第122話「温もり」
何かを掴んだ。
俺はきっと、今聞いたメロディが頭の中から無くならない内に、ベースのネックを握り作曲活動をしなければならない。
咄嗟に掴んだそれは、しかし柔らかくて温もりがあった。
「あれ……」
俺は半ば寝ぼけながら目を見開き、視線を上げると、驚いた眼鏡越しの瞳とぶつかった。
「わ、セイジ、おはよ。すごい熱でうなされてたけど大丈夫?」
いつの間にか、再び俺の調理実習で使ったエプロンを装着したアリサは、俺のベッドの脇に腰掛けていた。
ここは俺の部屋。窓の外は明るく日が昇っている。
もちろん、よく知る天井だ。
「……えっと、どういう状況だっけ」
俺は、まだうっすらぼんやりと重い頭を振ってこれまでの経緯を考える。
「夏まつりでライブを見に来てくれてたでしょ? 最後にみんなで花火を見ようってなった後に一回解散して。それで途中で急に体調が悪そうになって、ぶっ倒れて大変だったみたいよ。結局コンタとホータロをあの子が呼んで家まで運んで」
アリサもその場には居なかったようで、状況を後から聞いた様子だった。
「ああ……」
俺はあいまいに頷く。
そういえば、そんな状況だった気がする。
俺は朧げに、サラと一緒にいてぶっ倒れた後にも救急車は呼ばなくてもいいと言って家に帰ろうとした記憶がある。
「一応意識はあるみたいで受け答えはしてたし、とりあえず家に連れて帰ってきたんだって。その後は丸一日寝てて全然起きなかったらしいよ。そして今日アタシが様子を見にきたら、チサトから『看病しといてー』って丸投げされちゃって。とりあえず、うなされているセイジを眺めてた。ほんとにもう大丈夫?」
「ああ、まあ、たぶん。……花火、見に行けなかったんだな」
俺はまだ微熱が残るのを感じながらも、ピークは去ったのだと悟る。
「まあそこはみんなも、別にそんなに気にしてないから。簡単なお粥作ってあるから、温めてくるね」
そういうと、アリサは立ち上がった。
そこで、俺の手がまだ彼女の手首を握っていたことに気が付く。
俺はそっと手を離すと、彼女はそれ以上何も言わずに台所へ向かった。
俺は再びベッドに沈み込み、少し反省する。
確かに、今までは気づかないふりをしていたが、身体的にも精神的にもかなり追い込んでいた。
ネクスト・サンライズの本番に向けたバンド練習、アリサとのユニット活動、橘のバンドの講師などなど色々やっていた気がする。
その疲労を忘れてしまうくらい、頭は一杯いっぱいだった。
オーバーヒートしてしまった体を、いったん休める必要があったのだろう。
「一応、言っておくけど。昨日まではずっとあの子がそばで様子を見てたみたいよ。チサトがずっといられるわけじゃないからね」
アリサは台所で鍋を温めながら言った。
ぽつりと小声で、「言わないとフェアじゃないもんね」と付け足した気がする。
しばらくして、立ち込める出汁のいい匂いがするお粥をアリサが持ってきてくれた。
アリサは不敵な笑みを浮かべ、「あーんしてあげよっか?」と聞いてくるも、熱々おでんのように口に放り込まれる未来が容易に想像できたので遠慮しておいた。
俺がハフハフしながらそれを頬張っていると、アリサは俺のベースを勝手に持ち出し、部屋の隅で三角座りをしながら弦をもてあそぶ。
「そんなにセイジも追い詰められてたんだね」
アリサは、独り言のように呟いて、ベースで『茜色の手紙』のコードをなぞっていた。
「……まあな、大舞台に気合も入るし、不安にもなる」
俺は、初めて食べたはずなのにほっと落ち着く味わいだった、もう空になったお粥の椀に視線を落としながら答える。
手のひらには、まだじんわりと温もりが残っている。
「大丈夫だよ、心配しなくても。たとえセイジたちが優勝できなくても、アタシはずっと変わらずにここにいる。……また来年、花火を見に行こうよ」
そう言うとアリサは立ち上がってベースをスタンドに戻し、俺から椀を回収して台所へ向かった。
すっかり慣れた手つきで水道の蛇口をひねり、洗い物を始める。
俺はその背中を見やると、改めて手を伸ばしベースを握った。
まだ、ハッキリとあの感覚は残っている。
たぶん、大丈夫だ。
俺はスマホの録音ボタンを押し、アリサが後始末をしているわずか数分の間に、”あのメロディ”を形に残した。
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