第四話.約束

 白い日が森の全てを照らし始めた頃、いくつかの傷を負ったフィスセリウスが二人のもとに戻ってきた。


「フィス!」

「全て片付けた。お前たちは無事か」

「はい。あの、傷の手当てを……」


 薬草を握り締めたリースの言葉に「鉄焼けに効くものの作り方は覚えているね?」とネムサクナリアが言う。


 リースは頷いた。鉄焼けは鉄に弱いフェイ特有の怪我で治りにくい。傷を癒す薬草に加えて鉄を退けるための火の力が必要だ。


 近くに生えているよもぎを採り、石の器に入れてすりつぶす。普通の切り傷ならばこれだけで止血が可能だ。

 しかし今回はフェイの鉄焼け。鉄には火だ。リースは手の中に身の内の熱を集める。

 魔法も万能ではない。何かを生み出すには別の何かを使う。その多くは体内を巡る魔力と呼ばれるもの、そして熱だ。


 小さな声で「火よ」と呼ぶ。ふっと熱が奪われる感覚のあと、ぽっ、と小さな火が手の中に灯った。

 それを逃がさないように両手で囲い、潰れたよもぎが入った石の器に押し込める。


 火の力が伝わりきるまで手を離さず、蓋をするように押さえ続ける。

 完成の瞬間は感覚だ。火の気配が消えたら完成、ということになっている。


 手を離すと、そこには確かに火の力を纏ったよもぎがあった。成功だ。リースは安堵し、それからすぐに顔を引き締めてそれを手に取る。


「塗りますね」

「ああ、頼む」


 頷いたフィスセリウスの腕、ほどよく筋肉のついたそこに、赤く爛れた切り傷がいくつかあった。鉄焼け自体は見たことがあったが、ここまでのものは初めてである。


 たっぷりとすくったよもぎを鉄焼けの切り傷に塗り込む。

 フェイでも傷を放置すれば化膿するので、浄血作用のあるよもぎは必需品だ。

 住処の近くに植えておいて良かったとリースは安堵の溜め息を吐く。


「温かいな……」

「痛くないですか?」

「痛みは引いた。感謝するぞ、リース」


 フィスセリウスの微笑みにリースは頷きを返した。


「よしよし、間違いなく覚えているね。流石わたしの教え子だ」


 後ろから近づいてきたネムサクナリアに頭を撫でられ、リースは照れを押し隠した顔で「これくらい……」と呟く。

 しかし嬉しさは溢れ、ふふふと笑ってしまった。そんなリースをフェイ二人は柔らかい微笑みで見つめる。


 やがて、卵の入った籠を抱きかかえたネムサクナリアがその表情を引き締め「それで、獣どもはどんな様子だった?」とフィスセリウスに訊ねた。


「弱いものばかりだった。そのくせ鼻ばかりよく利いて、まったく腹立たしいものだな」

「ふん、わたしたちの卵を奪おうなんて本当に愚かな獣だね」

「あの、どうして鉄の獣はフェイの卵に気づくんですか? 創卵も抱卵もずっとこの森の中でやっていたのに……」


 二人のフェイがぱちくりと目を瞬いてリースを見た。それから彼らの人に似た麗しい顔が、獰猛で美しい獣の様な狂暴な笑みを浮かべる。


「忌まわしいことに、奴らは鼻が利くんだよリース」

「我々以上にな」

「っ、そう、ですか」


 笑みは威嚇である。リースは今それを身をもって理解した。


(怖いなぁ……)


