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「ふわぁぁぁ……」
大あくびをしながら塩野彰が控え室の中心に顔を向けると、そこには彰と同じぐらいやる気の無い表情を浮かべた男たちが並んで立っていた。数は約十人。最年長は彰と同じ三十代半ばほどで、最年少は二十二歳の島崎大介だ。皆そろって、タキシードに似たこのホテルの制服に身を包み、襟には清掃員の茶色のバッジをつけていた。
「ふわぁ……じゃあまぁ、本日もよろしく」
あくび混じりの彰の挨拶に、気の抜けた声で男たちが「う~す」と声を返す。そしてそれぞれ道具を手に、控え室を出て行った。これが彰率いる清掃第一班の、毎朝の朝礼の様子であった。
あの式典から三日がたっていた。正式オープンまでまだ一週間以上あったが、既にホテルは客を迎え、営業を開始していた。プレオープンとして、金治郎の知り合いやお得意先などが招待されているのである。そのため彰たちも、式典の翌日から通常通り働かされているのだ。
(想像通り、ろくでもない職場だな)
内心そうぼやきながら、彰も清掃道具一式を手に控え室を出た。清掃第一班の持ち場は、プールのあるホテルの中庭と地下の一部だ。範囲が広い上に、プール周辺には更衣室や売店などの施設もあり、それだけ掃除しなければいけない場所も多かった。その上、ひっきりなしにお客様が行き交っている場所であり、クレームの対象にならないよう気をつけなければならなかった。上流階級の皆さんは我が儘で、水着の女性たちは視線に敏感だ。うっかりしてたら、清掃員が嫌らしい目で見ていたなんて苦情を言われかねない。
(プール周りなんて、一番厄介なもの押しつけやがって)
内心でホテルの経営陣に悪態をつきながら、彰は専用口から中庭に出た。すぐ目の前には、信じがたいほどに広いプールがある。その水の中を、早くも泳いでいるご婦人方が数人おり、
(……ん?)
はるか遠くのプール端に立つ、一人の女の姿が目に映った。遠目にも美人と分かる、外国人の女だ。日の光を弾く濃い金髪。すらりと背は高く、きっと美しいであろうその肢体を、だが今はスーツで隠していた。夏だというのに、隙の一つも見せていない。
(変わった女だな……)
そんな女に、へらへらと近づいていく男がいた。三ヶ野虎夫だった。その所作から、何を言っているかは想像がついた。暑い中、女がスーツ姿であることを心配し、水着でプールを楽しんだら如何でしょう、とでも言っているのであろう。
(下心、こっからでも見えてるぞ、おい)
そんな虎夫の振る舞いに、彰はため息をついた。プールを観察するように眺めたままの女に対し、虎夫はいつまでもしつこく話しかけている。そのしつこさは、下手なナンパ師そのものだ。短気な客でなくても、いい加減にしろと怒りかねない態度だった。
その虎夫に、やはり女も苛立ったのだろう、首を小さく左右に振り、それから虎夫の方を向いて、
「――っ!」
その瞬間、確かに殺気のようなものを、彰は感じていた。発生源は、間違いなくあの女だ。遠く反対側に立つ彰が感じ取れるほどの、強い殺気だった。それを間近で受けた虎夫はひとたまりも無かった。びくりと一度体を震わせると、あたふたと頭を下げ、まるで逃げるように女から離れていく。
虎夫がいなくなると、女はまた顔をプールの方へと向けた。そのままただじっと水面を見つめていた。
近寄りがたい女の存在。プールを挟んでその女を見つめ、彰はごくりと唾を飲み込んだ。
「なんなんだ、あの女は……?」
その日、朝から坂田金治郎の機嫌は悪かった。朝一で聞かされた、秘書の伊豆見春人からの報告のためだった。
「じゃあなにか、君はこの『サカタ・ゴールデン・マリン・ホテル』の正式オープンを延期するべきだというのかねっ?」
「は、はい……残念ですが……その方が賢明だと思われます……」
