外伝.黒鴉の眷族と遥か太古の幻想種 後編

 冬の森は青々と冷え、静かだった。

 見知らぬ気配を感じつつ、走るリースの頬はほんのりと赤く染まる。


 それからすぐに、リースはナルテリシオを見つけた。




 そして――見知らぬ夜の気配の主も。




 リースはぞっとして息を呑んだ。


 それ・・は、己を見上げるナルテリシオをじっと七つの眼で見下ろしていた。


 白銀と見紛う真白の体躯。先端がぼやけて空気に溶ける一対の白氷の枝角。六本の脚の蹄は三股に分かれる奇蹄、それがじっと大地を踏みしめているので、リースはそれ・・が幻ではないのだと理解することができた。


 鹿に似た頭に、ずらりと並ぶ七つの目は、言い表しようのない複雑な色合いで――白や青、緑の入り交じるその色は、リースがオーロラを知っていればそれに喩えただろう――この世のものとは思えなかった。


 生物の形というのは、彼らが進化の過程で生きるに最も適した姿になるため、無駄を削ぎ落とされている。

 しかし今リースの前にいるそれ・・はその理から大きく外れていた。不要なはずの目に脚、有り得ない氷の角。

 だと言うのに、理の内側にこうして立っているので、リースは総毛立つような心地になるのだろう。


(呼吸すら、躊躇ってしまう……)


 それは畏怖だった。

 不可侵の領域に対する畏れだった。


 理解の外にあるのに「美しい」と感じる。自然の中にあって、明らかに異質なのに、怖気をふるうほどの自然美だった。


 そしてリースは同時に気づく。



 ――これは、フェイだ。



 冬の空気によく似た冷たい夜の香気を持つ、ネムサクナリアよりも遥かに古い時代のフェイだと確信した。


(ナルを、ナルを呼ばないと)


 その恐るべきものの前に、ちょこんと座ったナルテリシオは、やって来たリースにまったく気づきもしない様子で、真白の鹿に似たそれ・・をぽけらと見上げていたが、流石に親の眷族の焦燥は感じ取ったのか不思議そうに振り返った。


「りーす?」


 そこで初めて、それ・・の目がリースに向けられる。七つの目が、リースの存在を認識した。


「っ!!」


 直後、七つの眼から、強烈な勢いで何か、情報が流れ込んでくる。リースは目もそらせず、ただその奔流に呑まれた。




 それは、永い永い時の旅だった。


 自然と、人とが隣り合い、静かに暮らしてきたときの光景だった。


 神と呼ばれたそれ・・は、やがて求められた冬の権能を宿す。


 人がそれを忘れても、それ・・は人の祈りを忘れなかった。


 ――嗚呼、そうだ。


 だからまた、こうして冬を祝いに来たのだ。




 ハッとして、リースが情報の奔流から目を覚ますと、もうそこに、あの真白の鹿に似たフェイはいなかった。


 ナルテリシオがぴぃぴぃ泣きながら、尻餅をついたリースに縋りついている。彼は、さっきのはもしや夢だったのだろうか、とすら思ったが、あのフェイの立っていた場所に氷の花がいくつも咲いていたので「ああ、夢じゃないんだ」と感嘆の息を吐いた。


 泣いているナルテリシオを抱き上げ、リースはよろよろと歩き始める。まだ、永い時の旅の余韻が抜けない。


「ナル、さっきの、怖くなかった?」

「さっきのー? うん、こわくなかたー!」

「そっか……」


 そっか、と呟くように繰り返す。


 確かに、リースが感じたのも恐怖ではなかった。圧倒的なものへの畏れ、それは恐怖に似ているが全くの別物である。


「ずっと昔、君たちフェイは、あんな姿をしていたんだね」


 森に、空に海に、不可侵の聖域があった頃。


 永く人と交わることのなかったものたちは人に寄り添う姿を知らなかったのだろう。


 そして偶然に彼らを目にした人が、彼らのその姿に“神”を想起したのだろう、とリースは思った。


 理を外れながら、理の内側に佇むもの。

 ただ、人の祈りを忘れぬもの。


「……君たちは、昔から優しかったんだね」


 遥か遠き太古の幻想種。


 リースはそこに、ネムサクナリアたちと変わらぬ人への想いを知ったのだった。




――――――




「おかえり。お前たち、冬のフェイに会ったね?」


 住処に戻ってきたリースたちに、ネムサクナリアは開口一番にんまりと笑ってそう言った。問いの音をしてはいたが、断言する調子である。


「あれは、冬のフェイと、いうんですか?」


 リースの言葉に、ネムサクナリアは深く頷いて「そうとも」と言う。


「太古の昔、わたしも生まれていない、神代に近しいその頃に、ただ、雪から生まれただけのあのフェイは、人間たちから『冬の神』と呼ばれ、祈りを受けて、冬のフェイに変わったんだ」

「そういうこともあるんですか……?」

「今じゃそうないよ。かつては神秘の濃度が遥かに高かったから、フェイも、それ以外の夜の生き物たちも、皆活発で、生まれ、変質して、人の隣に生きていたんだ」


 ネムサクナリアは、隣で苔の寝床に転がりながら「さむいさむいなのよー」と言うナルテリシオの丸い頭を撫でる。


「わたしたちは、やがて人の子と触れ合うことを覚えた。それに、神代の姿は適さなかったからね」


 撫でられたナルテリシオが「いーっ!」と威嚇の声を上げて苔の寝床から転がり落ちる。毛羽立って薄く見える黒の羽をばたつかせてリースの背後に回った。

 自分の背中にぴとっと張り付くナルテリシオに苦笑して、リースはネムサクナリアに話の先を促す。


「思えばそれは、人の子と我々との距離が近づきすぎてしまった兆候だったんだろう。そこから次第に同胞の数は減り、追い討ちをかけるようにして鉄の獣が生まれた」


 ナルテリシオが身を震わせてリースの腹の方へ回り込んできた。

 鉄の竜から守られて孵化したこのフェイは、未だ鉄の獣に会ったことはないと言うのに、翼どころかその銀の髪まで逆立てて「ふるるるる」と喉を低く鳴らしている。


 本能かな、とリースはその小さな頭を撫でてやった。今度は威嚇の声は上がらず、ナルテリシオはされるがままだ。


「そんなわけだ。お前たち、良い経験をしたね」

「はい」

「あれが来たのだから、今年の冬の明けは良いものになるだろうねぇ」


 リースが目を丸くすると、ネムサクナリアは悪戯っぽく笑って続けた。


「人の子が冬に祈るのは、その明けた頃がより良いものとなるように、だろう?」

「あ……」


 いずれくる芽吹きの季節への祈り。

 寒く厳しい眠りが暖かな目覚めを迎えるように、広く続く銀世界に願う。


 リースは冴え渡る冬の夜空をふと見上げて、あの美しく畏れを抱かせるフェイを想った。


 そうして想いを受けた冬のフェイは氷の粒を散らしながら、また別の森の冬を祝福する。太古の人の祈りを決して忘れず、春への道を繋ぐため。



 冬よ、その明けに、どうか、麗かな春を。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜を統べる黒鴉 ふとんねこ @Futon-Neko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画