その長秋は辰をとどめよ

 近関藩このぜきはんの天守閣は全国でも類を見ない七層建てである。他の藩と比べて元より広くない所領を一望にして余りある。

 これは近関藩が都の東の護りとして置かれた関所を擁しているからだ。侵攻を逸早く察知する為に管理する土地を少なくし、施設を十全に整え、数の限られた領民を精鋭と鍛え上げて有事に備える。

 彩光あやみつは無理を言ってその近関城の最上階に入れて貰っている。全ての戸が開け放たれて、東は天を貫く明隠山あけがくしやまが眼前に迫り、西は彩空藩あやぞらはんの天守まで見通せる。

「守護の要に足を踏み入れて申し訳ないな」

 彩光は未言景みことけいを手の内で弄びながら、藩主自ら形だけの見張りとしてこの場にいる門次かどつぎに改めて礼を述べた。

「いえ。我が藩の為に必要であれば、お安い御用ですとも」

 彩光がこの日、天守閣に登った理由は空染そらぞめの指揮を執る為だ。近関藩全域に神秘を顕すには、一発の空染玉そらぞめだまでは足りない。

 彩光は空を読み風を読み土地を読んで、近関藩の全域をこの日に空染するのに必要な四ケ所を見定めていた。

 即ち、東は明隠山の中腹に一つ、北に波岳なみたけ駒置山こまおきやまの二つ、西より中央として近関城の庭に一つ。その四つを同時に打ち上げる事で、近関藩の空の全てを染められる。

 彩光は指で装丁に納まった未言景の本体を押し出した。

〈未だことばにあらざらむ景色を〉

 彩光の厳かな声が天守を満たし開け放たれた戸口より空へと流れていく。

〈在りしままに知り認め身に入るるために〉

 じわりと未言景が熱を持ち仄かな光を漏らす。その光は未言景からうたぐんで離れ、宙に浮いてぶつかって合わさり、数を減らして体積を増やした。

〈時の針が進む跡に刻み納める〉

 未言景から泡ぐむ光の玉は四つになって彩光の周囲に浮かんでいる。

未言刻還みことこくげん

 彩光の宣告と同時に四つの泡はつるりと表面に輝きを滑らせて、それぞれに景色を映し出した。

 望遠のように大きく空を映し、その下で打ち上げの準備をしている彩光の弟子達の姿が小さく見える。

 門次は初めて神秘の御業に感嘆した。

「これくらいで驚かれても困るがな」

 彩光は意地悪い笑みを門次に見せる。

 だが視線は直ぐに弟子達の作業に移した。

 流石は一門の中でも腕の立つ四人だ。彩光の指示した時間通りに打ち上げの支度を終えている。彩緋に至っては木々の鬱蒼と茂る明隠山の中腹にあって、草刈りをして均した地面に腰を下ろして煙管に煙を噴かす余裕を見せている。

