大都会のリゾートビーチ、「サカタ・ゴールデン・マリン・ホテル」……その正式オープンを翌日に控えた夜、ホテルはここ二週間の賑わいが嘘のように静かだった。プレオープンを利用していた客の大部分が帰宅したためであった。今夜ホテルにいるのは、明日の準備のために残った従業員と、ごく一部の特別なお客だけだ。

 そんな静けさに満ちたホテルの、更に静かな地下の道路。ゴミ収集所に通じる扉の前に、塩野彰は立っていた。運送トラックなどが利用する地下への道路を利用してここまで来たのだ。警備員は居眠りでもしているのか、誰に見咎められることなく、ここまで来ることができた。見つかったときのために一応制服を身に着けてきていたが、それも無駄のようだ。このホテルの致命的なセキュリティの欠陥を、彰は体感した気持ちであった。

 扉の前で腕時計を確認する。約束の時間になると同時に扉が開き、その隙間から島崎大介が顔を覗かせた。大介は彰の姿を確認すると、怠そうな表情を浮かべたまま、

「一応確認しますけど……今日の件、手当貰えるんすよね?」

 いつもの調子でそう言った。変わらない大介の態度に彰は苦笑を浮かべる。

「そこは安心しろよ。ちゃんと出してやるから」

「ならいいっす」

 大介が後ろに下がり、できた隙間から彰は中に身を滑り込ませた。照明の設定は昼間と変わらないはずなのに、どこか薄暗く思えるゴミ収集所。雨宮暦がここで、自分のすぐ側で姿を消したことを思い出し、彰の顔に苦々しい表情が浮かんだ。

「……行くぞ」

 一言いって、ホテルに通じるドアに向かう。大介もすぐに後を着いてきた。

「でも本気っすか? あの社長が塩野さんの言うこと聞くとは思えないっすけど……」

「いざとなったらこいつで殴ってでも言うこときかせるさ」

 そう言って、彰は懐から取り出したタブレットPCを持ち上げて見せた。大介から借りたPCで、中には退職者のデータが入っている。昨日謹慎の辞令を受け取った後、彰はすぐにホテルを出て、姿を消した従業員たちの家を訪ね歩いた。大半は一人暮らしであり、ネットカフェを家代わりにしている者もいたが……それでも周りの住人から、ずっと家に帰ってきていないという証言を得ることはできた。彰はこれらをもとに社長を説得し、警察に通報させるつもりなのだ。一従業員の通報は無視できても、社長のものならそうはいくまい。ましてや、金治郎は金持ち相手のリゾート会社の社長だ。最低でも話を聞きに来るぐらいはするであろう。一度警察を動かすことに成功すれば、あとはいくらでもやりようはあった。

「そんなんだから出世できないんじゃないっすかね?」

 どこかぼやくような大介の声を無視して、ドアを開けてホテルに入る。短い廊下の先には大型エレベーターがあった。各階でまとめたゴミを運び込むためのもので、展望レストランにも通じている。そこから社長室まではすぐだ。明日の正式オープンに備えて、坂田金治郎は社長室に泊まり込んでいるはずだ。このエレベーターを使い、一気に社長室に押しかけるつもりだった。

「おい、行くぞ」

「う~す」

 大介と一緒にエレベーターに乗り込み、彰は二十五階のボタンと「閉」のボタンを続けて押した。台車の出し入れをやりやすくするため、前後に扉のついた業務用エレベーター。彰たちの後ろで、ゴミ収集所へと通じる扉がしまり、エレベーターが動き出し……すぐに一階で止まっていた。彰が疑問に思うよりも先に目の前の扉が開く。そこにいたのは、

「大丈夫だって! こっちからなら、人目につかず部屋まで行けるからよぉ!」

「えぇ~、ほんとに大丈夫なのぉ?」

 にやけた顔の三ヶ野虎夫と、虎夫より頭一つ分背が低い女だった。虎夫はなれなれしく女の肩に腕を回し、女の方もまんざらでもなさそうな表情を浮かべている。その二人の嫌らしい顔は、彰たちを見た途端強ばっていた。

 厄介なヤツにあった……彰がそう思うと同時に、虎夫の顔が真っ赤に染まった。

「なっ……てっめえ、塩野! お前、何してんだてめぇ!」

「いや……ちょっと落ち着けよ、三ヶ野」

「はぁ! 何言ってたんだてめぇ! 自宅謹慎はどうしたよ! 辞令読んだだろうが! どこまでバカにしてるんだてめぇはよ!」

 まずいところを見られたという自覚はあるのだろう、それを誤魔化そうとするかのように、虎夫はまとまりのない怒声を繰り返していた。女がその剣幕に怯えたように身を離したことにも気がついていないようだ。

「おいっ、ほんと落ち着けって! 別に俺はお前をどうしようとか思ってねぇから!」

「何だその上から目線はよぉ! お前、自分の立場分かってんのか! 社長の辞令無視してんだぞ! 平社員が社長に逆らってただで済むと思ってんのかよ!」

 自分の方が優位であると主張したいのか、虎夫は同じことを繰り返し怒鳴った。こうなるともう手はつけられない。いっそ無視して、エレベーターの扉を閉じてしまった方がいいかもしれなかった。

(いや、時間もないし、そうするべきか?)

