わたしが必ず喜ばせてみせます

 みつきは朝早くに城に呼び出されて、敷き詰められた砂利を踏み締めながら眠たい目を擦る。

「は、ぁふぅ」

 噛み殺し切れなかった欠伸が出た口をむにゃむにゃと未声みこえを唇で擦り潰す。

「みつき、城の中だから頑張って」

 またまた付き添いの彩雲あやくもに見咎められて、みつきはハッと背筋を伸ばして夢波ゆめなみから逃れようとする。

 少女の健気な態度に彩雲は微笑ましく胸を暖めた。

「しかし、若様もこんな早くに呼びつけるなんて、なんだって言うんだろうね。お姫様がお冠だってのは聞いてるけど」

 彩雲の言葉に、みつきは居心地の悪さを抱いて身を揺する。みつきの空染そらぞめの直後に隣の姫から行恒ゆきつねにそれはもう読むのも恐ろしい文が届いたというのだ。

 みつきはそれを聞いた時と同じくびくびくといさよわしく彩雲の顔を伺った。

「や、やっぱりわたしの空染が良くなかったんじゃじゃないでしょうか。ちゃんと伝わらなかったとか」

 みつきは自信をすっかり失くして自分の胸を両手でぎゅっと握り締めている。

「いやいや、みつきの空染が真に迫ってきちんと伝わったからこうなってるんだと思うよ。素晴らしい作品が人に齎すのは何も幸福だけじゃない、って訳だね」

 彩雲はみつきを励ます為にというより、ただ単に事実を教えるという口振りで話す。

 だから、まだ経験の浅いみつきには実感が湧かず、上手く意図を飲み込めなかった。

 しかしみつきは更なる説明を求めるでもなく、自分の頭の中だけで考えを巡らせて、結局答えが出せずに知恵熱で煙を吐いていた。

 彩雲はそれを眺めてくすくすと笑いを態と堪えずに、行恒に指示された庭までみつきを案内する。そこは城の東に位置しており、植木は大木が数本だけで空が開けて良く見えた。

 日がまだ塀の高さを越えない早朝に人気はなく、供も連れずにぽつんと立つ行恒がやけに目立っていた。

「来てくれたか。礼を言う。それと朝早くから済まなかった」

 砂利の音で二人がやって来たのを直ぐに察知した行恒から先に声を掛けられて、みつきは慌てて深く頭を下げて目線を合わせないようにした。

 その様子に行恒から苦笑が漏れる。

「よい。人もおらぬのだ、楽にせよ」

 行恒の許しを得て、みつきはそろそろと顔を上げた。行恒に目を向ければ、軽く頷かれる。

「姫より文が来てな。この時刻に東の空を見てほしい、と」

 指定された時間に空を見る。そう伝えられて何が起こるのか分からない素人はこの場にはいなかった。

 みつきはあんぐりと間抜けに口を開けて、バッと空気を擦る音を立てて彩雲に振り返った。

「彩雲さん、さては知ってましたね!? 嘘でしょ!? 親方に全部バレてるじゃないですか、怒られる! やだ!」

「大丈夫、大丈夫、ちゃんと人が付き添ってやってるから、みつきは怒られないよ」

 まさか行恒の相手の所に彩光あやみつがいるだなんてと焦るみつきを、彩雲はそれはもう楽しそうに宥めた。

「これ。幾ら人目がないとは言え、城の内でそう騒ぐな。声が空まで響いておるぞ」

「あ、その、ごめんなさぃ」

 思わず我を忘れて叫んでしまったのを行恒に叱られて、みつきは謝る声も尻すぼみに震わせる。

 これまた行恒は苦笑を浮かべて首を振り、それで手打ちにする。

 それで俯いてしまったみつきだが、東の向こうで空染玉そらぞめだまが打ち上げられた気配に意識を引かれて顔を上げた。音が聞こえた訳でも打ち上げの煙が見えた訳でもない。意識が直接引き付けられるように感じたのは、未言みことの言霊が存在する気配だ。

