4−3 間宮光希と『間宮沙希』

「鈴華に話したんなら、行ってきてもいいんじゃない?声優としても問題なく活動できてるんだし」


 姉さんが鈴華ちゃんを引き取りに来た日。


 鈴華ちゃんに全部話しちゃったと伝えて、実家に顔を出そうと考えてると言ったら意外にも姉さんは許可をしてくれた。


 一応父さんとは不仲じゃないから味方がいないわけじゃなかったけど、姉さんにはてっきり反対されるものだと思い込んでいた。


「行くだけなら反対しないわよ。それが『間宮沙希』の、私の名前との訣別になるんなら行く価値はあるでしょ。私は絶対に行かないけどね」


 姉さんはたとえ向こうから懇願されても行かないと思う。父さんに援助の件でお礼を言うことはあっても、会うことだけは絶対にしない。父さんに会っているところを母さんに見られたら母さんにどんな刺激を与えるかわからないからだ。


 そのことは鈴華ちゃんにも話しているらしい。だから鈴華ちゃんは自分の祖父母の顔を全く知らないし、知ることもない。父さんにだけなら会っても大丈夫だとは思うんだけど、それは父さんが拒否している。


 全部の情報を絶っておいた方が、母さんとの会話でボロを出さないからと。


 だから父さんは資金援助だけをして、姉さんと鈴華ちゃんの顔を知らない。母さんはたまたま見たらしいけど、今では覚えているかどうか。


「鈴華のこと認めないで、アンタに酷い怪我負わせた冷酷ババアに会うなんて絶対嫌よ。というか、アンタはよく会えるわね?」


「母さんに会うのは最後になるんじゃないかな?そうしたら芋蔓式に父さんとも会わないと思うけど」


「そうなっても問題ないでしょ。年齢的にまだ子どもでも、十分な稼ぎはあるんだから」


 ということで日曜日に用事も仕事もなかったので、父さんに電話して実家に行くことになった。隣の埼玉県に実家があると言っても、子役の頃から電車で東京に通えるくらいには近い場所だ。往復にそこまで時間はかからない。


 朝家を出て、お昼前には余裕で着いた。二年ぶりくらいの実家だったけど、それくらいの時間ですっかりと懐かしい気分になってしまった。二年じゃ外観は変わってないけど、どこか暗くなった気がする。


 在り来たりな洋風の、住宅街によくある家なのに。この家は陰陽入り混じりになってる気がする。


 姉さんと一緒に過ごした良い記憶と、階段から落ちた悪い記憶。その二つが混在してるからだと思う。


 父さんに電車の時間は伝えておいたから、家の前で待っていてくれた。五十後半になった父さんはここ二年で一気に白髪が増えたと思う。髪の後退が進んでいないのは救いだと思う。


「おかえり。背は、あまり伸びてないか?」


「ただいま。それは言わないでよ。まだ成長期なんだからこれからだって」


 僕の背はなあ。ちょうど成長期に階段から落ちて大怪我をしたせいで成長線が閉じたんじゃないかってお医者さんが言ってた。父さんも母さんも姉さんもそれなりに背は高いのに僕だけ背が低いままなんじゃないだろうか。


 父さんの軽口もそこそこに、家に入る。中は割と綺麗だ。今この家を維持しているのは父さんなんだろうか。仕事も続けながら家事全部をやるのは大変だと思う。結構良いところの企業の良い地位にいるって聞いたからお給料は良いって言ってたっけ。


 それなら家政婦とか雇ってるのかもしれない。僕や姉さんへの送金は二年前からしなくなったから余裕も出たんだろうし、掃除くらいは任せてるのかもしれない。


 姉さんの仕事も安定したし、僕も貯金がたくさんあるから父さんからの援助はいらなくなった。僕が一人暮らしを始めた頃は送金してもらってたけど、僕が口座を丸々もらっていたこともあって必要としなかった。


 学費とかも自力で払うようにした。そうすれば、今の母さんに何か余計なことを思い出させることはないと思ったから。


 父さんと母さんの二人暮らしならあまりお金も使わないだろう。そんなことを考えながら小さな庭に続く縁側に向かう。


 縁側には、椅子に座った母さんが。


 冷静で、神経質だった女性はそこにはいなかった。いたのは、ただの優しそうなおばあさんが一人。


 その人は間違いなく母さんのはずなのに。一気に年老いたと言うか、毒気が抜けたと言うか。まるで別人のようだった。


 足音が二人分したからだろう。庭を見ていた母さんは僕と父さんの方を見ると、にっこりと笑ってこう切り出した。


「あらあら。若いお客さん・・・・・・ね。どちら様かしら・・・・・・・?」


 ──父さんから聞いてはいたけど、実際に見て。そう言われて。


 これは姉さんには伝えられないなと思った。


 母さんは僕を突き落としてしまったショックで、僕と姉さん、それに鈴華ちゃんのことを忘れてしまったらしい。子供がいたことも、孫がいることもすっかりと忘却の彼方で、名前を出すこともないのだとか。


