14



 足がもつれそうになりながら走る。心臓がばくばくと音を立て、気持ちが逸る。一旦ホテルの外へ出て、微かに漏れる光を頼りに、脇道から中庭へと辿り着く。


 おもむろに立ち上がる背中が見えた。こちらには気付いていない。


 軽く呼吸を整えてから、浬は勇者の名を呼んだ。


「……トウヤ?」


 華奢な肩が僅かに跳ねる。しかしそのまま微動だにしない。中庭に植えられた木々の、葉擦れのの音だけが聞こえる。


 永遠に感じられた沈黙のあと、やがてその人はゆっくりと振り返って、微笑んだ。


「――……久しぶり、


 夜空のような彼女の髪が風に靡くのを、浬はどれほどの間、見つめていただろう。こんな時だというのに、頭に浮かんでいたのは天宮のコスプレ。否、水着写真だった。


「ま――待て、天宮、お前……」


 だらだらと汗が流れる。


 ずっと、どこかで引っかかっていた。フラグにも気付いていた。なのに、なかなか結びつかなかった理由は――だ。


 あの胸は? くびれは? 今日なんて、みんなで大浴場に行ったのだ。とんでもなく失礼だとは思いつつも、どうしても尋ねずにはいられない。


「お、お、おと……っ」


「い、今も昔も女です! ……嘘をついてて、ごめんなさい」


 しどろもどろな浬の問いを慌てて遮り、天宮は気まずそうに視線を逸らした。







 天宮星七は子供時代の殆どを病院で過ごした、といっても過言ではない。体のあちこちに腫瘍ができては、手術を繰り返す生活を送っていた。


 両親は仕事が忙しく、なかなか見舞いには来られなかった。ふたりとも冷酷な人間というわけではなかったし、心配してくれているのは十分伝わってきていたが、どちらも少々生真面目な性格で――きっと良かれと思って病室に送ってきたのは、算数や国語のドリルだった。


 週に一度、会いに来てくれていた父方の祖母は、手術によって一部を剃らなければならなかった星七の髪を見て涙を流した。


「女の子なのに、かわいそうに……」


 今はそんな風に思わないけれど、子供の心は祖母の言葉を素直に受け止めてしまった。あぁ、女の子で髪がないのは可哀想なんだと、プレゼントされたニット帽を被りながら思ったのだ。


 性格が捻くれてしまったのを、それらの境遇のせいにはしていない。ただ、病院の世界しか知らない星七は、毎日がつまらないと感じていたのも事実だった。


 唯一の楽しみは、夜、病室の窓から見える星を数えること。名前が星七だから、星が七つあったら明日はラッキー。都会の曇りがちな空、しかも小さな窓から七つも星を見つけられることは稀だったが、自分で考えたこのゲームを、星七は気に入っていた。


 ただ、本当にラッキーなことがあったのは――たったの一度だけ。


 そしてその一度は、星七の人生を大きく変える出会いだった。





「かーいーりぃぃぃーーー」


 ボリュームは抑えているのに、十分にドスの効いた声だった。暇を持てあまし、散歩に出かけていた星七が顔を上げると、そこには腰に手を当てて仁王立ちする女性の姿があった。しかし彼女の目の前には誰も居ない。


 ――と思いきや、居た。


 自販機と自販機の間に挟まるようにして、少年が座り込んでいる。


 母親らしき女性を見上げ、明らかに「げっ」と言いたげな表情をしている、半袖半ズボンの少年。手に何かを持っているようだったが、星七にはそれが何なのか分からなかった。

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