1-5

 伊都いとが行ってしまってから少しの間、るいは座ったままぼんやりと東屋の屋根を眺めていた。

 先ほどまで伊都と触れていた肩はまだほのかに温かく、なんとも言えない甘やかな香りをほのかに残している。


「こんなところにいたのね」


 不意に声をかけられ振り返ると、そこには先ほど理事長室にいた乙子おとこ——確か、近藤こんどう真咲まさきと言ったか——が立っていた。

 先ほどはしっかりを見なかったから気づかなかったが、真咲も先ほどの伊都に引けを取らぬほどの美少年だ。


 真っすぐに伸びた黒髪は烏の濡れ羽のように艶やかで、日本人形のように前髪と両サイドの耳元がぱっつりと切りそろえられている。

 肌は白い、というにはあまりにも病的なほど青白く、ほっそりとした体形と相まって非常に不健康な印象を与える。しかし、それがまた髪型と相まって、どこか白昼に佇む幽玄の乙女を思わせた。

 向けられる眼差しは冷たい、というよりもどこか無機質で捉えどころがなく、こちらを見ているのか、あるいは自分の向こう側の景色を見ているのかわからなくなる。


「理事長からあなたの事を任されたの。勝手な行動はしないで」


 注意されているはずなのに、音にそのニュアンスがまったく感じられない。どこか機械的な印象を受ける声だ。


「あんたの指図は受けない。俺は俺のやりたいようにやる」


 累は警戒心をあらわにして立ち上がり、じりじりと真咲と距離を取った。先ほどは弱っていたところに優しくされたので油断したが、ここは自分の大事な人たちを傷付け、苦しめた奴らのいる場所。敵の巣窟なのだ。

 そんな累の様子を見ても真咲はまったく意に介さず、くるりと累に背を向けてしまう。


「私に従わないのは構わないけれど、この学園の利用方法がわからないと何かと不便よ。それでも良いなら、勝手にして」


 それだけ言うと、真咲は行こうとして「それと」と付け加えた。


「一人称は改めたほうが良い。他の人間、特に先生に見つかったら何をされるかわからないから」


 そうして、真咲はそのまま振り返る事もなくさっさと行ってしまった。


「……って、おい! 待てよ!」


 累はしばらくあっけにとられていたが、少し考えてから慌てて真咲の後を追った。確かに、まだ不案内な自分ではこの学園を抜け出すなんて不可能だ。施設の構造をしっかり覚え、どのルートなら逃げ出せるかを考えなくては。


「そのためには、今はあいつについていくしかない」


 指示に従うのは癪だが仕方がない——累は足早に東屋を出ようとしたが、ふとさっきまで自分のいたベンチを振り返る。

 私、ここでよく読書をしているの。——今は誰もいないベンチを見ながら、さきほどの伊都の言葉が、あのどこか儚げな声と共に脳裏によみがえった。


「また、会えるかな……」


 誰に言うでもなく漏れ出たつぶやきは、さらさらと波間を揺らす晩春の風にさらわれ消えていった。

 それから累はもうすっかり遠くに行ってしまった真咲の後を追って、今度こそ東屋を後にした。

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