一番利口な選択は、すべてを忘れてホテルを辞めることだろう。何が起きているにしろ、首を突っ込んだところでいいことはなく、巻き込まれれば損しかしない。それがわかっていながらも、塩野彰はホテルを辞めることなく、翌日も翌々日も働き続けていた。

「ま、一応給料貰ってるしな」

 給料を貰っている以上、あんな社長であっても義理はある。それに、一緒に働いている人間たちにも。そうである以上、異常な出来事が起きているのに、自分だけ逃げようとは思わなかった。

「俺は逃げたいっすけどね」

 昼の休憩時。社員食堂の丸テーブルで、彰の反対側に座っている島崎大介は冷めた口調でそう言った。丸テーブルの上には、空になった食器と、大介の私物であるタブレットPCが置かれている。

「俺も正直、逃げてぇよ」

 タブレットPCの画面を見て、彰も苦笑を浮かべる。画面に映っているのは、大介が調べてきたホテルの退職者のデータだった。退職者そのものも非常に多いが、連絡無く姿を消した者も十人を越えている。明らかに異常な数であった。

「何でこんな事態になってるのに、誰も騒がないんだ?」

「いえ、一応人事部の方でもいろいろ調べたり、警察に連絡もしてるみたいっすよ。でも、警察の方で取り合わないらしくて……まぁ、アルバイトのばっくれなんて珍しくないと言われたらそれまでっすけど……」

「それにしたって、一つのホテルから短期間にこれだけ人が消えてるんだ。明らかに不自然だろうが」

「そうなんすけどね。ただ、うちのホテルも正式オープン直前に変な噂をたてたくないって思ってるらしくって……いなくなったのが客ならもっと大事になってるんでしょうけど、まぁ幸い、消えたのはアルバイトばかりっすから」

「ちっ……」

 社長である坂田金治郎の顔を思い出し、彰は舌打ちをした。確かにあの社長なら、従業員の命よりもホテルの評判の方を気にするであろう。ましてや、消えているのがアルバイトなら尚更だ。

「それで、女の方については何か分かったか?」

「分かったと言えば分かったすけど……」

 歯切れ悪くそう言いながら、大介がタブレットPCを操作する。画面が変わり、あの金髪女についてまとめた文書が表示された。名前はエレン・ドゥ。アメリカの通信会社の重役であり、視察旅行を兼ねて日本を訪れているとのことだが……

「……二十三、四階を全部貸し切り?」

「それも、最初の招待客をキャンセルさせてのことらしいっす」

 大介の説明を聞き、彰は低い声で唸った。初めて見たときからおかしな女だとは思っていた。だがここまでくれば、もう「おかしな」だけで済むことではない。

(いったい何者なんだ?)

 あれ以来、彰は女――エレンの姿を見かけていない。だがよく注意して見てみれば、他の客とは違う雰囲気の男たちがホテル内を歩いていることに気がついた。エレンと似た雰囲気の、隙の無い外国人の男たちだ。

 ホテルから姿を消した従業員たちと、ホテルに入り込んでいる謎の女と男たち。この状況で自分はいったい何をすればいいのだろう。給料を貰っている義理もあり、自分一人逃げるわけにはいかないと思ってはみても……事態を打開できる方法など思いつかなかった。

(結局、警察を動かす方法を考えるしかないのか?)

 だがそれもうまくいくものだろうか? あのエレンという女は、高給ホテル最上階を貸し切りにできるほどの力を持っているらしい。だとしたら、日本の警察にも顔が利く可能性だって充分ある。その権力で、捜査をかわすことも可能かもしれない。

(いや、ひょっとしたら既に……)

「あっ……」

 考え込む彰の前で、何かに気づいたように大介が顔を上げた。その顔は彰の後ろを見ている。釣られるように彰は顔を後ろに向け、

「げっ……」

 近づいてくる三ヶ野虎夫の姿を認め、うめき声を上げていた。虎夫の表情は上機嫌そのものだ。さぞ嬉しいことがあったのだろう。そして恐らくそれは、彰にとってはよくないことのはずだ。

「よぉ、塩野! 今日はいい日だなぁ!」

 丸テーブルの側で虎夫が足を止める。うんざりとした気分で彰は虎夫を見上げた。

「はぁ……なぁ、三ヶ野、今はちょっと……」

「そういや塩野! お前、お客様から苦情を頂いているそうじゃないか! ダメだぞ、お前! 清掃員だってホテル員なんだからな! お客様を不快にさせてどうする!」

 彰の言葉を遮って、半ば叫ぶように虎夫が言った。昼休憩の社員食堂には他の従業員もいる。彼らに聞かせるために、虎夫がわざと大声で言っているのは明らかだった。

 虎夫の態度に、彰は深くため息をつく。今はとてもではないが、虎夫の相手をする気にはなれなかった。

「ああ、そうだな……悪かったよ、今後は気をつけるさ。だから今は……」

「ああ、充分反省するといい、自宅でな!」

 虎夫が勢いよく、手にしていた紙を丸テーブルに叩きつけるように置いた。紙は広げられており、その文面は手に取らなくても読むことができた。彰はそれをさっと読み取り、

(……そうきたか)

