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東倉庫横の休憩室は狭い個室で、あるのは小さなテーブルがひとつと、ガタついた丸椅子がふたつだけ。自販機も近くに無いし、もともと人通りが少ない場所に位置していることもあり、浬でさえ一度も利用したことがないスペースだった。時折、密会に使われているとかいないとか……そんな噂も聞いたことがある。
浬は妙な緊張を覚えながらノックをした。「はい」と少しくぐもった答えが返ってきて、扉を開ける。
「星七ちゃん、ごめんなさい。私やっぱり戻――……」
丸椅子に腰掛けていた雪平が、こちらを振り返った。長く繊細な睫毛で縁取られた目が、ゆっくりと見開かれる。
星七ちゃんじゃなくて浬ちゃんだ……すまない……
「お、お疲れ。さっき天宮に鉢合わせてその、これを渡して欲しいって預かったんだ」
ポカンと小さく口を開ける雪平に、浬はふたつの缶を差し出す。
「コーヒーと、あとなんかおしるこミルクサワーとかいうやつ。どっちがいい?」
「あ、じゃあ、おしるこミルクサワーで……好きなんです、それ」
雪平はおずおずとそう言って、おしるこミルクサワーの缶を両手で受け取る。まずそうと叫んだついさっきの自分をおうふくビンタしたくなった。
「……久城さん。私のミスで大きな損害を出してしまってすみませんでした」
「雪平のミスじゃない。どんなに丁寧にチェックをしていても気付けなかった不具合だ」
──ふと、御手洗まどかがプロデューサーだった頃にも、こうした事態に何度か遭遇したことを思い出す。今回ほど大規模でなかったものの、確か何件か……
「でも、せめてもう少し早く気付けていたらと思うと自分が情けなくて」
美しく整った顔を歪める雪平に、浬はコーヒー缶を空けようとしていた手を止める。
「なんか変わったな、雪平」
「え?」
「昔と比べて表情差分が増えた」
「……感情表現が豊かになったということですか」
「そう、それ。前はもっと少なかっただろ」
「自分ではあまり分かりません。ただ、〝ノラ猫〟と呼ばれていた頃よりはずっと、やりがいを感じています」
――雪平ノラ、アスクロのプログラマー。
新入社員のプログラミング研修で圧倒的な成績を叩き出し、すぐさま新作プロジェクトチームの一員に抜擢された実力者。
しかし、その新作のタイトルが
『何故、他の社員と仲良くしないといけないのか分かりません。この会社では、実力よりコミュニケーション能力が重視されるのですか』
浬が初めて聞いた雪平の言葉は、それだった。
『私はゲームのクオリティが上がればそれで良いと思います。その目的のために必要な能力と努力が足りていないので、本人にそう伝えただけです』
雪平に実力不足を指摘されたというプログラマーは、そこでついに泣き始めた。プロデューサーの井坂は困ったように溜息を吐いた。面談室の扉がほんの少し開いていて、そこから漏れ出ていた会話を浬は偶然聞いていて――〝もらい手のないノラ猫〟なんて揶揄されていた雪平ノラを、アスクロのプログラマーとして迎えることに決めたのだ。
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