第七話 婚約者
広い、宮である。
たかが二十年空けていただけなのに、懐かしさを感じてしまうのは、やはり地の生活が自分に一番合っているからなのだろうか。不思議な安堵感が体を支配しているのがわかる。
「……婚儀…かぁ」
東の塔へと足を向ける。ここは、ラセルが使っている建物。やっと我が家に辿り着いたというわけだ。
「ラセル様、」
従者たちが一斉にラセルを出迎える。皆、知った顔である。
「よくもまぁ俺の下で働くよ」
と同情することもあるが、ここにいる輩は不思議とラセルのことを本気で慕っているのだ。
「お待ちしておりました、ラセル様」
セルマージが一歩前に歩み寄り、膝をついた。彼はラセル直属の従者であり、ラセルのよき理解者でもあった。
「ああ、遅くなっちまったな」
「地上での生活はいかがでしたか?」
ラセルはセルマージに話したい事が山ほどあった。今まで彼には自分の思いや考えを何でも話していたのだ。信用のおける、頭のいい男。しかし、今回地上においての出来事に限っては、さすがのラセルも口を紡いだ。
「おいおいな。まずは休ませてくれ」
「かしこまりました」
ぞろぞろと従者を引き連れ、中へ。
相変わらず綺麗に手入のされている室内を見渡し、息を吐く。帰ってきたのだ、という実感が改めて湧いてきていた。
「ラセル様、サーシャ様がおいでになりましたら、いかがしますか?」
セルマージが声をひそめて訊ねた。細かい配慮である。
「……断れるわけないよな」
「承知しました。では、もしお見えになりましたら奥の間へ」
「そうしてくれ」
ラセルは大きな椅子に腰を下ろすと、そのまましばらく目を閉じていた。静寂だけが存在する地の宮。張り詰めた空気と、相反する安らぎの無音。何もかもが懐かしい。地上でせわしなく過ごしていた日々がまるで嘘だったかのような、当たり前の光景。
ラセルは思い立ち、自室へと向かった。
「?」
違和感。
中に、人の気配がするのだ。
しかし、まさか?
ここはラセルの部屋。それを知らない者はいない。第一、いくら長い間留守にしていたとはいえ、東の塔にはセルマージをはじめとしたラセルの従者たちが十人以上生活していたはずだ。勝手に入れるわけがない。
ラセルは扉に手を掛けた。帰ったばかりでもう厄介ごとなのだろうか? 開けてみないことには何もわからない。
「誰だ!」
パッ、と扉を開け放ち、中へ。そこに待っていたのは、
「…ラ…セル……様…」
「……サーシャ」
サーシャは長い巻き毛を躍らせるようにしてラセルの胸へとまっすぐ飛び込んだ。整った顔立ち。羊のようにくるりと巻いた角。その目はいつも澄んで、まっすぐにラセルを捉える。
「お会いしとうございました」
きゅっ、と胸が痛む。
ラセルとて、サーシャは嫌いではない。幼い頃に決められた政略結婚の相手ではあるが、何度も顔を会わせているし、何よりこうして慕ってくれている。それは気分の悪いものではない。
「すまなかった。長い間放りっぱなしで」
「……いいえ。いいえラセル様。私、帰ってきてくれさえすればそれでよいのです」
「どうやってここへ?」
「……セルマージがここで待てと」
(あいつ……)
ラセルがふっ、と微笑む。全て彼の演出だったのだ。わざとサーシャが来たらどうするかを確認などして、既に本人は待機済みだったというわけだ。
「……あの、ラセル様?」
「ん?」
「私、その……」
「なんだ、サーシャ?」
「……今夜は、帰らなくてもよろしいでしょうか?」
うつむき、顔を赤く染めながらも精一杯の勇気でサーシャ。ラセルは一瞬脳裏にアーリシアンの姿が浮かび、慌てて首を振った。
「駄目……ですか?」
それを否定と取ったサーシャが悲しそうにラセルを見上げる。
「あ、いや……ほら、きちんと婚儀も上げていないし、それに俺は今戻ったばかりだ。その上今夜君を帰さなかったら俺だけじゃない、君まで悪く言われる事になる」
「私っ! 私はそんなの構いませんっ」
「サーシャ、」
ラセルが困ったように笑う。
「改めて君の所に挨拶に行かなきゃな。それまで待っててくれないか?」
「……本当に?」
「嘘なんてつかないよ」
そう言うとラセルはサーシャの額に口付けた。
(だってあなたは、帰ってこなかった)
サーシャは言葉を飲み込む。
女だからわかることもある。
サーシャは感じ取っていた。ラセルが優しい。もちろん、昔から優しかったのだが、何かが違う。そう、地上で何かあったのだ。そしてそれは、ラセルにとってとても大きな変化だったに違いない。サーシャは不安で仕方がなかった。
「ね?」
「……わかりました」
諦めるより他にないではないか。この人の一言一句、一挙手一投足に従うより他に、自分にはどうすることも出来ないのだから。
「お疲れのところ押しかけたりして申し訳ありませんでした」
ペコリ、と頭を下げ、足早に部屋を後にした。涙が頬を伝う。すれ違う従者たちが心配そうにサーシャを見ていた。
「サーシャ様?」
声を掛けてきたのはセルマージ。彼はラセルがいない間、ずっとサーシャの相談役をしていてくれた。東の塔に足を向けるサーシャを招き入れ、ラセルのことを話したり、落ち込むサーシャを慰めたりしてくれたのだ。
「どうなさいました?」
心配そうに首をかしげる。
「ごめんなさい、なんでもないわ。私、ちょっと気が急いていたみたい。ラセル様を困らせてしまったの」
やっとの思いで笑顔を作る。セルマージが辛そうに目を背けた。
「ラセル様は、」
「いいの! 何も言わないで。ラセル様は誠実な方よ。私が我侭を言っただけなの。それだけなの」
「しかしサーシャ様は十五年という間ずっとラセル様を待ちつづけていたのですよ? 少しくらいの我侭はっ、」
「お願い、セルマージ……私は大丈夫だから」
そう言うと、駆け出した。
その後ろ姿を、セルマージはいつまでも見つめていた。
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