「始まる」

 みつきの呟きが静かな朝の庭に響乃ゆらのと広がり、行恒と彩雲はそれを合図に空に顔を向けた。

 東の空の果て、朝日があけを滲ませるそこに羽ばたいたのは一羽の鴇の姿をした雲だった。

 その疾羽鳥はやはとり雲歩くもあしで西、つまりは行恒のいる方角へと身を崩しながら飛んでくる。

 それが、二羽、三羽と続き、やがて空は身を崩した疾羽鳥の翼と尾羽を広げた薄雲ばかりになる。

 その風に吹かれる儘に流れる雲に朝日が移る。

 それは緋というには涼しげで、紅というには淡く、朱というには昏く、その色は彩空藩の人間にとっては何よりも特別な郷愁を掻き立てる。

 鴇が群れ成して空を覆うが如く。

 淡紅の色は、淡いと名を持つには不釣り合いに程に色濃く、重苦しく、人の心をおどす。

 濃き鴇色は遠い空に揺蕩う雲を染めるばかりで、地に立つ人には触れる事もないのに。

 その色だけで心に迫り、胸の内を掻き毟られるような感覚に。

 否。自分の爪を胸に立てて掻き毟らなければならないという強迫を以て命を脅かす。

 こくりと、生唾を飲んだのは誰だったのだろうか。

 いや、誰もが、だったのだろうか。

 涼気すずけふる朝の中にあって、背筋に冷や汗が伝う。

 吐く息が熱い。それでいて手足はすさむ。

 けれど、その空があやめき、また濃淡にあやめく鴇色は、意識から言葉も掻き消してしまう程に美しかった。

 息を飲む所ではない。生きている事をしばし止めてしまう程に綺麗で厳かで、目を離せなかった。

 それは生まれて来る前に見た母の胎の中にも似て。

 死んでゆく時の瞼の裏にも似て。

 今この時に人を想う甘やかな灯火の現身であった。

 それを分かれ、と強いられた。

 半刻は経っただろうか。空の鴇雲は昇りゆく日の威光に露と消えて、空は幻を亡くしたかのように気持ちよく青に真統ますべしく自然に還る。

「……これは、もしやとも言わず」

 行恒が恐る恐る喉から声を絞り出した。

「良かったですね。既に彩空藩の人間であるとのことですよ。お幸せに」

 行恒の気落ちを少しでも和らげようと、彩雲は努めて軽々しく、誰の目に見ても明らかな姫の気持ちを上辺だけ代弁した。

 だから女々しく文句をいうな、という本心からの威しは、幾ら対岸の火事とは言っても彩雲には口に出来ない。

「ぬぁああああ! どうすればよいのだー!」

 藩の跡取りともあろう者が情けなくも膝を崩して頭を抱えているが、それをこの場にいる誰が嘲られるだろうか。

 みつきは未だに放心していて、ぼんやりと行恒の苦悩をまりに映す。

 けれど。けれども。

 みつきの胸には、弱く小さくとも、ふつふつと沸いてうたぐむものがあった。

「まずは、好きだと伝えませんか」

 その熱情に掻き立てられて、みつきはぽつりと呟いた。

 行恒と彩雲が揃って小さな少女の能面みたいに平らな顔を見る。

 その玻璃のように光の滑る瞳に飲み込まれて、心の臓をきゅっと収縮するとも知らずに。

「ちゃんともう一度好きだって、まずはその当たり前の気持ちを伝えたらどうでしょう。姫様に喜んでもらえるように、ただただ綺麗な空を見てもらいましょう」

 みつきは、何に突き動かされているのか自覚は無い。

 ただここで彩光の技巧と表現に打ちのめされて立ち止まり、何も出来ないままではいられなかった。

 人を想う人を立ち止まらせたくは、なかった。

「わたしが必ず喜ばせてみせます。姫様に、喜んでほしくは、ないですか?」

 みつきのその問い掛けはもう既に訊ねているものではなく。

 ただ行恒に許されたという段取りを踏んだだけの決定事項だった。

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