 奥歯を噛みしめた。あの女は確かに、そうとうな力を持っているようだ。本来の客をキャンセルさせ、ホテル最上階を貸し切り、自由にホテル内を歩き回り、そして都合の悪い人間をホテルから追い出し、近づけさせない。それだけの力を持っている女なのだ。

「いやぁ、同期のよしみでよぉ、俺はちゃぁんと庇ってやったんだぜ。だがまぁ、それにも限度があってよぉ、他でもないお客様からの声じゃあ、どうしようも……」

 虎夫の声を聞きながら、彰はその紙を見つめていた。そこには短く、こう書かれていた。

『辞令 塩野彰を謹慎処分とする 以上』


 異常だった。これ以上ないぐらいホテルは異常な状態であった。息苦しいまでの焦燥感にネクタイを緩めながら、伊豆見春人は社長室へと向かっていた。先日、正式オープンの日を延期するよう進言してから、理不尽にもホテルから遠ざけられていた春人。今朝何とかホテルを訪れ状況を聞き……あまりのことに目眩がする思いであった。

(くそ! どうしてこんなになるまで放っておいたんだ!)

 最初から不具合のあったセキュリティシステム。無理をして使い続けたためだろう、深刻なエラーが発生し、もう半数以上が動かなくなってしまっていた。それと連動した防災システムにもエラーが起き、消防署への自動通報すら今では危うい状態だ。もし今災害が起きたら、どれだけの被害が出るか想像もできなかった。

 スタッフの状況も信じがたいほどに悪くなっている。人は減り続け、裏方の仕事は過酷になるばかり。見えないところの仕事はどんどん適当になり、客へのおべんちゃらが上手いヤツばかりが残っているという有様だった。

(だいいち従業員が行方不明になっているとはなんだ! そんな話、私は聞いていないぞ!)

 このホテルで働いていた人間が何人も姿を消しているという。もちろん、仕事が嫌で逃げ出しただけかもしれない。だがその数が十を超えれば、それは明らかに異常だ。事件や事故の恐れだってあるのだ。たとえ非正規でも、うちの従業員ならその安全を守ってやる義務が会社にはある。だというに、一度警察に言っただけであとは放置とは……あまりに有り得ないことだった。

(こんな状況では正式オープンなど無理だ! 何としても社長を説得しなければ!)

 ホテルの正式オープンは明後日だ。まだ明日一日ある。昼までにプレオープンのお客様をお見送りし、同時にマスコミ向けにオープン延期を発表すればいい。予約頂いているお客様へも順次連絡。プレオープンが予想以上に盛況で、そのため設備の点検が必要になったとでも言えば言い訳は立つ。会社へのダメージは避けられないが、それでも事故が起きるよりはずっとましなはずだった。

「社長!」

 と……廊下の向こう側から坂田金治郎が歩いてきた。スマートフォンを耳に当て、誰かと話しているようであった。

「社長! お話があります!」

 春人は慌てて金治郎に駆け寄る。その姿を見た途端、金治郎は露骨に嫌そうな顔をしていた。舌打ちするように口元を動かし、そっぽを向くように春人から顔を背ける。その金治郎の態度に傷つきながらも、春人は金治郎の前に立った。

「しゃ、社長……あの、お話が……」

「はい、はい! もちろんでございます。ホテルの設備は万全、きっと会長様にもご満足頂けること請け合いです!」

 だが金治郎は、春人を無視して通話を続けた。上機嫌な営業トークが廊下に響いた。

「社長! お話中、申し訳ございま……」

 春人を押しのけ、金治郎が廊下を歩いて行こうとする。それに追いすがり、春人は何とか話を聞いて貰おうとするが、

「――! 馬鹿者、見て分からんか! 今大事なお客様とお話ししているんだぞ!」

 返ってきたのは怒声であった。あまりの態度に、春人はその場で立ち尽くしてしまった。

「……あ! いえいえ、失礼致しました! 何でもございません! それでご予約の件ですが……はい、ご安心下さい。この坂田金治郎が責任をもってお迎え致しますので!」

 力なく立つ春人をその場に残し、金治郎が廊下を歩いて行く。その背中を見送って……春人は震える体を、壁に預けていた。春人にも自負があった。社長を、このサカタ・アミューズメント&リゾート株式会社を、秘書として支えてきたという自負が。そしてそれを、社長もどこかで認めてくれているだろうという思いが。それらの思いがすべて砕かれた気持ちであった。

「ああ……もう、おしまいだ……」

 廊下のガラス壁越しに、展望レストランではしゃぐ客の姿が見える。廊下にまで届く彼らの脳天気な声を、春人は虚しい気持ちで聞いていた。

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