外伝.黒鴉の眷族と遥か太古の幻想種 前編

 寒い朝だった。

 すっきりとした冷気が辺り一面を満たしていて、呼気はふうわりと白くなる。きりりと締め上げるような、そんな寒さだった。


 苔を敷き詰めた寝床で身を起こした少年は、自分の周りでわらわらと身を寄せあっている綿花のフェイの一匹を捕まえて「さむい」と呟いた。


 彼の寝床から少し離れたところで、彼の育ての親であり、彼が眷族として魂を繋げた相手であるフェイが広げた黒翼にくるまるようにして眠っている。

 黒鴉のフェイネムサクナリア。それが少年――リースが愛してやまないそのひとの名だった。


 朝食の仕度をしなければ、とリースは寝床から這い出た。綿花のフェイたちはわらわらと彼についてくる。


 木々が枝葉を折り重ねるようにして雨風から彼らを守ってくれている家のようなところを抜け出ると、辺りは一面銀世界だった。


「わ……どうりで寒いわけだ……」


 吐き出す息も白く染まっている。細く吹いた風が、リースの吐いた息をさらって冷たい空気に解かしていった。


「おーい、ナルー、ナルテリシオー?」


 ネムサクナリアよりも早く起床するリースのこのところの朝一番の仕事は、早起きして森を駆け回る小さなフェイナルテリシオを探すことだった。


 ナルテリシオは、ネムサクナリアと、白狼のフェイフィスセリウスとの間に、夜の一雫を下ろして生まれた新たな黒鴉の子だ。


 まだふわふわと毛羽立った小さな黒翼をバタつかせて、森を縦横無尽に駆け回る小さなフェイ

 飛ぶより速いと言ってチョロチョロと走り回るその姿は、黒鴉の子だと言うのにまるで鶺鴒せきれいだ。


 この近くにはいない。

 ふぅ、と短く息を吐いたリースはそばの枝に掛けてある上着を取り、さっと身に纏うと小さな水瓶を掴んで雪の中へ繰り出していった。




 白い雪に包まれた森の中で、動くものはよく目立つ。狐に、鼠。時折、枝から落ちる雪。

 リースは目を凝らしてナルテリシオを探しながら、さくさくと雪を踏み、川へと向かった。


 真っ白な川辺に膝をつき、爽やかな音を立てる水面を見下ろす。


(一年経ったのに、まだ見慣れないなぁ)


 リースがそうひとりごちるのは、水面に映る己の瞳と、背中の翼のことだった。




 去年の夏、満月の夜に、リースはネムサクナリアの眷族に迎えられた。


 月の綺麗な夜だった。星々は瞬くように煌めいて、空はどこまでも濃藍に、艶めく黒に満ちていた。


 高鳴る胸を押さえながらその夜空を見上げたリースは、まるでネムサクナリアの夜のようだと思った。

 静かで穏やかな夜。彼が愛した美しいひとが生きる闇。銀の星が流れて、まるで泳いでいるかのように見える黒藍の海。


「リース」


 眩しいものを見るように、目を細めて空を見上げていた彼をネムサクナリアが呼んだ。


 梟の瞳に似た、赤みがかった黄金の双眸がリースを見つめていた。月光の降り注ぐ草の上に双翼を休ませて腰を下ろしたネムサクナリアは「こちらへ」とリースを手招く。


 ネムサクナリアの向かいに腰を下ろすリースを、小さなフェイたちがそわそわと見守っている。

 おしゃべりなヒナゲシのフェイたちも今日ばかりはその小さな口をきゅっと噤んで身を震わせ、微かな香りを振り撒いていた。


 ネムサクナリアのつまであるフィスセリウスは、杉の木の下から二人を見つめている。ジタバタ暴れるナルテリシオはその腕の中だ。


「よい夜になって良かった。お前を迎えるのにぴったりだ」

「そうですね、ネム」

「もう確認はしないよ。覚悟は決めたね?」

「はい」


 ネムサクナリアの中性的な美貌に柔らかな微笑みが浮かぶ。


「よろしい。それじゃあ、始めようか」


 一つ、瞬きと頷きを。

 それだけで空気が変わる。


「手をお出し」

「はい」


 リースが差し出した両手を、ネムサクナリアの両手が優しく掴まえて握る。ひんやりとした夜の体温。重ねた手の間でお互いの熱が混ざり合う。


「お前は答えるだけでいい。面倒なことは全てわたしがやるからね」

「分かりました、お願いします」


 よろしい、とネムサクナリアはまた言って笑った。

 そして深呼吸を一つ。スッと凪いでいた空気に一本糸が通ったかのような緊張感が現れる。

 息を飲むリースの前で、ネムサクナリアが目を伏せる。



 眷族の儀の始まりだった。


 ネムサクナリアの体からふわりと魔力が溢れ出す。夜の気配を濃密に含むそれは空気を幽かに震わせていた。



 リースは自分を包み込むネムサクナリアの温かい魔力を感じていた。


 繊細な魔力の動き。ネムサクナリアの双翼の先は震えていた。これは、どれだけ強いフェイにとっても大変なことなのだとリースは理解する。


 ネムサクナリアの薄い唇が動いて、人の耳には聞こえない言葉を紡ぐ。

 しかし、見ているだけで詠うような、祈りと祝福の言葉なのが良く分かって、リースはなんだか涙が出そうだった。


(ああ僕は、ネムの祝福を受けている)