「君ぃ! そんなことできるわけがないだろう! 大々的に式典を開いたばかりなんだぞ! それに正式オープンの日が何の日か知らない君じゃあるまい! 私の誕生日だぞ! 私の誕生日にこのホテルをオープンさせる、それが当初からの計画だったじゃないか!」
金治郎が怒鳴り声を上げると、春人は怯えたように体を震わせた。顔を下に向け、金治郎と目を合わせようともしない。それだけびくついていながら、だが春人は言葉を続けた。
「で、ですが、今のままではお客様に危険が及びかねません。急な工事が祟って、監視カメラなどのセキュリティシステムに不具合が見つかっているのです。防災システムも稼働テストが万全とは言えませんし……な、何より人手不足です。他のホテルから引き抜いたり、アルバイトも募集したりしていますが、それでも充分とは言えません。研修もまともに行われていない状況ですし……今のスタッフの質では、今後の運営に支障をきたすのは確実です……」
「だから、正式オープンの日を延ばせというのか」
「できましたら、今のプレオープンもすぐに中止するべきかと思います……」
「な、何を言っておるんだ君は! ちょっとはものを考えてから喋れ!」
思わぬ進言に、金治郎は机を叩いていた。プレオープンの中止などできるわけがなかった。国内だけでなく、海外、特にアメリカ人の客も大勢やってきているのである。サメの異常増殖、更に新種のサメの発見により、日本とは比べものにならないほどサメ被害が増えたアメリカ。今では銃よりもサメで死ぬ人間の方が多いほどだ。そんな海や水辺から遠ざけられたアメリカ人に、安心して遊べる「海」をと言って大々的に宣伝し、招待しているのである。今更中止になどできるわけがなかった。
苛立ちを抱えたまま、金治郎はホテル内に作られた社長室の中を歩き回った。壁に飾られた彼の肖像画が、自分自身を見下ろしている。海洋汚染にサメの増殖、それに長く続く不況のせいもあって、サカタ・アミューズメント&リゾート株式会社の収益は下がる一方だ。かつての栄光は遠い思い出と化した。だからこそこのホテルを、起死回生の一手にしようとしているのである。
(……だというのに!)
社長室をぐるりと一周し、再び机の側に戻って……金治郎は低い声で言った。
「正式オープンの日は変更しない。プレオープンもこのまま継続する」
「しゃ、社長! しかしそれでは!」
「プールやレストランに問題は無いのだろう! だったらいいではないか!」
「で、ですから、セキュリティや防災システムの方がですね……」
「そんなもんは追い追い調整していけばよい! 第一ここは日本だぞ! 世界一の安全を誇る国だ。監視カメラの二、三台動かなくても問題なかろう! 防災システムだって心配はいらん! 消防署が近くにあるんだ、いざとなったらそいつらを呼べばいい!」
「で、では……スタッフの質については……」
「クレームがついたら、見せしめにクビにすればいいだけのことだろう!」
金治郎の言葉に、春人は重たくため息をついて、
「……かしこまりました。できる限り、対応致します……」
そう言って、肩を落として部屋を出て行った。その閉じたドアに向かって、金治郎は悪態をぶつけた。
「まったく……あいつも何年私の下で働いているんだ! いい加減、頭を使うようになれっていうんだ、バカが!」
不甲斐ない秘書の態度を思い、苛立ちが増していく。気持ちを落ち着かせようと、金治郎は窓に近づき、そこから下を見た。展望レストランのすぐ上に作られた社長室からは、プールの様子がよく見えた。海を模した広いプールを、数人の上客が贅沢に使っている。何か問題が起きているようには見えなかった。
「ふん、あいつも下らんことばかり言いおって!」