 彩光は掌の未言景に目を落とした。そこに映るのは近関藩の上空の様子だ。

 未言景の針を早回しに進めて空の流れを見る。北の海から吹き付けてくる風は速く、東の一部は標高のある明隠山にぶつかって渦巻き南西向きに空気を逃がす。

 天候は予定通りに狂い無し。空には疾羽鳥はやはねとりが舞う姿が綺麗に浮かぶ。

〈時参り稲穂を揺らす米知よねしらせ〉

 彩光がゆるゆると歌を詠む。

 紅葉を揺らすとも散らさずにいる微風のように。

天地あめつち見れば刈り入れの時と知るとは申せども〉

 天高く外仕事するにも風が肌を撫でて涼しい良い時分。

 自らが耕した土地を見ても稲穂は当に黄金と風にあやめき、米の芳しい匂いを孕んだ風が刈り入れの旬を伝えて来る。

〈口惜しきかな 瑞穂なる富と宝の恵みこそ 何時とて望むは人の常〉

 彩光の歌が織り重なるにつれて、未言景の浮かべる景色の中で弟子達が携えた空染玉に光があやめいてきた。それは未言の神秘を空染玉が受け取っている証である。

 弟子達は銘々に光を漏らすあやめきだまを打ち上げの筒に押し込めた。

〈人の手足の小さきも また人の常 多くを望めど手にするは余りに少なく限りあり〉

 人は我欲の儘に望む程の多くを抱えられない。手が足りず多くを打ち捨てて僅かばかりを持ち帰るの精々だ。

 それでも、人の手に納まるだけでは零れ散る命もある時もあれば。

〈雨を降らせる天神よ 土を肥やせる地祇どもよ 人の命の限りをば その小さきを憐れ見よ あはれいとしと愛でたまえ〉

 彩光が空を見上げた。

 そこに一つの人影が浮かぶ。人ではない。言霊である。

 彩光の歌に惹かれて訪れた神秘の具現だ。

 その未言を、長秋ながときと言う。

〈人見る者よ待ちたまえ 時重ね努め重ねるその果てに 小さくあれど繰り返し厭わずつとむその末に 全てを遂に召し上げる人の業をばご覧あれ その長秋はときをとどめよ〉

 彩光の歌が綴じると共に長秋の未言巫女の形は解け韓紅の風と吹いて弟子達の前のあやめきだまへと吸い込まれていった。

 彩光が目を見開き、鋭く息を吸い込んだ。

「ようううううううううううういいいいいいい!」

 直ぐ目の前で聞いていても、門次にはそれが彩光の喉から振り絞られた声だとは理解出来なかった。

 その怒号は天守の一角も狭きに過ぎるとばかりに一息に空へと放たれて通り過ぎたものを有情無情の区別もなく震わせる。

 それは雄々しき獣の声にも似て、さもなくは嵐の咆哮でなくてはならない。

「おおおおおううううううううう!」

 彩光の合図に応えて木霊が返る。

 最初の一つこそ、城の庭にいる織彩の声であったが、その後に続いて三つの声も遠くより細く削れて小さくなりながらも彩光の立つ天守まで微かに届いている。

 今一度、彩光が息を肺に吸い込む。今度は天守にあった空気の全てが彩光に奪われたような心地がした。

「あげええええええええええ!」

 再び彩光の合図が空気を押し出して空へと放たれた。

 真っ先にその声が肌に触れた織彩は火種を握り、しかし逸る気持ちを抑え、自分の息を使って間を取った。

 遠くにいる男衆まで彩光の合図が届く、予め計算で弾き出されたその時差を待ってから空染玉を打ち上げる。

 天守閣に浮かぶ未言景の見せる景色では、四人の弟子はほぼ同時に着火させていた。

 笛のような甲高い音を引き伸ばして空染玉は空へと打ち上がり、そして到達した天辺で弾ける。

 四つの空の点から、雲が波と押し寄せた。

 雲は日の光を浴びて黄金に染まる。

 風が雲を揺らめかせ、その様子は田に栄える稲穂そのものだった。

 米知らせの風が聴こえるような景色だった。

 その香りが肺を満たしていると思えた。

 稲穂を揺らす風虫かざむしは気持ちよく謡っている。沖波の真似をして声高らかに謳っている。

 何故そんなにも誇り高く、その景色はそこにあるのだろうか。

 問うまでもない。

 命一つとはそれほどの価値を持ち、その景色こそはその命を支え育むものであるのだ。

 長く、長く、空は稲穂を揺らしていた。

 日が傾くにつれて色合いを移してそれでも散り零れる事はなかった。

 やがてが空を焼く頃に、漸く稲穂は焦げて灰のように地に降る。

 そうしてまだ刈り入れられずに待たされている田の稲穂に、長秋の有閑が与えられた。

 全てを見届けて彩光は天守閣を降りて庭に出る。

 暮れ炉の緋に光景ひかりかぐ庭の中で二人の女性が影を伸ばしていた。

 織彩と晶姫あきひめだ。

 織彩の足元には空染に使った道具は一つも残っていない。山から戻ってきた彩秋あやとき彩縹あやはなが片付けたのだろう。

 晶姫は庭の砂利を足で踏み転がす彩光に気付き、笑みを見せた。

「彩光様、素晴らしい空の色でした」

「おう、ありがとよ」

 二人の側に寄って彩光は足を止めた。

 晶姫はしばし彩光の顔を見詰め、顔に浮かべていた笑みをさらりと消して物憂げに俯いた。

「彩光様は見も知らぬ他国の民にも慈悲の心を示されるのに、わたくしは心からお慕いする方にも心を寄せる事が出来ません。なんと浅はかで、惨めなのでしょうか」

 晶姫の悲痛な声が庭の草に吸い込まれる。姫の足元に揺れる草は長秋の神秘を浴びてまだ光の雫が付いていた。

 彩光は織彩に目を向けるが、年上の姐さんは肩を竦める。

 言ってもいいし、黙っていてもいいし、任せる、と無言に決断を放り投げられた。

 彩光は唸り、腕を組む。空を仰ぎ、薄く空いた口の隙間から空気を吸い込み、それが犬歯に擦れて音を鳴らす。

「だがな、愛する相手を毛嫌いするのも一念三千だ。その瞬間瞬間に命の有様ってのは簡単に転がって変わっちまう。だから次の瞬間には相手を許すことだって出来る」

 出来る、と断定されて晶姫は辛そうに眉に皺を寄せた。

 そんな容易に想いを形作る事が出来るなら、誰もこんなに苦しんでなんかいない。

 そんな当たり前の事は彩光にだって分かっている。分かっていても、答えがあるならそれを言うべき時も、ある。

「人を好くのも、同じ人を嫌うのも、一人の人間の心の内に納まってるもんだ。どっちも無い事になんか出来やしねぇ。全部がそこにあるんだと受け入れて、その上で自分がどう振る舞うかを勝手に決めればいい。家も相手も手前ぇの過去も未来の打算も関係ぇねぇよ」

 晶姫はそわそわと身を揺すり目を泳がせる。

 彩光も意味も無く誰もいない方向に立つ庭の松に流し目を送り、すぐに晶姫に視線を戻す。

「いいか。自分が幸せから苦しみに落ちたと思ってんなら、逆に苦しみから幸せに抜け出せるって事だ。忘れんな。命の在り方は行ったきりじゃねぇ、通った道は何時でも行き来出来る」

 彩光は言うべき事を尽くして、息を吐き自分を笑い捨てる。

「ま、年寄りの小言だと思ってくれ」

 彩光は織彩に視線を投げた。

 織彩は親方の意を汲み取り、微かに頷く。

 耳に痛い話をされた相手がいては、黙るしか出来ないでいる晶姫が何時までも動けない。

 彩光は空に夕残ゆおごりだけが淡く残り宵闇が忍び寄る暗がりの中へひっそりと消えていった。

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