 彰はそう思い、「閉」のボタンを押そうと手を持ち上げる。大介は隣であきれたように首を振り、女は「ちょっとやめなよぉ」とびくつきながら虎夫の袖を引く。そのすべてを無視して、

「こうなったらクビにしてやるからな! ぜってぇクビにしてやるからな!」

 虎夫は唾をまき散らしながら大声を張り上げていた。「クビだ! クビだ!」と一人で騒ぎ、

「ク……!」

 虎夫の首から上が、消え去った。突然のことに理解が追いつかず、彰は目を見張ったまま硬直してしまう。それは大介も、女も同じだった。呆然と頭のない虎夫を見つめ、

「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 女の悲鳴と、虎夫の首から血が噴き出すのは同時だった。

「――! 島崎!」

 女の悲鳴に我に返り、彰は大介の名を叫んだ。大介は女の腕を掴んでエレベーターの中に引っ張り込む。それを見るが早いか、彰は「閉」のボタンを連打した。

 エレベーターの扉が動く。間が狭まり、細い線へと変わり、その隙間から倒れていく虎夫の体が見えた。その向こうに、

「……嘘だろ、おい」

 扉が閉まり、エレベーターが上へと向かって動き出した。揺れるエレベーターの中に、女のすすり泣きが響く。だが女を気遣うだけの余裕は、今の彰にはなかった。それほどまでに信じられないものを、彰は見たのだ。

 首を無くした虎夫の体。そこから吹き出す血を浴びて、それはそこにいた。確かにいた。流線型の体に、人を一呑みにできるほどの巨大な口を持った、とてもとても大きな、

「……サメだ」


 ホテル三階はひどく薄暗かった。節電のため照明が弱められているからだろう。廊下に並ぶ診療所やエステティックサロンの扉はすべて閉ざされ、人の気配も感じられない。その扉の一つに寄りかかり、彰は重たいため息をついた。

 彰の隣では女――名前は筒井麻世というらしい――が膝を抱えて座り込み、肩を震わせて泣いている。その向こうには大介が壁に肩を預けて立っていた。さすがの大介も、今は青い顔をしていた。

「……塩野さん、あれ、何すか?」

 掠れ気味の声で、大介がそう聞いてくる。それに対し、彰は短くも確かな発音で返事をした。

「サメだ」

「いやいやいやいやっ、そりゃありえないでしょ! ここどこだと思ってんすか! ここ日本っすよ! しかも地上っすよ! サメなんているわけないっしょ!」

 途端、大介が壁から体を離し、必死の勢いで言い返してきた。大介も確かにあのサメを見たはずだ。だがとても信じられず……彰にそれを否定して貰いたかったのだろう。しかし、事実は変わらない。血煙に紛れ、その全体は見えなかったが、瞳に映ったあの特徴的な口先は、間違いなくサメのものだった。

「現実だ、受け入れるしかないだろ」

「……マジっすか……アメリカならともかく、なんで日本で……」

 力なく大介が呟く。彰も同じ思いだった。サメ被害が多発し、新種まで日々現れ続けているアメリカなら、地上にサメが現れてもおかしくはなかった。遂にそのときが来たかと思うだけだろう。だがここは日本だ。海とずっと上手く付き合ってきた島国。サメ事件だって海辺でしか起きていない。その日本の、よりによって大都会のど真ん中でサメに襲われるなど、いったい誰が想像するだろうか。

(行方不明になった従業員たちは、みんなあのサメに襲われたってことなのか?)

 きっとそうなのであろう。丸呑みにされてしまえば、死体だって残らない。行方が分からないのも当然だった。

(だが……じゃあ、あの女たちは……?)

 女――エレンたちはいったい何者なのか。それを考えようとした矢先、

「塩野さん……あれがほんとにサメなら、さっさと逃げた方がよくないっすか?」

 大介がそう言ってきた。社長室に行かず三階で下りたのは、無関係のこの女を逃がすためだった。それに、閉鎖空間であるエレベーターに乗り続けるのは危ないと判断してのこともある。大介はこのまま女を連れて、自分たちも逃げた方がいいと言っているのだ。

(……それでいいのか?)

 自分の身の安全だけを考えるなら、大介の言う通りだ。だがホテルの中にはまだ従業員も、僅かだがお客もいる。それに社長もだ。サメは獰猛で、その食欲は無限だ。今自分たちが逃げ出したら、あのサメはホテルにいる人間を全員食い殺してしまうかもしれない。彼らを見捨てて逃げてしまうことが、果たして正しい選択なのだろうか?

「塩野さん!」

 黙り込む彰に対し、焦れたように大介が叫ぶ。それに返事をしようと、口を開くよりも早く、

「――!」

 近くの扉が、突然吹き飛んでいた。対面の壁にぶつかり、廊下に倒れる。その上を踏みつけて……黒い装備で身を固めた集団が、廊下にあふれ出してきた。あっと思う間もなく、彰たちは集団に取り囲まれてしまう。突然のことに呆然とし……条件反射のように、突きつけられた銃に対して両手を挙げてみせた。

(次から次へと、まったく……)

 自分たちを取り囲む集団を見回し、胸中で嘆息する。そんな彰の前に、

「……まったく、何で君がここにいる?」

 集団を割って現れたのは、あの金髪女だった。隙の無いスーツを黒い防弾・防刃ジャケットに替え、手には大きな短機関銃を持っている。鋭い目つきのその女――エレン・ドゥが、彰の前に立っていた。

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