 やはり彼等はどこまでも人と違ういきものであった。


 けれどリースは、そんな美しく恐ろしい夜の獣たちを、どうしようもなく愛しているのだった。



――――――――



 それから、鉄の獣たちはほぼ毎日のようにネムサクナリアの森を訪れた。

 その全てがフィスセリウスに、そして時折ネムサクナリアの手によって倒される。


 晴れた夜は赤々と燃えるフェイの火に焼かれて。

 雨降る昼はぬかるんだ地にかけられた魔法に飲み込まれて。

 霧の朝には白銀のフェイの牙にかけられて。


 五度目の襲撃を迎える頃にはリースも慣れて、フィスセリウスが鉄の獣たちを追い立てて狩る音を聞きながら夕食の支度をすることができるようになっていた。

 鉄の獣は人間に興味を抱かないので食料探しも問題なく一人で行える。気を付けるのは鉄焼けの治療のために蓬を切らさない様にすることだけ。


 鈍色の鎧を全身に纏った様な姿をした獣の群は、ただひたすらに夜を宿した卵を狙うばかりだった。


「獣ばかりで良かった。煩わしくはあるけれど、この子を確実に守ることができる」


 兎の肉を食みながらネムサクナリアがそう呟いた。リースは首を傾げ、それから鉄の獣には特別な種類が存在することを思い出して「確かにそうですね」と頷く。


「……ネム。鉄の竜と言うのは、そんなに強いんですか?」


 そう訊くと、焚き火の色に妖しく煌めく黄金の双眸がリースを見た。白い顔に影が踊っている。その様はぞくりとするほど美しかった。


「そうだよリース。鉄の竜は、わたしやフィスが、本気で戦ってやっと勝てる、下手をすれば負ける、そんな相手だ」

「そんな……」

「二人いれば絶対に大丈夫だから、そんな顔をするんじゃないよ」


 ネムサクナリアの手が、青褪めたリースの頬を撫でる。冷たくて温かい不思議な体温。リースはその手に不安を預けて微かに頷いた。

 彼のその頷きに滲むわずかな不満の気配を察したのか、溜め息を吐いたネムサクナリアは「リース……」と話を続ける。


「この世の全ては常に流動している。永い時を生きてきたわたしたちだって、常にその流れを受けていて、いずれは緩やかに消えていくんだ」


 彼だってそんなことは知っている。ネムサクナリアがそれを理解しながら、彼を安心させるためだけに「絶対」なんて確証のない言葉を吐くことが気に入らない、そして怖いだけ。


 この世界は常に流動している。

 どんな生き物にも“絶対”はない。


 それをよく知っているはずのこのフェイが、敢えてそれを口にするのが怖い。


「だったら……いえ、だからこそ、絶対なんて、そんな意味もない言葉じゃなく、約束が欲しいです、ネム」

「…………」

「……僕の最期まで必ず一緒にいると、約束してください」


 人ならざるものの約束は“絶対”だ。

 この世界に唯一ある“絶対”と言ってもいい。


 真名を当てられた金紡ぎの精が、簡単に奪えるはずの王妃の赤子を諦めたように、彼等にとって約束は命を縛る様な強い力を持っているのだ。


 この願いが残酷であることをリースは理解している。それでも、ネムサクナリアがありもしない“絶対”を口にしたという恐怖を掻き消すには、これくらいのことが必要だった。


(ネム、あなたはもしかして鉄の竜が来ることを予見しているの?)


 だったら尚更、その命を約束で縛らせてほしい。この短い人の生に、その永い生のひとときを確実に与えてほしい。


 リースの縋りつくような声音に、ネムサクナリアはじっと沈黙していたが、やがて微かな羽の触れ合う音と共にその漆黒の大翼を広げ、リースを包み込むように抱き寄せた。


「……お前には最初に教えたね。フェイと約束なんてしては駄目だと」


 何故だか覚えているかい、と訊かれてリースは呻いた。


「……人の望み通りに、なるとは限らないから」

「そう。わたしたちは人とは完全に違ういきものだから、約束の結果が人の望む通りになることなんてそうそうない。そんな約束、しないに越したことはないんだよ」

「意地悪だ……僕の望みなんて、ちゃんと知っているくせに」


 そう言って胸に頭をすり寄せると、ネムサクナリアは低く笑った。


「そうとも。わたしは意地悪なのさ」


 分かっているならもうお眠り、とネムサクナリアは言う。翼から伝わる暖かさに埋もれて、リースは目蓋が重くなるのを感じた。きっとネムサクナリアの魔法だ。


(本当に……意地悪、だなぁ……)

「安心しておやすみ、可愛い子。怖いものがこないように、わたしが守っているからね」


 この世に“絶対”などないけれど、ネムサクナリアはリースを絶対に守ると心に誓っていた。


 小さく短い、この温かな命を。

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