第64話「周りに気を遣うことなく自由に走り出せたら」
◇
私の名前は、川上理科。
サイエンスの理科がそのまま名前になっている。
昔から人前で何かをするというのが苦手で、いつも誰かの後ろにそっと隠れるような性格だったし、親の方針でおさげ髪を幼少の頃から貫いているし、黒縁の大きなメガネのせいからか、周りからは地味子という印象を持たれている。
そんな自分を少しでも変えたくて、高校ではクラスの委員長に立候補した。
それからは、クラスメイトからは委員長と呼ばれるようになり、印象が変わったの変わっていないのか、正直よくわからなかった。
こんな、インタールードにも満たないノイズの自分には、ほとほと嫌気がさす。
私の手元には、進路希望調査票と書かれたA4サイズのプリントがある。
たかがこの紙切れ一枚が、私の将来へのチケットだとでも言わんばかりに、存在を主張している。
父は大手製薬会社に勤務しており、母は塾の講師であった。二人は高校の同級生で、同窓会で再会したことがきっかけとなり、結婚したのだという。
私は、両親から勧められた国立大学の理学部の名前をその紙に書いた。
その紙を見るたびに、私の胸の内には寒々しい風が吹き、心がざわざわする。
心が落ち着かないそんなときは、私は放課後に寄り道をする。
両親は仕事で夜遅くまで帰宅しない。
両親の帰宅時間までに、家に帰り夕食と入浴を済ませておけば何も言われない。
私は、下校ルートである河川敷のある川の側を歩き、とある大きな橋の横の路地に入る。
そこには、小さな公園がありその先へ進むと、ポツン取り残されたような一軒の古民家がある。
洋風な古民家は、白い外壁に赤茶色の三角屋根が印象的で、まるで海外のおとぎ話に出てくるお家みたいで、私はとても気に入っていた。
その板チョコみたいな扉を開けると、中は純喫茶店だ。店内に客は誰もいない。
少し気難しそうな老紳士が営む喫茶店兼雑貨屋である。以前、店名を尋ねたが『そんなものはない』という回答があった。
私はこの場所の常連である。
初めて来たときは、入る店を間違えたと後悔したものだが、老紳士の気兼ねない雰囲気や、普段は周囲の人に気を遣いすぎて気疲れしてしまいがちな自分でも心地よい雰囲気に次第に慣れていった。
「おう、また来たのかい。いつものでいいね」
そういうと店主の老紳士は、ブレンドコーヒーとフルーツとクリームが挟まれたサンドイッチを準備してくれる。
学生特別料金で、三百円。正直、破格だ。
この喫茶店には外にテラス席が用意されており、そこが私の特等席だった。
店内にはいつも、海外の古いブルースのような曲が流れており、テラス席でもうっすら聴こえる。
私は詳しくないが、音楽に詳しい男子とかなら誰の曲だとか、わかるのかなあ。
このお店は雑貨屋も兼ねていて、店主が旅先で気に入った海外のお土産品などが並んでいる。
この店主は旅が趣味だということで、たまにふらりとどこかへ行っているようである。その際はお店が閉まってしまうのが残念だ。ちょうど夏休みの初めにも三日ほど閉まっていた時期があり、やきもきしたのを覚えている。
そして、常連である私は特別に、このお店に荷物を置かせてもらっている。
イーゼルとカンバスに、油絵具。
私の唯一の趣味といってもいい、油絵をここで描かせてもらっている。
ここから見える川と橋のコントラストが、私はとても好きだった。
今は、ここから見える景色の風景がを描いている。
私は、物心がついたときから絵を描くのが好きで、小学校の休み時間には常に色鉛筆と画用紙を持っていた。
中学では美術部で、本格的に絵に向き合い始めた。
でも、高校では部活には入らなかった。
受験勉強の為に、部活は控えた方がいいと両親が勧めたからだ。
私の志望校は、この近辺ではかなり偏差値が高く、遠くの地からも受験に来るほどの難関大学だ。
それゆえ、高校三年間は勉強に集中することを求められた。
お父さん曰く、この三年間の頑張りが、その後の人生の何十年も左右するという。
