翠月か
そして夜、
姫がその場にいるので、付いて来た弟子は
「わたくしが思うに」
まだ文に記された時刻には間がある。晶姫はその合間の埋め合わせにしようとしたのか、独り言のように話し始めた。
織彩はくるりと服の裾を翻して晶姫に体を向けて、彩光は空から眼識を反らさずに耳識と意識だけを晶姫に向けた。
「向こうで
ごちゃごちゃと言い訳とご機嫌伺いを書き連ねた文を日に何度も送ってくる男と自分の技術をただ見て欲しいと伝えて来る少女と、晶姫の好感度はここ数日の間は後者に傾いている。
まぁ、そうは言っても自分の気を引こうと一生懸命な姿は幼い頃から変わらなくて、それはそれで可愛らしいと思わなくもないのだけれども。
「いやぁ、世間知らずで直情的で思い付いたらやらずにはいられない猪みたいな小娘でさぁ」
彩光は末弟子をこき下ろすが、夜空に向ける眼差しは真剣そのものだ。
晶姫がちらりと織彩に視線を向けると、織彩は肩を竦めた。
「根性ねじ曲がってて素直じゃないんですよ」
「おい、姐さん、そりゃ誰の事言ってやがる」
「誰とも口にしてませんが、自分でそう思ってるんですかぁ、親方てばぁ」
言い包められて彩光は舌打ちをして話を切った。
負けたと口に出さずに態度に出してしまう親方に、織彩はころころと喉を鳴らす。
「始まるな」
彩光が未言が空に響く気配を感じたのは、そんな瞬間だった。
星の一つが、不意に空を奔る。
流れ星かと見間違えてしまいそうだったが、彩光はその星がそもそも刹那の前には空になかったのを見極めている。
そして初めは真っ直ぐに翔ぶその星がいつまでも消えず、瞬いて消えた直後にまた耀り、くるりと回れば、誰もそれが
「
彩光の呟きに応じたように、空に踊り遊ぶ翠の星灯りが一斉に降って涌いて出た。
翠月とは、未言で蛍の事だ。
その翠月は空に灯りては消え、奔り踊り、お互いに
空を川辺と舞い遊ぶ翠月は、よく見れば二種類の点滅をしている。
たった一つだけ他よりも更に明るく魁に瞬きと光るものと。
その一つに応えて空を照らし地に注ぎ尾を引くように数瞬の間光る無数のその他とに。
そして多くの光は、唯一つの光を追っているのだと、次第に理解されてくる。
「親方ぁ、なにをどうしたらあんなことできるんですかぁ」
いつもの余裕の雰囲気を何処へやったのか、織彩はともすれば泣きそうな声で自信を失くしていた。
一つの
或いは、二種類がそれぞれに同じ程度の数なら出来ようか。もしくは二つに見えて実は一つの塵剤の反応であるとか。
しかし今空に灯る一つだけの光。あれがもし本番で不発になっていたらどうするのか。不発にならないために複数を空染玉に入れて、けれど全てが反応したらどうなるか。
欠けてはならず、並んでもならない、唯一であるからこそ惹かる光。
ただ見るだけなら美しいの一言だけで満たされてるだろうに、己も同じ技術者であるから技巧の
彩光は何故あんな芸当が出来るのか当然分かっているが、態々口には出さなかった。
翠月の未言の神秘を十全に扱っている。言葉にすればただそれだけで済む。
そしてそれだけで済むからこそ、告げてしまうと実力の差が大きな絶望の壁となって目の前を塞ぐ。
やがて飛び交う無数の光は、一つ、また一つと終わりの時に一際明るく灯って辺りの木の影までも浮き彫りにしてから地面に脱落していく。
数多くあった光は段々と目で数えられるようになり、遂には一つだけを残すに至る。
唯一つの光はずっと灯り続け、最後まで追って来た一つだけの翠月を誘って空の真ん中で点滅を繰り返していた。
長く翠の光で尾を引いて、残った一つの光が、最初に一つだった光まで辿り着き。
二つの翠月はぴたりとくっ付いて、空に
人の目が
それだけの時が過ぎ去ってから、彩光は感心しきったように唸る。
その上でこの場で言う事はないと彩光は黙ったまま晶姫の方に振り返った。
夜の暗がりの中で晶姫の顔にどんな表情が浮かんでいるのか細かには見て取れなかったが、その輪郭は心奪われたとばかりに抜け落ちているようだった。
その余韻に浸るのも、まぁ、もういいだろうと彩光は声を掛ける事にした。
「さて、どうする? 返事は文にするか、それとも空を染め返してやるか」
彩光の問い掛けに、晶姫は静かに首を横に振った。
彩光はその反応に、おや、と瞬きをする。
「俺には何の押し付けもなく、ただ姫様に喜んで貰いたいと美しいものを届けた、そういうもんだったと思えるがね」
「はい、わたくしもそのように思いますし、胸が震える程に嬉しく思っています」
彩光が目を伏せて語る確認に、晶姫も素直に同意を返した。
それなら文くらいは認めていいだろうと彩光の不審は募る。
「ですが、返事は一切致しません」
晶姫は決意固くそう宣言した。
その思惑が全く理解出来ず、彩光は織彩に目を向ける。織彩は微笑だけ浮かべて何も語るつもりが見られなかった。
「今日の空を贈ってくださったのはとても喜ばしく思っていますし、行恒様をいつもお慕いしております。けれど縁談についての考えは受け入れませんし、なんなら今すぐ乗り込んでわたくしは妻ですと言い切ってやりたい気持ちさえあります」
小川のように滔々と流れる晶姫の胸の内を語る声の低さに、彩光は背筋に悪寒が走った。
口を挟んではいけないと本能で悟り、黙って晶姫の言葉の続きを待つ。
「ですので、とんとん、という事で。返事は致しません。わたくしの気持ちは全て伝えておりますし、伝わっていると信じております。もう届けるべき言葉もございません。後は答えを待つばかりであります」
晶姫はそう言い切って、すくっと立ち上がった。
嫋やかに二人に礼をして、服の裾で床を擦る音を引き連れて奥へと去ってしまう。
その堂々として後ろ姿を見送って、彩光は冷や汗を額に垂らした。
「女って恐ぇな、おい」
「あら、今更お気づきになられたんです?」
身を竦ませる彩光の横で、織彩はそれはもうにこやかに笑みを浮かべていた。
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