シャーク・マン!

久道進

プロローグ

 無造作に放り投げられた兵士の一人が、弧を描いて宙を飛び……エレン・ドゥ軍曹の目の前の強化ガラスにぶつかった。銃弾をも跳ね返す強化ガラスが激しく揺れ、兵士の全身から飛び散った血がその表面を汚す。エレンはその様子に唇を噛みしめ、「どうすればこの兵士を助けられるだろう?」などと一瞬でも思ってしまった自分自身を強く罵った。助けられるわけがなかった。その兵士は、首から上を既に無くしていたのだから。

 一拍の間を置いて、兵士の死体はガラスの表面を滑るように落ちていった。血の跡を残し、地下実験場の天井付近に作られた監視ルームの窓から、はるか下の床へと。その死体を追うように、エレンの視線も下がっていき……死体が辿り着いた地獄を、エレンの目は再び見つめることとなった。

 地下実験場は、正に地獄と化していた。そこにあったのは大勢の兵士の死体だ。いや、それは最早残骸と言うべきであった。人の腕や足や頭や、もうどの箇所だったのかもわからない肉片や……それらが血だまりの上に浮かんでいる。五体そろっているものは一つとして存在していなかった。首から上だけですんだ先ほどの兵士は、むしろましな状態であったとすら言えた。

 そして、正視に耐えないその地獄の中心に……ヤツはいた。この地獄を生み出した存在が、そこにいた。

 海中から一気に海上へ向かおうとするかのように、天を向いた流線型のその巨体。その大きさは、屈強な大男すら一呑みにできそうなほどで……実際にヤツは何十人もの兵士を呑み込んでいた。大きな口を開け、兵士の体を食い千切り、その体の大部分を一口で呑み込んでいたのだ。

(この私の目の前で!)

 と、ヤツの大口が、再び開いた。ヤツが天井を向いているために、その口の中身を、エレンはよく見ることができた。

 ヤツの口の中にあったのは、先ほど放り投げられた兵士の頭だった。ドロドロの血で汚れた頭が一つ、ヤツの口の中に残されていた。エレンのいる監視ルームからでは、その兵士の顔まではわからない。それが人間の頭であることはわかっても、目鼻の位置まで見ることはできなかった。だがなぜか、エレンはその兵士と目があったような気がした。死んだ兵士が、恨みがましくこちらを見ているように思えた――そう思った瞬間、ヤツの口が閉じた。その口元が動き、兵士の頭がヤツに呑み込まれていったのがわかった。

 地下実験場に送り込まれたエレンの部下全員が、ヤツの胃の中に消えたことがわかった。

「……焼き払え」

 口を開き、エレンは絞り出すようにそう言った。唇を強く噛みすぎていたためだろう、歯が皮膚を傷つけ、そこから溢れた血が口元を汚している。その血を滴らせたまま、エレンは言葉を続けた。

「何をしている、速くヤツを焼き殺すんだ」

 低い声で発されたその命令に、エレンの周りの科学者たちがびくりと体を震わした。だがそれきり、動こうとはしない。互いに顔を見合わすばかりで、エレンの命令を実行しようとする者はいなかった。その事実にエレンの胸中で怒りが爆発する。

「私の命令が聞こえなかったのか! ヤツを焼き殺せと言ったんだ!」

「し、しかし……」

「しかしではない! 見てわからんのか! 実験は失敗だ! ヤツは失敗作だ! 生かしておいてはならん!」

 怒声をぶつけ、それでも動こうとしない科学者の胸ぐらを掴もうと、エレンは体ごと科学者たちに向き直った――その瞬間だった。大音量のブザーが監視ルーム内に響いたのは。

 ブザーの音に全員が体を硬直させる。装置の作動を知らせるブザーには幾つか種類があった。だがこのブザーは、エレンの命令に応えるもの――焼却システムのブザーではなかった。

「バカな!」

 ブザーの種類に気がつき、エレンは強化ガラスの方へ体を向けた。短い距離を駆け、ガラスにぶつけるかのように顔を寄せる。そしてそこから、地下実験場を見下ろした。その視線の先で、ゆっくりと実験場の床が左右に割れていった。その間から巨大な穴が姿を現す。底も見えない深く暗い穴。実験場にあったすべてを呑み込む、大きな大きな穴だ。

 あの警報ブザーは、排出システム作動のブザーだったのだ。

「なぜだ! なぜ排出口を開いた! ヤツはまだ生きているんだぞ!」

「わ、私ではありません。か、勝手に装置が動き出して……」

「し、しかし……排出口の先は地の底の埋め立て施設です。エサもありませんし、放っておけばあれも飢え死にするかと……」

「バカが! ヤツが大人しく餓死などするものか!」

 暢気なことを言う科学者たちをエレンは一喝する。その程度で簡単に死ぬようなヤツではなかった。むしろ飢えはヤツに力を与えるであろう。飢えたヤツはエサを求め、その力を振り絞り、どんなところからでも脱出してしまうに違いなかった。

 握りしめた拳をガラスに押しつけながら、エレンは実験場を睨み続けた。巨大な穴に、ヤツが、人間の残骸が、血だまりが……地獄が落ちていく。その様子が、まるで違う場所に地獄が運ばれていくかのように、エレンには見えていた……。

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