第二話.満月の夜の創卵

 フェイとは、夜に生きる人ならざるものたちのことを指す。この国の子供ならば寝物語に聞く話には必ずと言っていいほどに登場する伝説の存在だ。


 夜になかなか寝ずにいると子供たちは親に「フェイが来るよ!」と脅される。

 人の世で彼らは邪悪な魔物として語られた。夜を縄張りに、月光を道標とし、迷い子を探して歩き回るとされている。


 人は夜を恐れた。


 星明かりの届かぬ暗闇にひそむ、魔のものの呼気を身近に感じて。



 ――――――――




「だから村では皆、夜になると窓もドアも一つ残らず閉めていたんです」

「ふぅん」

「窓が一つでも開いていたら、子供を連れていかれるって」

「ふふふ。それで、拾われた子としての感想は?」


 草むらにしゃがみこんで薬草を摘んでいた少年――リースはそう訊かれてくるりと振り返った。

 芝の上に座って籠を編んでいた美しいひと――ネムサクナリアは、愉しげに赤い黄金の瞳を細める。

 それをじっと見たリースは肩をすくめて作業に戻りながら答えた。


「邪悪かそうじゃないかはそれぞれ。悪い人といい人がいる人間と同じだし、邪悪とか、善良とか、そういうのは個々人の主観的な見方だと思います」

「ふふ、そう。お前もなかなかいい答えを返してくるようになったね」

「あなたのもとにいるんだから当然です」


 くすくす、と小鳥の囀ずりの様な笑い声を背中で聞きながら、リースはぷちぷちと薬草を摘み取る。



 この美しいフェイに拾われたあの冬の日から六年が経った。


 新たな名と、食べ物と寝床を与えられ、ネムサクナリアの巣だと言う森の最奥の苔のベッドで眠った小さな子供は、様々な知識を求めて学び、森の中を駆け回るうちに十二歳になっていた。


 人の世では学べぬ世界のことを少し、この森のことを全て、フェイたちのことを知れるだけ。


 ネムサクナリアのもとを訪れた幾人かのフェイは少年のことを「面白い」と言って、気まぐれに知識を授けてくれた。


 空のことを一握り、大地のことは抱えるほどに、海のことだけは一つまみ。


 やがて彼は神秘を起こす魔法のことを学び始め、まだ見ぬ世界のことを更に探求していった。



「そう言えば、今日はフィスが来ると駒鳥が言っていたよ」

「あぁ、今夜、満月でしたね」


 リースは手を止めて空を仰ぐ。確かに今夜は満月だ。


 フィス――フィスセリウスとは、ネムサクナリアのつがいである白狼の一族の長子の名である。


 フェイについて学び始めた頃リースが一番混乱したのが、彼らには性別の概念がないこと、しかし番と共に卵を作る、ということであった。

 夫婦じゃないの? と首を傾げたリースに「わたしたちはお互いを“つま”と呼ぶだけ。人の言う様な区別は無いよ」とネムサクナリアは言っていた。


「創卵の時、いないほうがいいですか」

「いや、構わないよ。フィスも気にしないと思う。それに見てみたいだろう?」

「そうですね……貴重な機会ですから見せてもらいますね」


 そうするといいと言ってネムサクナリアは籠編みを再開した。リースもそれきり何も言わず、薬草を摘むことに専念した。



 ――――――――



 夜はフェイたちの時間である。


 昼間は日の光を避け、木々の陰や岩陰、水の中に身をひそめていた小さく弱いフェイたちが姿を現すのだ。


 月や星の明かりの下で、地を覆う草花は淡く光り、木々は蒼く、虫たちの声が心地よく響いている。


 アザミの香りから生まれたフェイは艶やかな金の髪を夜風に揺らして踊り、せせらぎの泡から生まれたフェイは人の耳には聞こえない歌を歌っていた。


 この小さく弱いフェイたちは、ネムサクナリアの庇護を求めてこの森に集まったものたちだ。

 この世にはフェイを食べる鉄の獣と言う理性のない魔物がいるらしい。それに一人で対処できないものたちはこうして強いもののもとに集まるのだと言う。


 病がちな薔薇の花弁のフェイの持つ林檎を薬草入りの水と交換し、しゃりしゃりと齧っていたリースはフェイたちの囁く様な笑い声に紛れた梟の声を聞いた。


「ふふ、来た来た」


 ネムサクナリアの嬉しそうな声の直後、木々の合間から白銀の狼がゆっくりと姿を現した。

 その狼は瞬きの後にすらりと背の高いひとの姿になり、柔らかな碧緑の目を細めて「ネム」と“つま”の名を呼ぶ。


「やあ、フィス。いい夜だね」

「そうだな。完璧な満月の夜だ」


 ふわりと身を寄せたネムサクナリアが嬉しそうに笑う。その艶やかな黒髪と、フィスセリウスの白銀の髪の対比が美しい。


(フィスは、何回見ても男の人っぽいんだよなぁ……まあ、人の常識は通用しないんだけども)