 それだけ僕へしてしまったことが精神的にキたらしい。脳の防衛本能でそうすることが、母さんを唯一救う手だったのだと。


 あの日、子役の『間宮沙希』と一緒に。『間宮清美』という母親もこの世界から消えてしまった。


 もうここにいる女性は僕の知る母さんではないのかもしれない。それでも、僕はちゃんと伝えたかった。


 椅子の前に正座をして、母さんの手を取る。弱々しい手だ。しわがれてはいないけど、子役として活動している時に引っ張ってくれた力強い母さんの手とは思えなかった。


 深呼吸をひとつして、母さんの目をまっすぐ見て伝える。


「あなたは僕のこと憶えていないかもしれませんが、それでも伝えたいことがあってきました。お礼と、お別れを言うためです。お礼は、僕たち姉弟のこと。もう一人はあなたのことを好いていないかもしれませんが、僕は感謝しています。あなたがいてくれて良かった。僕たちを捨てて産んでくれて、ありがとうございます。


 もう一つは、もうここに僕たちは来ないことになったので、お別れを。僕ももう一人も仕事が安定してきました。独り立ちできそうなので、社会人として、大人として巣立とうと思います。


 ──さようなら。もう会うことはないでしょうが、僕はあなたのことを、この手の温かさも忘れません。どうか、いつまでもお元気で」


 そう言って手を離して立ち上がる。


 これ以上何かをしたらきっと母さんが全てを思い出してしまう。


 忘れてしまいたくなるほど、母さんにとっては辛いことだらけだったはずだ。それを忘れて幸せに生きられるのなら、僕としても母さんを苦しめるつもりはない。


 これで良かったんだと母さんに背を向ける。今の母さんにはわからないことだらけだったけど、これはただ単に僕の自己満足だったけど、来た意味はあったと思う。


 最後に母さんの姿を見られて良かったと、心の奥底からそう思う。


「お若いのにもう手に職をつけてるなんて立派ねえ。でも、若いからきっとこれからの人生でたくさんの苦難があると思うわ。だからもし大変だったら、身近な大人に頼りなさい。大人って、とても頼りになるから」


 背中越しに、母さんにそう言われる。


 まさか言葉を返してもらえるとは思ってなくて、その激励が涙腺に響いて。


 小さく「はい」と返事をして、逃げるように家から出ていた。


 家を完全に出る前に父さんにも直接会うことはなくなるだろうからと別れの言葉を伝えて、どこかに寄ることなくそのまま東京にトンボ帰り。


 あの場所には、十年以上の記憶がある。ふと見渡した景色は母さんと手を繋いで歩いた記憶がたくさんあった。


 子役の仕事に向かう時は、小学校高学年になるまでずっと母さんと一緒に仕事に向かっていた。低学年の時は手を繋いで歩いて駅に向かって、電車でもずっと一緒に乗っていた。


 そんな情景がすぐに思い出せた。物心ついてから十年間の記憶だ。まだ十五歳の僕にとっての大半の思い出は、母さんと一緒の記憶ばかり。


 母さんは僕に優しかった。最後の子供が変なことにならないようにと、必死だったんだろう。子役になるなんて変なことを言い出したのに、結局は反対しなかった母さん。


 何度母さんに嘘を言っただろう。姉さんを探すためにたくさんの嘘をついて来た。その罰がこの右腕と左足なら、それはまだ対価としてちっぽけなものなんだろう。


 歩いた道も、電車に乗って眺める風景も。


 何もかもに家族との思い出が残っていて。


 だからこそ僕は。


 自分のアパートの最寄駅に着いた頃には、すっかりと涙が止まらなかった。


 『間宮沙希』とのお別れ。そして両親との訣別。


 それが存外胸に来たらしい。もっとスムーズな別れ方もあったはずなんだけど、こうなったのは僕の行いのせいだ。僕が子役にならなければ母さんもああならなかったと思うとやっぱり辛い。


 ハンカチを持ってくるのを忘れてた。母さんと会って泣くことになるとは思ってなかった。東京の駅は利用者が多いから学生にしか見えない僕が泣いているのを通行人が皆ギョッとした目で見てくる。


 周りの人に迷惑をかけないようにと、服の長袖で強引に涙を拭う。母さんや父さんに迷惑をかけたばかりなのに、他の人に心配をかけさせるわけにはいかない。


 ゴシゴシと目の周りを拭いて歩き出したら、何故か目の前には根本さんがいた。いや、同じ駅が最寄駅なんだから居ても不思議じゃないのか。


「み、みーちゃん?どうかしたの?何か嫌なことがあった?周りの人が可愛い男の子が泣いてるって言ってたから野次馬になろうと思って来たらみーちゃんだったから驚いちゃった」


