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『本日はこれほど大勢の方々にお集まり頂き、この坂田金治郎、感謝の念に堪えません!』
巨大なプールの側に作られた台の上で、感極まったように声を震わせている太った白髪男。その男のスピーチを、
「ふわぁぁぁ」
塩野彰はあくびをしながら聞いていた。式典の参列者としては許されない振る舞いだが、自分がいるのは敷地の端の端だ。どうせ誰も見てやしないと、彰はもう一度大きなあくびをした。
『感謝すると同時に……これほど大勢の方々が私のホテルに期待されていることを知り、身が引き締まる思いでもあります!』
白髪男――坂田金治郎のスピーチにあわせて、台の周囲に集まったマスコミがフラッシュをたく。光の中心で金治郎はご満悦だ。そりゃ彼は気分がいいだろう。記者たちに注目され、招待客である華やかな芸能人や財界人に囲まれ、更に声一つで従業員たちを呼びつけて……その皆の中で本日の主役となれるのだから。だが気分がいいのは、主役とその近くにいる人間たちだけだ。端に置かれた引き立て役の従業員たちの気分は、逆に最悪と言えた。それはそうだろう、中には休みであるにも関わらず呼びつけられた者もいるのだから。貴重な自分の休みを潰されて、それを嬉しいと思う人間などいるはずがない。
「今日のこれ、休暇手当出るんすか?」
彰の隣に立つ若い茶髪の男――島崎大介がそう聞いてきた。今年の春大学を出たばかりの若者で、彰の部下だ。苛立ちを隠そうともしないその声に、
「ま、そこは安心しとけ。ちゃんと出してやるから」
苦笑混じりに彰はそう答える。
「……なら、いいっす」
そう言って、大介が頷いた。顔から不平不満の表情は消えていないが、それでも一日付き合うと決めたらしい。今どきの若者らしく、敬語もろくに使えない大介であったが、根は意外に真面目であった。無断欠勤はしないし、手当さえ出せば休暇中の出勤も残業も厭わない。そんな大介を彰は気に入っており、また頼りにもしていた。あくびを隠そうともしない自分や、台の上で自分に酔っている白髪男よりもずっと上等であろう。
『思えばこの十数年間は、私たちにとって苦難の日々でした。海洋汚染やサメの異常増殖によって、人は海から追われ、砂浜で当たり前に遊ぶ権利すら奪われてしまったのです』
大仰な身振りを交えながら、金治郎はスピーチを続けていく。確かに、サカタ・アミューズメント&リゾート株式会社の社長である彼にとっては、この十数年間は苦しい毎日であったことだろう。海の異常によって海水浴客が激減し、そのために海辺のリゾートホテルをいくつも閉鎖しなければならなくなったのだから。
『私の元に毎日のように届く人々の悲しみの声、海を愛する人たちの言葉の数々! それを聞いて、私は決心したのです! 浜辺で遊ぶあの楽しい日々を必ずや取り戻し、私のお客様たちにお届けしようと! そのプロジェクトの第一弾が、この「サカタ・ゴールデン・マリン・ホテル」なのです!』
「……ださ」
金治郎の言葉に対し、呟くように大介が言う。それと同時に、金治郎の背後に置かれた巨大なボードから布が落ち、ボードに描かれたホテルの絵が露わになった。緩やかに弧を描くホテルの建物と、その前方の広大な敷地、そしてその中に作られた巨大なプール。サカタ・ゴールデン・マリン・ホテルの全景が、そこには描かれていた。
『大勢のお客様をお迎えする、地上二十五階のホテル。一、二階のショッピングモールに、三階は診療所やエステティックサロンなど、様々なサービスをご用意しております。地下一階はレストラン街、またホテル最上階は展望レストランとなっておりまして、世界各地のお食事を楽しむことができます。展望レストランに併設された開放的なスカイテラスでは、高層の澄んだ風と一緒にお茶を楽しむこともできます。ですが! もちろん最大の自慢は、この巨大プールです!』
金治郎がばっと手を動かし、側のプールを示す。広いプールの端には人工の砂浜が作られ、そしてプールの水は海のように波を作っていた。
『在りし日の海を模したこのプールの美しさを御覧下さい! 澄んだ水に穏やかな波。砂浜で日光浴を楽しめば、この大都会のど真ん中でリゾート気分を存分に味わうことができるのです!』
「いや、金あるなら素直に旅行すればいいじゃないっすか」