 月光に淡く光る様な二人の白い美貌を眺めながら、リースはそんなことを考えていた。するとフィスセリウスの碧緑の瞳がリースに向き、親しげに「また背が伸びたか、リース」と声をかけられる。


「少し会わないだけだと言うのに、人の子の成長は早いものだな」

「うーん、前に会ったのが三年前ですからね……」

「三年など、我々にとっては瞬きの間にも足りぬ短さよ。お前にとっては、長いかも知れんがな」


 大きな手で頭を撫でられ、リースはフィスセリウスの顔を窺うことができなかったが、それでもその声に滲んだ確かな悲しみは感じとることができた。


 自分はいずれ、ネムサクナリアやフィスセリウスを残して死んでいく。

 彼らにとって一度愛したものと言うのは忘れることのできない存在だから、愛されている自覚のあるリースは彼らの心に悲しみを遺していくことが申し訳なかった。


 だからこそ、今夜の創卵には絶対に成功してほしい。


「……さあ、ネム。やるか」

「うん。そうしよう」



 千年に一度と言われる、フェイの創卵が始まる。



 ――――――――



 フェイの創卵は、本当に不思議な行為である。

 魔法のはじまりのはじまりを齧ったに過ぎないリースには、まったく理解できない神秘であった。


(対等で、同量で、濃密な魔力だ)


 満月の光がよく当たる開けた場所で、草花の上に座り込んだ二人は祈るような形で両手を握り合い、じっと目を閉じてひたすらに魔力を練り上げていた。


 ネムサクナリアが地に休めた大きな黒い双翼が微かに震えている。


 同じように空気も震えていた。少し距離をとったところで創卵を見つめているリースはその震えの大きさでこの行為の大変さを理解した。


 フェイは夜の子だ。


 自然の中で、なるべくして生まれるのとは違って、フェイが望んで子を作るための創卵は、そのを空から一雫下ろすことから始まる。

 それは途轍もなく難しいことだった。いや、難しいと言うことすらできないほどの不可能に近い行為だ。


 しかし永い時を生きてきた二人は恐らくやってのける。

 リースはそう確信していた。


 二人の間に発生している魔力の塊が放つ気配は恐ろしいほどに強大で、近づくことができない小さく弱いフェイたちは木々の枝の隙間からそれを見守っている。


「来るよ」

「ああ」


 ネムサクナリアが呟き、フィスセリウスが答えた。


 夜が、下りる。


 二人が練り上げた魔力に引きずられ、夜空から蒼く、黒く、光と闇を閉じ込めたものが一雫下りてきた。


 小さな小さな一雫である。

 山査子の実よりも小さなその一雫は、母たる夜空から離れるのを嫌がる様にふるふると震えながら下りてきた。


 ネムサクナリアとフィスセリウスが目を開け、両手を掲げてその一雫を招く。


 震えていた一雫は、やがて地上で己を招く彼らに気づいたのか、次第にするすると止まることなく下り始めた。

 そして、いつの間にか目にも眩しい白銀の輝きを放っていた魔力の塊の中心へ、すーーっと吸い込まれる様に入り込む。


 直後、猛烈な風が巻き起こり、リースは堪らず顔を両腕で庇った。



 やがて、風は起こった時と同じように唐突にふっと消える。

 恐る恐る目を開けたリースは、そこに涙を流して抱き合うネムサクナリアとフィスセリウスの姿を見た。


「ふ、二人とも……」


 もう近づいてもいいと直感したリースはもしや失敗か、と慌てて二人に駆け寄る。

 そんな彼に向けて、顔を上げたネムサクナリアが泣きながら微笑んだ。


「ご覧、リース。わたしたちの、卵だ」

「!!」


 鳥卵の形をした、猫くらいの大きさの銀色の卵。


 二人の腕の中にそれを見つけ、リースは安堵と感動で泣いた。


「おめでとう、ございますっ……!」

「ふふ、やったね、フィス」

「ああ、なんと、喜ばしい……」


 創卵は成功したのだ。


 壮大な神秘の果てに、夜の一雫は二人の間に下り、銀色の卵が生まれたのである。


 小さく弱いフェイたちは祝福の歌を歌い、リースはいつまでもべそべそと泣き続けた。

 疲れ果てた二人は卵を真ん中にしてそのまま眠り、やがてリースも泣き疲れてその傍らにくんにゃりと倒れて眠った。


 月光の降る蒼い森の中には、夜が明けるまでずっと、フェイたちの祝福の声が響いていた。

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