もう受けちまった仕事の内って事さ

 空が暮れ炉にあやめく頃、彩光あやみつは屋敷の庭をぶらついていた。

 桜は朽ちた葉の殆どを地面に散らしていたが、大椛は今こそ盛りと燃えるような紅葉を広げている。そこに夕日の赫が光景ひかりかげて緩やかに色合いを移ろわせている。

 彩光は手を開く椛の葉を指の背で突いて揺らした。

 その葉に座っていた言霊が、彩光に非難の目を向ける。

「そう睨むなよ、彩めく。いい庭だな、此処も」

 憮然としながら彩めくと呼ばれた人の形をした小さな言霊は、踏み付けるように恨みを込めて彩光の差し出した手の甲に降り立った。

 彩めくの言霊は元いた大椛の樹に振り返り手を振る。見れば梢にまた異なる言霊が幾つか顔を見せていた。

 どれも空染師そらぞめしが扱う特別な言霊達である。

 即ち、未言みこと。元は未だことばにあらず、と帛屋きぬやに伝わる門外不出の文献に載っている。帛屋の初代が空染の伎を創り上げた時、当時に言葉になっていなかった言霊の力を借りる事で神秘を起こしたと書かれている。

 その始まりも今は遥か十七代も昔の事だ。未言の幾らかは人伝に世に流れ、今や少し言葉に嗜みがあれば知られているものもある。

 彩めくもまた空染師にとって根幹となる未言であるからこそ、人に良く知られた未言である。

 彩めくとは、時間経過と共に連続的に色彩の移ろう様子を表す。

 空の色を染めて移ろわせる空染師の在り方を最も表した未言であるのも分かろうものだ。

 空染師の素質の大きな部分として、彩めくを始めとする未言の力を引き出し、巧みに扱う事が上げられる。

 そしてそのような者は得てして、人には見えぬ言霊が実態を持って見えるのだ。そのような未言の言霊の姿を未言巫女とも言う。

 当然ながら、当代彩光は現世において最も良く未言巫女を見る者の一人である。

「こっちでも力を借りるぜ。頼まぁな」

 彩めくの未言巫女は彩光の手の甲の上で、仕方ないとばかりに澄まし顔をしている。

 なんだかんだと言って人の事が好きな言霊を彩光は目を細めて眺める。

 そこへ、人のやって来る気配を察した未言巫女が視線だけで彩光に屋敷に目を向けるように促した。

 彩光がそれに従って首を巡らした時にはもう、その言霊は夕闇に伸びる影に紛れてさらりと消えてしまっていた。

「彩光殿、このように遠くまで良くいらしてくださった」

 やって来た身形の良い初老の男性は彩光に声を掛けつつ渡り廊下から庭に降りて更に近寄ってくる。

「藩主様が自ら下々の者の所へやって来るなんて、もちっと立場ってぇもんを考えた方がいいんじゃねぇか」

「おや、正三位のお方に直接話しかけるのは失礼いたしましたかな」

 彩光は嫌味に対してにこやかに切り返されて、苦笑いを零すと共に降参の意を手を上げて示した。

「お互いに無礼講ってことで一つ頼みますわな」

「ええ、そういたしましょう。本当に良く来て下さった。どうか儂と夕餉と酒を交わしていただきたい」

「ご相伴に預かりますよ」

 彩光は近関このぜき藩主邑上むらかみ門次かどつぎ直々の案内に追従する。

 日が遠くなって陰深い廊下を淀みなく歩く門次の背中に彩光は場繋ぎがてら話を振った。

晶姫あきひめは確か、門次殿の四番目のお子でしたか」

「ええ。末娘ですな。跡継ぎの息子とは兄妹というより親子程も年が離れてしまいました」

「そりゃ、可愛い限りで」

 門次の年で十八の娘がいるというのも大した話である。それこそ二人の間は祖父と孫と言っても通じてしまうだろう。

 彩光は晶姫にお目通りした部屋よりは調度品が少ないながらも、材に使われたの香りが芳しい部屋に通された。

 上下の座も無く二人は向かい合わせに座り、直ぐに膳が運ばれた。

「跡継ぎは息子が、他家との繋がりも上の二人の姉で固められました。なので晶姫はどうか好いた相手と一緒になれやしないか、というのが一族揃っての願いでありました」

 末娘は両親だけでなく兄や姉にも溺愛されているのだろう。

 それでいてああもわたくしではなくおおうやけの身の上を自覚出来ているのは、随分と良く出来た娘だ。

「まぁ、世は事も無しってこの時代に他所の藩の跡継ぎに娘嫁がせるのは難しいのも分かるさ」

 戦国の世であればより家に武力を付ける為に、いやそれ以前に直ぐ隣から攻め込まれない為に隣国との婚姻を結ぶのも率先されよう。

 気立ての良い娘であれば有力な家の主が手慰みに求め、幾らかの金銭を融通してもらうということもあろう。

 だが、人の間での戦は絶えて久しい今の世の中では、他所の家の者が入ってくるのは腹の中を弄られる機会を自ら作るようなものだ。少なくともそう言った事を危惧する者はお互いの身内にいる事だろう。