冷静な大介の突っ込みに、つい彰は吹き出してしまっていた。彰自身も同感だった。遠出するでもなく、都心の高いホテルにわざわざ泊まることの意味が彰には理解できなかった。安全に海水浴を楽しめる浜辺もまだわずかだが残っている。どうせ金があるのなら、素直にそこへ行けばいいのにと思ってしまうのだ。もっとも、こういった無駄なところで贅沢を楽しむのが、金持ちというものなのかもしれなかったが。
金治郎のスピーチの合間合間に、マスコミのフラッシュがたかれ、拍手が繰り返される。それに笑顔で応えながら、金治郎は締めの言葉を唾と一緒に吐き出していた。
『皆様、誠にありがとうございます! 「サカタ・ゴールデン・マリン・ホテル」は、いよいよ二週間後、正式オープンとなります! 何卒ご贔屓下さいますようお願い致します!』
金治郎が一礼し、大きな拍手が湧く。あわせて彰も形だけ拍手をしながら、この後の仕事のことを思ってげんなりとしていた。お披露目の式典が終われば、マスコミと招待客は帰るだけだ。だが従業員にとっては……特に清掃員である彰にとっては、この後がむしろ本番だった。人の出入りで散らかったこのプール周りの掃除が待っているのだ。
「今日からここが、俺たちの職場かぁ」
「元のホテルに戻りたいっすねぇ」
ぼやくように彰が言えば、大介もすぐに同意する。数日前まで二人は、閉鎖寸前のビジネスホテルで働いていたのである。一応サカタ・アミューズメント&リゾート株式会社に属するホテルではあったが、こことは比べものにならないほど狭く、だがそれ故に楽な職場であったのだ。
後頭部をかきながら、彰はプールの周囲に視線を走らせる。その広さに改めてうんざりとし、
「……げっ」
近づいてくる男の姿に気づいて、思わずうめき声を上げてしまった。大柄で角刈り頭の、スポーツマンの出来損ないみたいな見た目の男……彰と同期である、三ヶ野虎夫であった。もっとも向こうは出世街道を歩いており、場末のホテルや施設ばかりに回されていた彰が虎夫と同じ職場で働くことは、今までほとんどなかったのであるが。
「久しぶりだなぁ、塩野! まさかまた一緒の職場で働けるとは思わなかったぜ!」
彰の側まで来るなり、虎夫は嫌みな笑みを浮かべながらそう言った。そして、わざとらしく胸を反らし、襟につけられたバッジを見せびらかすように突き出す。そのバッジの色は金。一階のフロアマネージャーであることを示す色だった。
「そっちのお仕事は順調のようだな、おめでとうさん」
自慢げな虎夫に、彰は嘆息混じりに言う。
「いやいや、日々真面目に働いてきた結果というものさ! で、塩野の方は……おやおや、まだ清掃員なんかしてたのかぁ! 相変わらずだなぁ!」
彰の襟のバッジ……茶色の清掃員のバッジを見て、虎夫は愉快でたまらないといった笑い声を上げた。
「いかんなぁ塩野、同期として情けないぞ! お前ももう三十半ばなんだからさぁ、いい加減清掃員っていう歳でもないだろう!」
「あー……まぁそうだなぁ……」
「まぁいいさ、これからは俺も一緒の職場だからな! お前が少しはまともになれるよう、ビシバシ指導してやるからな!」
「そうかい……ま、お手柔らかに頼むよ」
上機嫌で言うだけ言うと、虎夫は足取りも軽く、彰から離れていく。その背中を見送って、彰はまた嘆息した。どういうわけか虎夫は、入社した頃から彰を目の敵にしているのである。同じホテルで働いたときは、何かとちょっかいをかけてきて、時には仕事の邪魔をすることさえあったのだ。知り合いから聞いた話では、虎夫は金治郎の遠縁の親戚ということであり……コネで入った負い目もあって、試験を受けてちゃんと入社した彰を嫌っているのでは、ということだったが……
(……それで嫌がらせをされるというのも、迷惑な話だな)
彰自身は虎夫を嫌ってはいないし、出世にもまるで興味は無かったが……だからといって、虎夫の態度を不愉快に思わないわけではない。これからのことを思えば、憂鬱の種が増えた気分であった。
「塩野さん、変わった友達いるんすね」
側で成り行きを見ていた大介が、どうでもいいといった口調でそう言った。そのあまりの淡泊さに、
「……まあな」
彰は苦笑気味に、そう言うしかなかった。
……深夜の高速道路をトラックで走りながら、浜野剛はCDの曲にあわせて体を揺らし、ハンドルを叩いていた。曲は、剛が最近好きになったアイドルグループの歌だった。軽快な曲にあわせて、甘ったるい声が甘酸っぱい詩を歌い上げている。テレビで踊っているところを何度か見たが、外見も声に負けず劣らず可愛いものだった。
(またライブにも行きてぇよなぁ)