 これから、人の心には永い、永すぎる時を歩む自分への祝福と祈り。織り上げられたそれはリースを包む魔力に繊細な紋様を飾りつけ、彼を夜の子の眷族に変える支度を整えた。


「――リース。お前は、わたしの夜を受け入れるかい?」


 伏せていた睫毛を持ち上げて、黄金の瞳がリースを真っ直ぐ見据えた。嘘の覚悟は見抜かれる、真実だけがこの先の、美しい夜に迎えられるのだ。


「――はい」


 リースは目の前のフェイから目をそらさずに、そう答えた。それは、目の前に開かれた人ならざる生の運命を見据える眼だった。


 そしてそれは――真実、彼の覚悟だった。


 ふわり、とネムサクナリアが微笑む。直後リースを包む魔力が優しく彼の身に染み込んだ。


『斯くして汝は夜の一片ひとひらとなる』


 フェイの言葉だ、と確信した。太古の昔から、継がれてきた幻想の音。森に響く梢の音に、空を行く風の音に、そして海原の潮騒に、ずっと聞こえていたはずの音だった。


(受け入れられた、彼らの世界に)


 ほろりと涙が溢れ出した。たまらなく嬉しかったのだ。体が熱くて、どこもかしこも溶けてしまいそうなほど幸福に満ちていた。


 夜色のざわめきが去り、儀式の終わりが凪として告げられる。ネムサクナリアがリースを抱き寄せて「ありがとう、リース」と囁くのを聞きながら、彼はひたすらに泣きじゃくった。


 そうして、泣きつかれて、眠りについたリースは、半年目覚めなかった。


 人の身から、フェイの眷族の身へと生まれ変わるための時間だと、目覚めた後にネムサクナリアが教えてくれた。


 目覚めたリースの瞳は、ネムサクナリアと同じ、赤みを帯びた黄金になり、背中には黒い翼が生えていたのである。




(それでびっくりして、羽が暴れて、更に驚いたんだよね……しばらく自分の意志で動かすのも難しくって……)


 背中から腿の辺りまでの黒翼は、まだ不自由で飛ぶことができない。このところのリースの午後は、もっぱらナルテリシオと一緒に木から飛び降りての飛行訓練に費やされている。


(年月を重ねれば、ネムのもののように立派な大きさになるのかなぁ)


 ばさり、と広げてみる。やはりネムサクナリアの翼のような翼開長がないので、いまいち格好がつかない感じがしてしまうのだった。


 そのとき。


 ぼすん、と何かが背中に降ってきて、リースは「わっ」小さく声を上げた。しかしすぐにその大きさと温かさから正体を察して苦笑する。


「おはよう、ナル」

「りーす! はよう!!」


 リースが立ち上がると、背中にはっついていたそれがにょろにょろと彼の体を移動して腹の方へやって来る。

 彼を見上げる白銀の瞳、陽光を反射する銀の髪と、小さな黒の翼。幼き夜の子、ナルテリシオだった。


「『はよう』じゃなくて『おはよう』だよ」

「んん~っ……お、はよう!!」

「まだ難しいね」


 リースはナルテリシオを腹にくっつかせたまま、水瓶片手に歩き出した。


「りーす、きょうも、とんであそぼう」

「そうだねぇ」

「もりで、いちばんたかいきから、とぶ!」

「それはまだ危ないよ。いつも通りの木でやろうね」

「ん゛ーっ!」


 ふわふわと毛羽立った幼い翼をばたつかせ、不満を表明するナルテリシオ。


「暴れないの。落ちちゃうよ」

「なる、おちないよ」

「そっか」


 そんなやり取りをしながら住処へ帰ると、丁度目覚めたネムサクナリアがぐぅーっと伸びをしていた。


「ネム、おはようございます」

「ああ、おはよう、リース。それに、小さな我が子も」

「はよう!」


 ナルテリシオを腹につけたまま、リースは貯蔵してある木の実等を調理し始め、ネムサクナリアがそれを楽しそうに眺める。彼らの朝はこうして賑やかに動き出すのだった。






 その夜。寝るのを嫌がって青に沈む夜の森へ駆け出したナルテリシオを追いかけ、リースは月明かりの中を走っていた。

 星が金剛石の粒のようにきらきらと輝いている。冴え渡った空気の中、濃藍の夜空は至上の美しさだった。


「ナルー! 遊びなら明日もできるから、出ておいでー!! ナルー!」


 夜行性の生き物たちの声がする。リースの上を飛んでいく梟に声をかけ、ナルテリシオを見ていないか問うが、森の賢者は何かに夢中なようで、リースの声には応えず飛び去ってしまう。


「うーん……こういうときは駒鳥のお喋りさが懐かしくなるなぁ」


 フェイの眷族の瞳は夜の森でもよく見える。月明かりが木の葉の縁に輝き、森を仄かに明るくするのだ。

 人の目では捉えられないそれを、眷族の目はしっかり捉える。

 更に言えば冬の間は真白の雪が薄青い月明かりをたっぷり含んでいるので、その明るさはひとしおだ。



 そのとき、ふと、空気の冷たさとは違う気配がひやりと頬を撫でた。


「……?」


 知っているもののような気がして、少し考えたリースは「あ」と小さく呟く。


(ネムの、魔法の気配に似ている)


 すなわち、古き幻想の気配だ。


(他のフェイ……?)


 ネムサクナリアのものとは違う、少し冷たい夜の匂い。リースは首を傾げた。


「ネムの知り合いかな」


 しかしまずはナルテリシオだ。


 初めて見る親以外のフェイにナルテリシオがどんな反応をするか分からないし、あの子はその辺りで寝落ちすることもあるのだ。


 早く見つけるに限る、とリースは足を早めた

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る