ行ったこと、そしてそこで2人の写真を撮ったこと。
その思い出のどれもが、俺にとっては初めてで、嬉しくて、楽しくて、愛おしくて。
心安らぐ瞬間だった。
本当に、永遠にその場に留まっていてもいいとさえ思った。
何もない深海で、二人でひっそりと声を潜めて暮らすのもいいと思えた。
でもそう感じる程に、俺の感情は残酷なほどに、浮き彫りになっていった。
俺自身が気付かない振りをしていても、心の奥のほうでは、本当の気持ちに気づいていった。
本当の自分の気持ちと向き合わなければいけないと、思うようになっていった。
「本当に、今までありがとう」
俺は精一杯の、持てる誠意を尽くして頭を下げた。
「なーんで、感謝されなきゃいけないんだか」
伏せた俺の頭の上に、今度は彼女の声が降り注ぐ。
それは、努めて冷静で、何気ない日常の声だった。
「アタシが勝手にユニットを結成して、勝手に解散を決めたのにさ。それに、バンドはお互いこれからも続けていくんだし、同じ街に居るんだからこれからもライバルなのは変わらないんだからね」
俺は顔を上げる。
この場に来た時と同じように、うすく笑いを浮かべた彼女の顔が、そこにはあった。
「……ああ、そうだな。俺たちはライバルだ。これからも、同じステージの上で競い合い、切磋琢磨し合って、そして最高のロックを鳴らしあおう」
「あったりまえじゃない。あんた達なんかには負ける気は無いんだから。ほら、さっさと行きなさいよ。最高の舞台が待ってるんでしょ。こんなところで油を売ってないで、本番に向けて集中したら?」
「あ、お、おう」
「さ、行った行った」
そう言って、彼女は俺の後ろに回ると、追い払うように俺の背中を押した。
俺はその勢いに促され、再び楽屋へと歩を進める。
俺はこの瞬間。
もう、振り返らないと心に誓った。
だから、いままで本当にありがとう。
そして、さようなら。アリサ。
俺は、目頭に溜まる水分が溢れないように必死に目を開けて空を見上げ、そのまま決して足は止めなかった。
頭上にある目を焼き尽くすほどの鮮烈な太陽は。
俺の視界にいつまでも、深紅の残像を残していった。
こうして、俺とアリサのユニット『Umu』はこの瞬間をもって解散した。
◇
彼が去った後、アタシは一人、木に背をもたれかけた。
今日は、サキとカズキと一緒にRISE・ALIVEを観戦する予定である。
先程まで一緒に会場に入り、彼からのメッセージを受け取った後、2人と別れた。
ライブがスタートするまで、もう暫く此処に居たい。
するとその時、枝を踏み締めたような足音が聞こえ、アタシは驚き振り向く。
そこに立っていたのは、サキとカズキだった。
「ごめんね。私だよ」
アタシの視線に気がついたカズキが、いつものように平坦な声音で言う。
「あ。いや……どうしたの、二人とも」
アタシはきっと、露骨に落胆した顔をしてしまったのだろう。
この後に及んで、『もしかしたら』を期待してしまうなんて。
そんな感情は、とうの昔に捨ててきたはずなのに。
本当に、アタシらしくない。
一体誰のせいで、アタシらしくなくなってしまったのだろう。
「どうしたの、はこっちのセリフだよ、そんな顔して」
「どうもしてないよ、ちょっと……1人になりたかっただけ」
その時、カズキはアタシに抱きついた。
お互いの顔が、見えなくなる。
アタシはカズキの数歩後ろに立っていたサキと目が合った。
「どうしたのさ……急に、抱きついたりなんかして……」
カズキは何も言わず、強く抱きしめてくれる。
「アリサ、ごめん。私たち、さっきのやり取り聞いちゃってたんだ。真剣な顔をしてどこかへ行くから、心配になって着いてきたの」
サキが、心底申し訳なさそうに眉を下げて言った。
「だ、だからどうかしたの? アタシから解散しよって言ったんだよ……最初から、そういう約束だったんだ……別に、別にユニットが無くたって……アタシたちはライバルだから……またいつでもライブハウスで会えるんだから……」
だから悲しくなんかない。
つらくなんかない。
なのに、なのに何故。
頬を伝う涙は止まらないんだろう。
喉から溢れる嗚咽は止まないんだろう。
どうしてこんなにも、胸が張り裂けそうなのだろう。
心の中に、ポッカリと穴が空いたように。
どうしてこんなに切ないのだろう。
アタシは、堰を切ったように大声で泣き声を上げた。
まるで、子供のように。
カズキの胸に抱かれて、アタシは泣いた。
「大丈夫、大丈夫だよ……私が、私たちがいるから」
そうやって、アタシの背中をポンポンと優しく叩くカズキの手は震えていて、彼女の声にも湿り気が混ざっていた。
「うっ、うう……解散しちゃった……」
悔しい、寂しい。
アタシとカズキの二人を抱きしめるように、サキが抱擁して2人の頭を撫でた。
あの夏まつりの日に彼が倒れ、お見舞いに行ってお粥を振る舞った後日。
アタシはもう少し栄養のあるご飯を作ってあげようと思い、食材を両手に抱え彼の家へと向かった。
その日、彼の家のドアの前に立った時に、中から歌声が聞こえてきた。
彼の家はお世辞にも防音性が高くなく、普段から練習している音が外に丸聞こえだった。
だけど、この日歌っていた曲を、アタシはこれまで聞いたことがなかった。
アタシの知らない歌。
この曲は、きっとアタシに向けた歌じゃない。
そう思った瞬間に、アタシはドアノブに伸ばした手を止め、来た道を引き返していた。
今でも頭から離れない。
アタシの知らない曲を歌う、セイジの声が。
もしも願いが叶うのなら、あの一枚の写真の中に戻りたい。
2人で照れながら、海月の水槽の前で撮ったあの時間の中に取り残してほしい。
だけど、そんなことはもう口にしない。
だって、そんなのアタシらしくないから。
この三人のバンドを結成したあの時、前を向いて突き進んでいくって決めたから。
アタシには、ロックがあるから。
「いつか、いつか絶対に後悔させてやるんだから……世界一のギターボーカルになって、アタシを取り逃がしたことを後悔させてやるんだから」
アタシは、嗚咽が混じっても気にせず、これからの決意を口にする。
「うん、うん……頑張ろう、私たちなら出来るよ」
カズキもアタシと同じくらい泣いていて、お互いの肩はもうすっかり濡れていた。
「いつか、泣いて謝ったって、もう遅いんだから」
アタシは、サキとカズキと共に、森の中で誓う。
泣き言を言うのは今日、この瞬間だけ。
次の瞬間からは、また走り出すんだ。
自分でも驚くくらい、今は曲が書きたい。
今ならどんな夢のようなフレーズが降りてくるんだろう。
どんな素敵な歌詞が書けるのだろう。
とってもとっても悲しいはずなのに、だけどワクワクしているんだ。
もしも、アタシが世界一のミュージシャンになって。
それでアイツが後悔して、泣いて縋ってきたとしたら。
その時は。
まあちょっと考えてやってもいいかなって、言えるようになってやる。
森の向こう、大きなステージの聳える会場からは。
ライブが始まった音が聴こえた。
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