 この人、堂々と野次馬になる気だったことを言ってる。やっぱり声優さんもどこか頭のネジがぶっ飛んでないとダメなんだろうか。


 ちょうどいいや。姉さんや鈴華ちゃんに頼るわけにはいかなかったし、この人も大人だし。ちょっと頼ろう。


「根本さん、お昼まだですか?ちょっとスッキリしたいので一緒にご飯でもどうですか?奢りますよ」


「ご飯は一緒に行きたいけど、そこで奢るのはどうなのかな⁉︎一応私、みーちゃんより年上で先輩だよ⁉︎」


 あ、そのくらいの常識はあったんだ。根本さんはボケの人だからツッコミを引き出せたのって結構すごいことじゃないだろうか。


 せっかく常識を語ってくれたところ申し訳ないんだけど、今日はなんとなく『間宮沙希』のお金を使いたい気分なんだよね。


「僕、今から叙々苑の焼肉が食べたいなーって。個室だしいっぱい食べるつもりだし、お金の持ち合わせあります?」


「うぇっ⁉︎か、カードは今月支払い上限になっちゃったから……コンビニでお金降ろしてきていい⁉︎」


「今日土曜日だからコンビニだと引き落とし手数料余計にかかるじゃないですか。僕はすぐ行きたいので却下です。僕は今日お金使うかなーと思って持ち合わせあるので、すぐ行きますよ」


「やっぱり今日のみーちゃんどこか変だよ⁉︎病院行く⁉︎」


 根本さんのことを軽く流し、叙々苑でめちゃくちゃコース料理を食べた。根本さんが初めて入る叙々苑にビクビクしていて、個室に案内されてソワソワしていて可愛かった。


 そんな動揺しているうちに会席コースであるシャトーブリアンコースを二人分頼んでおいて、出された時に根本さんが目をこれでもかと、飛び出るほど大きくさせていたのはドッキリが成功したみたいで面白かった。


 僕も叙々苑は初めてだったし、シャトーブリアンも初めてだったけど、溶けるようなお肉ってこういうことかと感心していた。子役の時の打ち上げだってこんな高級店きたことなかったから新鮮だった。


 会計も済ませて根本さんがお金を払うと言ってたけど、僕がしたかったことなんだしそのまま流して解散した。


 その日の夜にあった根本さんの動画配信で雑談として早速シャトーブリアンの感想を言ってた辺りはさすが声優さんだと感心した。困惑していたことや僕と行ったことは一切言わず、ただただ焼肉の美味しさだけを伝えていた。


 姉さんにもメールを送って、これが僕としての一つの区切りとなった。


 明日からは声優の間宮光希として、新しい一歩を踏み出そう。


────


「清美、光希は帰ったぞ」


「そう。怪しんではいなかった?」


「多分な。……さすが、天才子役の母だよ」


 光希が帰った後の間宮家で。光希の両親が縁側で話していた。


 母親清美は、記憶喪失というわけではない。そういうフリをしていただけだ。


「良かったのかな?これで」


「良いのよ。沙希も光希も独り立ちできたんだから。……子役や俳優を続けるつもりならパパラッチとかが沙希のことを調べまわって良からぬことになるだろうからって注意しようとしたらこんなことになっちゃったんだもの。私って子育てとか言葉選びのセンスがないわ」


 清美はそう言って立ち上がり、和室にある仏壇に向かう。そこには光希たちの祖父母の位牌と一緒に、光希には伝えていないもう一つの位牌があった。


「私は三人・・の子供を守れなかった。母親失格なのよ」


 本当は沙希と光希の間にいたもう一人の子。流産となってしまい産まれることもできなかった二人目。


 そうして失敗した清美だからこそ沙希のことは反対した。十四歳で産むとなれば母体にどのような影響が出るかわからなかった。その反対を押し切って家を出たのは沙希の方だ。


 だから、夫と光希による沙希の援助は見逃した。産まれてきたのならば生活は大変なのだろうからと、光希にはバレないように手を差し伸ばした。光希が『沙希』というバレバレな名前で活動を始めたことも何も言わなかった。


 結局はこうして二人と仲違いしてしまったのだから、夫が心配するのも当然だ。


「あなたもよく私を見捨てないわね?」


「君は見捨てたらどうなるかわからないほど弱い女性だからね。それに、ここをなくしたら本当にあの子たちを繋ぐ証拠がなくなってしまう」


「……本当に。厄介な人に惚れられたものだわ」

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