 行恒ゆきつねと晶姫がこれまで婚姻話が進まなかったのも、この辺りの折り合いがどうにも付かなかったのも原因だ。

「我が藩は民も侍も多くを喪いました。人の命を蝕む呪いが主であった災厄だった為に土地そのものの被害は軽いとも言えますが、その土地を耕し守る人がいなければ藩が栄える事は無い」

 彩光は膳の箸を取るついでに献立を見る。麦飯に焼いた川魚が一尾、沢庵と胡瓜の浅漬けが二切れずつ、小皿に藻塩が盛られて、汁物は味噌を溶かして柚の皮が削って浮かべられている。

 お世辞にも豪勢とは言えないが、慎ましくも心尽くしを感じられる。

「確か、人別帳の七割が亡くなったって話だったか」

「確認が取れずに行方知れずとなっている者を省いて、ですな」

 一言ずつ交わした状況の確認に、お互いが口を閉ざした。

 彩光も藩の領地を跨いでこの城下町に来るまでの道のりで収穫されないままに稲穂が垂れている田んぼを幾つも見ているが、それもむべなるかなという話だ。

 先の厄災が近関藩で起こったのは五月の中頃、田植えはどうにか終わった時分だ。そこから流行り病のように呪いが蔓延して、稲は人の手がなく自然に育った。手入れされた田んぼよりは実りは少なく味も悪しかろうが、そんな米さえ刈り入れが間に合わない程に人がいないのだ。

 他所の藩への干渉だとか侵攻だとか言われるのを気にせずに、もっと早く彩空藩あやぞらはんの自分達が討伐に乗り出せば、等と思う事も彩光には出来ない。その判断は彩光では無く、藩主である二人に与えられた責務だ。

 他藩に犠牲者を出さないように加勢を拒んだ門次も、藩の境界に厄災が迫り領地が脅かされたという大義名分が出来るまで動かなかった恒正つねまさも、噛みしめる歯が折れそうになり掌に爪が食い込み血を滲ませてその決断を下した。それを今更ああだこうだとケチを付ける奴がいたら、彩光は率先して殴り倒すつもりだ。

「受けちまった後にこんな事言うのも口憚れるんだが、姫さんに空染そらぞめなんてさせていいのかい? 俺に出す金あるなら、隣の藩からでも人手雇うなりそれこそ金出して住まわせるなりした方がいいんじゃないか」

「農民とは言っても迂闊に他所の血を入れれば藩が引っ繰り返る懸念がありますゆえに。それに刈り取ったとしてもそれを食べる民も侍もいないのです。今いる人の腹を満たすのにはもう十分な刈り入れが出来てます」

 彩光は憮然として魚の頭をぐしゃりと噛み千切って口の中で咀嚼する。

 腹立たしさをがりがりと噛み潰して麦飯と一緒に掻っ込んだ。

「晶姫だけでも彩空藩で豊かな生を送ってほしいのです。それで、出来れば心に蟠りなく、残る家の者にも心を残さずに嫁いでほしい。その為なら使い道のない私財を出すつもりでしたが、姫もあれはあれで儂に似て強情で、自分の懐から出すという。頼もしいやら寂しいやら、全く力ない親程始末に負えないものはありませんな」

 歳重ねた藩主の労しい自嘲を彩光は笑う気にはなれなかった。

 彩光は味噌汁を啜る。柚の皮の香りが鼻を抜けて気落ちした心もすっと流されるようだ。

「だがよ、荒れた田の稲でも食えねぇでもない。収穫出来んならそれに越したことはないよな。食いきれなくても米なら溜めといて来年に民に流しても他所に売ってもいいし、なんなら今年は朝廷への税が免除されてるだろうが来年の年貢に回すのも出来ろうさ」

 彩光はそこまで言って箸休めに胡瓜の浅漬けを口に放り込んで音を鳴らして奥歯で擦り潰した。

「稲穂が落ちるのに二週間程も先延ばしすりゃ、今の人手でも幾らか刈り入れ出来るよな」

「彩光殿、しかし、それは」

 彩光の言外の提案は齟齬なく門次に伝わった。

 空染の伎とは、未言という神秘を扱うものであり、彩光の腕であれば奇跡も起こせる。実際に先の厄災で彩光は討伐後に呪いの大半を空染の力で祓ってから帰ったのだ。

 それでも門次は力なく首を振った。

「流石にそれだけの支払いをする余裕は我が藩にないのです」

 民を思えば否やとは言いたくはないだろう。口惜しさが弱々しい声にありありと表れている。

 それに対して、彩光ははん、と明るく鼻を鳴らした。

「晶姫様の空染をするのに、この辺りの空の具合を確かめなきゃならねぇ。そんで空に空染玉打ち上げて試さなきゃならんのだが、試しに上げるのにそりゃまぁ、色んな種類の玉上げる必要があってな。つまりはだ」

 彩光は沢庵を麦飯に乗せて口に放り込んだ。

「もう受けちまった仕事の内って事さ」

 そう言って彩光は意地悪く笑ってみせた。頑固な職人は得てして依頼主の言い分を蹴って好き勝手するものだ。

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