剛は大のアイドル好きだった。学生の頃はいくつものグループを掛け持ちで追っかけ、ツアー全公演に付き合うことも当たり前だったほどである。三十路を越えた今は仕事が忙しく、こうして長距離トラックの車中でCDを聞くことぐらいしかできないが、今だって気持ちだけは現役のままのつもりであった。新しいアイドルのチェックは欠かしていないし、曲を聞けばコールや振りだってすぐに思いつくのだ。そう、こんな風に、
「フッフッフ、フー!」
曲がさびに入ると同時に、剛はそう声を出して片手を振り上げて、
「うぉ!」
その瞬間、トラックのライトの中に人影を見つけて、慌ててブレーキを踏んでいた。だが、とうてい間に合うだけの余裕は無かった。タイヤが路面をこする耳障りな音と同時に、ドンっと重たい音が響き、トラックに衝撃が伝わってくる。そのまま数十メートルを走り、ようやくトラックが止まったところで……剛はハンドルの上に頭を載せた。
「……やっちまった」
事態を理解すると同時に、人をひいてしまった事実がのし掛かってくる。車の少ない山中の高速道路だからと油断していた。今の速度ではとうてい相手は助からないであろう。
「ライブどころじゃなくなっちまったなぁ……」
自虐的にそう言うと、剛は懐からスマートフォンを取り出した。まずは警察に連絡しないといけない。いや、それよりも先に、ひいた相手の確認か? 万が一まだ息があったら応急処置を……そう言えば、後続の車両への対応はどうすればいいのだろう? 混乱しかかった頭で様々なことを考え、だがやはりまずは警察だろうと思ったところで、
「うおっ!」
突然、トラックが激しい衝撃に揺れていた。剛は思わぬことにスマートフォンを落とし、体を震わせてしまう。
「な、なんだってんだ……?」
ビクビクしながら首を左右に動かし、窓の外を確認する。だがそこからは何も見えず、
「ひいぃぃっ!」
またトラックが揺れ、剛は悲鳴を上げていた。大量の積み荷を載せた大型トラックが、まるで重機で殴られているかのように揺れている。いったい何が起きているというのか、まさか今ひいた人間の祟りだとでもいうのか……理解不能の出来事に恐怖を覚え、剛はただトラックの揺れにあわせて声を上げることしかできなかった。アイドルの歌とはまるであわないずれっぱなしのコールだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
CDの歌が一曲終わり、次の曲がかかる頃……繰り返された衝撃は唐突に終わっていた。剛は伏せていた顔を上げ、外を見る。トラックの正面、ライトに照らされている範囲内には何の姿も見えなかった。ただ路面が見えるだけだ。恐る恐る、首を右に動かす。右の窓の外にも何もなく、サイドミラーにも怪しいものは映っていない。次いで、顔を左に向けた。窓の外には、やはり何もいない。そしてサイドミラーにも……
「……何もいねえよな」
何も映ってはいなかった。その事実に、剛は思いきり息を吐き出す。そうだ、当たり前だ。何もいるはずがないではないか。この大型トラックを揺らせるほどの何かが、いったい高速道路のどこにいるというのか。
「びびりすぎだ、俺は」
肩から力を抜く。きっと人をひいてしまったせいで動揺し、幻覚みたいなものに襲われてしまったのだろう。そうでなければ説明がつかなかった。
「そうだ、早く警察に連絡しないと」
恐ろしい幻覚だったが、でもそのお陰で冷静さを取り戻すことができていた。まずは警察に連絡しよう。起きた事故は取り返しがつかないことだが、せめてちゃんと罪を償わないと……そう思って身を屈め、足下に落ちたスマートフォンを剛は拾い上げた。ふぅと息を吐き出し、体を起こして、
「……ぎっ……ぎゃああぁぁぁぁぁぁぁ!」
トラックの正面ガラスが砕かれ、巨大な何かに剛は噛みつかれていた。大きな口に頭がすっぽりと包み込まれ、鋭い歯が喉に突き刺さる。溢れる血が剛の体を汚していった。大きな口の中で、悲鳴がエコーのように響き合う。耳障りな音は首の骨が削れる音か。そして遠くから聞こえてくる歌声……アイドルグループの歌だ。CDの曲は流れ続け、可愛いアイドルたちの甘い声が剛の耳に確かに届く。何の慰めにもならないアイドルソングが。
その一曲が終わる頃……剛の体は動かなくなっていた。動かなくなったその体は、巨大な影に丸ごと呑み込まれていった。
そうして……トラックの運転席は、空っぽとなった。後に残されたのは、ガラスの破片と、剛が流した血と……それに、トラックの積み荷に関する書類だけ。血に汚れた書類には、こう書かれていた。
『送り先――サカタ・ゴールデン・マリン・ホテル』
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