夜を統べる黒鴉

ふとんねこ

第一話.捨て子

 寒い、ひもじい、痛い。


 灰色の曇天からふわふわと降りてくる雪は、黒い地面と、そこに倒れた少年の上にただひたすら冷たさを注いでいた。


 寒い、ひもじい、痛い。


 死んでしまうんだな、と霞んでよく見えない目で少年は黒い地面を見ていた。

 小さく痩せた背中には雪が降り積もる。


 ただひたすらに、冷たく、降り積もる。



――――――――



 飢饉が国全体を襲い、少年が家族と共に住む村も酷い不作に見舞われた。

 雑草の根すら口に入らなくなった時、父と母は末の子であった少年を捨てることに決めた。


 悲しげな顔をした両親に手を引かれて入った森の中に置き去りにされ、捨てられたことを理解した時、少年は悲しむでも憤るでもなく「仕方がない」と思った。

 飢饉に襲われた貧しい農村で、働き手にもならない子を捨てるのは当たり前のことである。

 生きるのに必死なのだ。自分は重荷だと判断されてしまっただけ。殺されなかっただけマシだ。


 それに、悲しむにも憤るにも力を使う。


 少年は空腹だったから、そんなことに力を割いてはいられなかった。


 少年は歩き出し、すぐに森の中で食料を探した。

 しかし、森の木々の柔らかな葉や根は食い尽くされていた。木の実などが残っているはずもない。

 実りのなかった秋は通り過ぎ、誰もが飢えに苦しむ冬が来ているのだから。


 夜はすぐにやって来た。

 飢えた獣たちが動き出す。


 少年は暗くなる前に体力を振り絞って木に登り、決して眠らずに夜を過ごした。

 彼が登った木の下を狼の群がうろついていた。痩せていても、温かく、血の通った肉を求めて、狼たちは一晩中騒ぎ続けた。


 いずれ死ぬと分かっていたが、少年は痛いのは嫌だった。たくさんの苦しいことがあったのに、死ぬときまで苦しいのは嫌だったのである。


 朝日が上ると、狼たちはその白い光に追い払われるようにして去っていった。

 半ば落ちるようにして木を下りた少年は食べられるものを求めて再び歩き始めた。



 そして日の暮れる前に力尽き、森の中の開けた場所で地に伏した。

 地面は硬く、黒々としていて何にも優しくなかった。大地は母、と村の老爺が何年か前に言っていたけれどそんなの嘘だと少年はぼんやり思う。

 母だと言うなら、何故実りをくれなかったのか。


 恨めしく思うのも疲れた。

 少年は自分を見つめる獣たちの視線を感じながら、瞬きすら億劫だと目を閉じる。


 しばらくして、投げ出した腕に触れたひやりとしたものに気づいて目を開け、雪が降り始めたことを知った。


 動けない。寒くて、ひもじくて、あちこちが痛いからだ。

 これは死ぬな、と少年は小さく溜め息を吐く。仕方がない、きっとこれが運命なんだと、そう思って。


(もう、目もよく、見えないし……)


 いい人が死ぬ時には、白い光が天から差して天使が迎えにくるんだと今は亡き少年の祖母が言っていた。

 灰色の空と、冷たい雪に看取られる自分は、いい人ではなかったのだろうか。


(それは、少し、悲しいな……)


 目蓋が重くなる。眠気とは違う、冷気に満ちたその気配。きっとこれは死だ。そう思いながらも、少年はそれに抗おうとしなかった。


 苦しいことはもう終わりでいい。

 もう、楽になりたい。




「おやおや、こんなところに人の子が」


 死は、そんな台詞と共に少年の前に姿を現した。



――――――――



 パチパチと焚き火のはぜる音で少年はぼんやりと淡く覚醒した。


(……?)


 不思議だ。全身が暖かく柔らかいものに包まれている。ふわふわとして、夢のような心地だった。


(死後の、世界……?)


 目を開けても視界はその“ふわふわ”の正体であるらしい白いもこもこしたものでいっぱいで少年は戸惑う。

 その時、少年が身じろいだからか、その白いもこもこが「キュッ」と鳴いて一気にわーっと離れていった。


「ぅわっ……」


 寒さが訪れて、驚いた少年は慌てて身を起こす。それから、どこも痛くないことに気づいて柔らかな苔の上に乗る自分の両足を見つめた。

 そこへさわりと柔らかな冷気が流れ込んでくる。空気の冷たさとは異質なそれに、少年はその冷気のもとへ視線を向けた。


「目が覚めたんだね。まったく、急に離れたら人の子の身が冷えてしまうだろう。ほらお戻り」

「え……」


 少年は言葉を失った。

 そこには、白いもこもこしたものを引き連れた、怖いほどに美しいひとが立っていたのである。


 新雪の様な白い肌に、対照的な黒の長髪を腰まで伸ばしたそのひとは、赤みを帯びた黄金色の瞳で少年を見つめ返した。

 人では有り得ない色をした双眸を完璧な位置に収めた美貌は、乙女とも、少年とも言えそうな中性的なものである。


 この寒さの中、黒の薄衣を重ねた様な衣装を纏い、金の腕輪を細い両手首に揺らしたそのひとの背には、地面につくほど大きな漆黒の翼が生えていた。


「くろい、てんし、さま……?」


 わらわらと寄ってくるもこもこに囲まれながら、そのひとから目を離せなかった少年は呆然とそう呟いていた。

 すると、そのひとは長い睫毛に縁取られた赤い黄金の瞳を大きく見開いて、それから「ふはっ」と笑った。


「ふ、く、くくっ、このわたしが、天使様だって? 面白いことを言うものだね、人の子よ」

「え、あの……」

「ふふ、まったく、天使どもが聞いたら卒倒するだろうね」


 口許に手をやりながらひとしきり笑ったそのひとは、黒い衣装の裾から覗く白い素足で深緑の草を踏み、少年の傍らへやって来た。

 少年は隣にしゃがみこんだそのひとからひやりとした夜の香を感じてごくりと唾を飲む。


「わたしは夜を統べるフェイの一人。黒鴉の一族の子、ネムサクナリア。お前を拾ったものさ、人の子よ」


 三日月の形に細められた赤い黄金の双眸に煌めく瞳孔は縦に細い。


「お前に帰るところはあるのかな?」


 人ならざるものが放つあまりにも麗しい夜の気配。まさに魔性と呼ぶに相応しい。


 少年の頬に触れる手は少しひんやりとしていた。しかしそれは気遣わしげでとても優しかった。


「ありま、せん。村が、飢饉で、みんな、飢えて、ぼくは、っ……」

「そうか……」

「っ、うぅ、うわぁぁぁんっ!!」


 そのひとの、ネムサクナリアの手に触れられて、少年の疲れきっていた感情が激しく揺れた。

 堪らず溢れ出した涙。全てを分かったネムサクナリアは少年をそっと抱き寄せて背を撫でてくれる。


「帰る巣がないならば、わたしのもとへ来るといい。お前に、新しい名と必要なものをあげよう」


 弦楽器の音の様な心地のよい声を聞きながら少年はひたすらに泣いた。


「お眠り、可愛い人の子。もう大丈夫だからね」


 大地は少年に優しくなかった。

 夜も、決して優しくはなかった。

 けれど夜に生きるひとはどこまでも優しかった。



 こうして、親に捨てられた少年は夜を統べるひとに拾われた。

 黒鴉の翼と、夜色の魔性を持つそのひとの名はネムサクナリア。


 人ならざる、美しい夜のいきものフェイの一人であった。

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