セキュリティやら防災やら、そんなことを気にして何になる。この安全な日本で、事件や事故などそうそう起きるわけがない。それよりもお得意様をお迎えし、利益を上げることの方がずっと重要なのだ。そんなこともわからんとは……
「まったく、あいつには失望したわい!」
鼻息も荒く、秘書への不満を口にすると……金治郎は机に戻り、カレンダーを見つめた。ホテルの正式オープン日であり、自分の誕生日でもあるその日には、赤の二重丸がつけられている。この晴れの日を、絶対変更してなるものか……金治郎は強くそう思い、乱暴な動作でイスに腰を下ろしていた。
……それと同時刻。ホテル地下の搬入口で、和木幸平は苛立ちの声を上げていた。
「おいっ、誰だよこんなところにトラックをとめたヤツは!」
搬入口を塞ぐように、大型トラックが一台とめられていたのだ。このままでは他のトラックが入ってこられないし、食材などをホテルの中に運び込むこともできなくなってしまう。それで他のドライバーに怒鳴られるのは、搬入口の警備員である幸平なのだ。いったいどこのどいつだと思いながら、幸平はトラックに近づき、
「……って、おいなんだよこれ!」
前に回り込んで、幸平は驚きの声を上げていた。フロントガラスが割れ、大穴をあけていたのだ。予想外の事態に更に苛立ち、金色に染めた髪をかきむしる。運転席のドアが閉まりきっていないことに気づき……幸平はドアを開け、中を覗き込んだ。そこはひどく汚れていた。書類は置きっぱなしで、キーはさしっぱなし。そして肝心のドライバーの姿は、影も形もなかった。
「くそっ、まさか事故って、それでトラック置いて逃げたんじゃねぇだろうな……」
だとしたら最悪だった。これで警察を呼んだりしたら、余計な仕事が増えてしまう。今だって残業が多いというのに、これ以上働かされるのはまっぴらだった。
「ちっ、仕方ねぇ」
幸平はあたりを見回してから……トラックに乗り込んだ。地下駐車場の奥に、確か空いたスペースがあったはずだ。とりあえずそこにトラックを運び……後は放っておこう。気づいたヤツがいたら、そいつが通報すればいいのだ。
「幸い、監視カメラはまともに動いてねぇしな」
画像はモニターに映るが、録画はできない状態が続いている。そして今の時間、搬入口の警備をしているのは幸平ただ一人だった。何をしたって、誰が見ているわけでもない。
キーを回しトラックを動かすと……セットされていたCDの曲が流れ始めた。甘い声がわざとらしいアイドルグループの歌だった。
「うわっ……キモッ……」
かかった曲を鼻で笑い、顔も知らないこのトラックのドライバーを内心馬鹿にしながらアクセルを踏む。
そうしてトラックは、数分もたたないうちに地下駐車場の奥へと辿り着いていた。半分資材置き場になっている場所で、今は人気はまったくなかった。
「……ったく、面倒臭いことさせやがって」
悪態をつきながら、幸平は運転席から飛び降りた――その瞬間だった、
「――!」
何かに足を引っ張られたのは。幸平は真正面に倒れ込み、手で庇う暇もなく顔面を地面に叩きつけてしまう。自分の鼻が折れる嫌な音を聞き、痛みに声にならない悲鳴を上げた。
「……うぅ……こほっ……」
ゆっくりと顔を上げ、喉に逆流してきた血に咳き込んで、
「……うぅっ……うぅうわあぁぁぁぁぁ!」
起き上がろうと思う余裕すらないまま……幸平はトラックの下に引きずり込まれていった。反射的に両手の指を地面に突き立てていたが、そんなものが抵抗になるわけもない。ほとんど一瞬で幸平の体はトラックの下に完全に消え……一度だけ大きくトラックが揺れた。そしてそれはすぐに止まった。
その様子を監視カメラは確かに見ていた。だがその映像を見ている者はおらず、そして記録に残ることもなく……誰にも知られないまま、和木幸平はこの世から姿を消していた。
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