第五話.夜の子の眷族

 暖かな日差しが注ぐ森の中で、リースは地面から顔を出したばかりで柔らかい芝の上に転がっていた。


 今日も変わらず銀色の卵は卵のまま、それを狙う鉄の獣は群をなしてこの森にやって来る。

 ネムサクナリアは卵が入った籠を抱いてうとうとと微睡んでいることが多い。勘を取り戻したらしいフィスセリウスは怪我をしなくなった。だから鉄焼けの薬はもう必要ない。


 リースは暇をしているのだった。


 いや、やろうと思えば様々なことができる。魔法の訓練をして、世界の真理に近づくために森や川や風に流れる力を完全に読み解くのに、人間の時間は圧倒的に足りないからだ。

 少しでも時間を見つけたら、そういったことに費やしてきたのがリースである。


 しかし、今のリースはどうしても世界を巡る大いなる力に目を凝らし、耳を澄ませる気が起きなかった。

 原因は上手く言語化できないいくつかの不安。ネムサクナリアが約束をくれなかったこと、増える一方の鉄の獣のこと……心配ないはずなのにどうしても心の中で不安が渦を巻くのだ。

 だから芝の上に転がって、健康的に日の光を浴びている。元気が湧けば心も晴れやかな方へ向かうはずだと適当な理由をつけて。


 そんな彼に、悪戯好きの駒鳥が集って楽しげに歌を歌い始める。そこがリースの腹の上胸の上、顔の上だろうと彼等はお構いなしだ。


「ちょっ……下りろよお前たち」


 嫌だね、と鼻の上の駒鳥が答える。鳥の言葉は単純で軽やかだが、この駒鳥の言葉は何だか鼻につく感じがする。

 続いて腹の上で歌っていた小さな駒鳥が暇だからいいでしょう、と言い、他の駒鳥もそれに賛同するように好き勝手鳴いた。

 リースは溜め息を吐いて「顔だけはやめてくれ」と交渉し、顔の平和を勝ち取って目を閉じた。駒鳥がうるさい中で昼寝をしようと思ったのである。


「やあ、そこの子」

「もう僕は寝るんだ、放っておいて……」

「えー、駒鳥がこんなにうるさいのに?」

「他人事だと思って…………ん?」


 駒鳥と話していると思い込んでいたリースは相手の言葉に違和感を覚え、そして話していた言葉が鳥の言葉ではないことに気づいて目を開けた。


「あー、起きた」

「……誰?」


 そこには、頭から小さなオークが生えた少女が立っていた。見知らぬ少女だったし、その気配はフェイでも人でもないためリースは混乱した。


 彼女は芝の上に横たわるリースの顔を覗き込むように軽く上体を屈めており、柔らかな栗色の髪の先がリースの頭の少し上で揺れていた。

 困惑したリースの問い掛けに、彼女はころころ笑って「あたし、イルベッタ」と答える。

 素直に答えたところを見るに、意地の悪い魔のものの類いではなさそうだ。駒鳥たちも気にすることなく勝手気儘に鳴いている。


「ええと……僕はリース。あの、何か僕に用ですか?」

「ネムサクナリアのところに案内してほしかったんだけど……あなた、眷族じゃないよね?」

「え?」

「でも駒鳥と話せるってことはフェイから教えを受けてるんだろうし……うーん」

「あ、あの、ちょっと待って。眷族って何ですか?」


 慌てて身を起こしたリースは、一人考え込み始めたイルベッタの腕を引いてそう訊ねる。目を丸くした彼女は「フェイと一緒にいるのに知らないの?」と問い返してきた。


「知らない、です……」

「ふぅん……」


 イルベッタは頷きながら目を細めて腕を組んだ。知らないことがあると気になって仕方がないリースは「教えてください」と彼女に頼む。


「……じゃあまず、あたしの自己紹介のやり直しね」


 そう言って、イルベッタは頭に生えたオークの木に軽く触れた。


「あたしはオークフェイマチスヒッタスの眷族イルベッタ。今日はマチスと一緒にネムサクナリアの創卵成功のお祝いに来たの」

フェイの、眷族……」

「あたしは元人間よ。マチスに拾われて約束を交わして、眷族にしてもらったの。だからもう歳は取らないし、人間にも戻らない」


 その言葉は、曖昧な不安に満たされているリースの心を大きく動揺させた。

 彼の動揺を感じ取って少しばかり目を細めたイルベッタであったが、永く眷族として生き、主人である木のフェイの自由奔放さを受けてきた彼女は特にそれを気にしなかった。

 そしてイルベッタは頭に生えた木の枝を揺らして首を傾げて口を開く。


「とにかくあなたはフェイの教え子みたいだから、ネムサクナリアがいるところへ案内してくれないかしら?」


 リースは動揺しながらも、彼女のその言葉に素直に頷いた。



――――――――



 イルベッタを連れてネムサクナリアの巣へとやって来たリースの目に飛び込んできたのは、木の幹の茶色をした髪を緩く一つに結んで背中に垂らした長身の老爺の姿だった。