だから、後悔しないように全力を出そう、これは理科の人生の為を思って言っているんだ。という。
私だって、馬鹿じゃない。
お父さんがそういうなら、実際そうなのだろう。
だけど、それを認識するたびに、私の心はざわざわするのだ。
私の人生って、なんなんだろう。
他のクラスメイト達は、無邪気に放課後の時間を遊んで過ごしたり、部活動に一生懸命になっている。中には、学外でバンドみたいな活動をしている人もいる。
それなのに、私だけが、この喫茶店で隠れるように絵を描いている。
その時、店内に流れるBGMの曲調が変わった。
これまではどこか哀愁があって落ち着くブルースだったのが、急にアグレッシブなパンクロックに代わる。
私は筆を一旦止めその曲を聞いていると、なんだか体が温かくなってくる印象がある。
それまで、今描いている絵は夕方の少し寂しい雰囲気があったが、少し想像を入れて朝日に照らされている様子にしてみてもいいかなと思い始めた。
あれ……? そういえば、この声って。
記憶に引っかかる声を思い出した時だった。
「おおォ! 委員長じゃねェか!」
目の前に、ヤンキーみたいな恰好をした男子学生が現れた。
「きゃあ!?」
突然の登場に、私は柄にも無い悲鳴を上げてしまう。
「ワリィ、驚かせちまったなァ」
男子学生は、申し訳なさそうに頭を掻く。
「ら、蘭越君……? なんでここに?」
その彼は、私のクラスメイトであった。
彼の名前は、蘭越奉太郎。
見た目は、校則違反間違いなしのピアスを開けた耳、逆立った髪にガヤガヤした声。
紛れもないヤンキーで、問題児と聞いていたからクラス替え当初は彼の存在が恐怖であった。
クラス委員長になった後も、問題児の彼の面倒を見なければいけないかもしれないと思うと、不安がいっぱいだったのを覚えている。
「ん? 日課のランニングをしてたらよォ。なんか見覚えある人がいるなァーッと思って近づいてみたら委員長だったからよォ」
蘭越君は、皮のパンツに黒のタンクトップ、首にはネックレスというパンキッシュな恰好でトレーニングをしているという。
今では、彼がまったく暴力的でも攻撃的でもない、むしろ少し間の抜けたひょうきんなキャラクターだと理解している。
周りの生徒達は、彼をその見た目やちょっとおかしい言動から遠ざけるけれど。
私はむしろ、彼の本心にある優しい面が垣間見えるたびに、印象を良くしていた。
「にしてもスゲー絵だなァこれ。お前が描いたんだろ?」
「う、うん。まあね。でも全然大したことないよ」
彼は、私が書いていた絵を見つけて、しげしげと眺めている。
正直、クラスメイトや友人にはこの喫茶店のことも絵を描いていることも伝えていない。
けれど、蘭越君ならば、知られても全く問題ないと思っていた。だから別に隠すようなこともしなかった。
「そうなのかァ? オレ馬鹿だからよくわかんねェけどよォ。オレはすごくこの絵が好きだぜェ。コンテストとかで賞とかもらえるだろ?」
「そんな、賞なんて。生まれてこの方、一度ももらったことないし……」
そう、私は賞に輝いた経験など一度もない。
もしも、賞を貰ったりしていたら、両親も少しは考えを変えていただろうか。
「そうなのかァ。おっといけねェ。今日もスタジオ練があったんだァ。じゃあなー委員長! その絵、完成したら見せてくれよな!」
「う、うん……」
相変わらず、蘭越君は自由気ままだ。
私も、彼のように……いや、あんな感じになりたいわけじゃないけれど。
彼のように、周りに気を遣うことなく自由に走り出せたら。
この心のざわざわも無くなるのだろうか。
「あ、曲終わっちゃった」
蘭越君に気を取られていたせいで、さっき気になった曲の事を忘れてしまった。
でも、気が付くと自分の口の形が笑みを作っている。
生まれて初めてかもしれない。
絵を、見せてほしいと誰かに言われたのは。
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