 彼と楽しげに言葉を交わしていたネムサクナリアが二人に気づき、老爺に声をかける。それで振り返った老爺の目は深い深い木の葉の緑色をしていた。


「おお……イルベッタ、どこへ消えたと思ったら」

「えへへ、ごめんねマチス。若鹿に声をかけられて気を取られちゃったの」

「そうかそうか……おや、そちらは」


 柔らかな生成りの長衣を纏った老爺の視線がリースに移る。穏やかな微笑みを浮かべたネムサクナリアが「さっき話したリースだよ」と告げ、それから「リース、こちらがマチスヒッタス。古く賢き楢のフェイだ」と教えてくれた。


(このひとがイルベッタの言っていた……)


 挨拶を交わしながら、リースはそんなことを思っていた。彼女に約束を与え、眷族にしたというフェイ

 永く生きている樹木のフェイは年老いた姿をしていることが多いが、マチスヒッタスはリースが出会った中でも最高齢と言える姿をしていた。

 その顔に刻まれた皺は木の幹のそれの様で、重ねた時の長さとその身の内に溢れる叡智を窺わせる様子であった。


「リースや、お前さん、良い目をしておるのぅ……」

「ふふ、だろう」


 何故か褒められたリース本人でなくネムサクナリアが得意気に答える。その後マチスヒッタスは穏やかに笑ってネムサクナリアを振り返った。その腕の籠の中にある銀の卵を優しく見つめる。


「良い卵じゃ……久々に我等の同胞が増えることに喜びを、そして悩む若き人の子には祝福を」


 柔らかな皺が刻まれたマチスヒッタスの手が卵をつるりと撫でた。それからそのままその手はリースの額にそっと触れた。

 指先を通じてこのフェイの持つ叡智の欠片を分けられた様な気持ち。リースは心地よく目を閉じてそれを受け入れた。




「リース。あたし、ネムサクナリアがあなたにあの事を黙っている理由が分かる。マチスもそうだったから」

「……じゃあ、どうやって」

「彼らの永い生に付き合うことを本気で誓うことね。無力な人の子にできることなんて、夜のいきものである彼らを必死に口説くことだけよ」

「…………」


 考え込む様に沈黙したリースを、マチスヒッタスとよく似た微笑みで見つめて、イルベッタは「じゃあ、またね」と先に歩き出していたマチスヒッタスのあとを追いかけていった。

 黒翼の先が地衣類をさやりと掠める微かな音と共にリースの隣へ並んだネムサクナリアが「何の話をしていたんだい?」と首を傾げて訊ねる。


「……何でもないです」


 リースはふるふると首を横に振り、ネムサクナリアの視線を避けるように森の方へ歩き始めた。

 取り残されたネムサクナリアはしばしきょとんとして愛しい教え子の背中を見つめていたが、そのうち小さく喉を鳴らして笑い始め「あの子は見ていて本当に飽きないな」と自分の巣へ向けて踵を返した。



――――――――



 森の中、木陰に転がりながらリースは呻いていた。


「何て言えばいいんだろう……」


 言わずもがな、眷族のことである。


「普通に言っても、はぐらかされるかもしれないし……」


 以前からネムサクナリアは質問にこそ真っ直ぐ答えてくれるものの、避けようとしている話題に触れると露骨にはぐらかそうとする傾向にあった。

 永く生きているくせに、と何度口を尖らせたことか。いや、永く生きているからこそあれだけはぐらかしが上手いとも言えよう。何にせよリースには面白くない。


「……永い生に、付き合う」


 果てしなく織り上げられていく昼と夜とを渡る永い命の旅。フェイの行く末とはいったいどんなものなのだろうか。


 ネムサクナリアやフィスセリウスと……いずれ生まれてくる卵の中の子と共に、人には有り得ぬ永き生を生きるのは楽しそうだと思う。

 リースはこの世界のことをもっと知りたい。人の目では捉えるのに苦心する世界の真理を紐解きたいと思う。それには膨大な時間が必要だ。


「……僕では、眷族に相応しくないんだろうか」


 木の上からリースを見下ろしていた栗鼠がその言葉を拾い上げてするすると木を下りてきた。少年の肩に乗った栗鼠は雪上を転がる様な小さな囁き声で元気づけようとしてくれる。


「僕には、ネムがよく見えない……」


 栗鼠の声を聞いていたリースはそう呟いて両膝に顔を埋めた。涙は流れない。悲しいわけではないからだ。


(……僕は、不安で、寂しくてたまらない)


 不意に強く吹いた風が木々を揺らして駆け抜けていった。栗鼠はそれに乗るようにしてリースの肩を下り、他の木の枝葉の狭間へと姿を消した。

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