第三十ニ話 対決

「じゃあ、許してくれるのねっ?」


 パッ、とアーリシアンの顔が明るくなった。この頑固親父、どんなに頼んでもちっともアーリシアンの意思をわかってくれようとせず、結局口説き落とすまでに一晩近くかかってしまったのだ。せっかく戻った愛娘がまた地上に戻りたいと言い出したのだから、ユーシュライとしては辛い決断である。


「お前はフィヤーナにそっくりだな。芯の強さも、頑固な所までな」

 優しい微笑みでアーリシアンを見下ろす。


「ありがとう!」

 アーリシアンは、ラセルに言われた通りに事を進めた。魔物と契約を結んでいたと聞かされたユーシュライはさすがに驚いたが、その魔物は既にこの世を去っている。これからは自分の命を救ってくれたセルマージと共に、母の眠る地上で暮らしたい、と言ったのである。もちろん、ユーシュライの言い分は『次の月食まで待てばいいだろう』というものであったが、アーリシアンは続けた。セルマージは地上で暮らしている精霊たちのリーダー的存在だから、このまま天上界に残ることは不可能だ、と。ユーシュライは地上で暮らす精霊たちの事など詳しくは知らない。アーリシアンの話を丸呑みするしかなかったのである。


「じゃあ、私このことラ……っと、セルマージに伝えてくる!」

 立ち上がり、ダッと駆け出すアーリシアン。だが、ドアに辿り着く前に、ドシンと誰かにぶつかった。……誰もいない筈の空間に、その男は現れたのだ。


「ふにゃっ」


 尻もちをつきそうになるアーリシアンを、男は支えた。

「そんなに急いで、どうしました?」

 ユーシュライが、はっと息を飲む。抱きとめられたアーリシアンも、その聞き覚えのある声に背筋がゾクリと震えた。


「……ムシュウ」

 厳しい声で、ユーシュライ。


「ユーシュライ様、ご報告に上がるのが遅くなり、申しわけありませんでした」

 深々と頭を垂れる。


「お前がどうしてここにいる?」

「どうして、とは?」

「お前は私を裏切った。そのお前がどうしてここにいるのかと聞いている!」

「裏切ったとは、なんとひどいことを」

 ククク、と喉の奥で笑う。腕の中でもがくアーリシアンをきつく抱いたまま、ムシュウは笑っていた。


「ユーシュライ様は騙されているのだ! 私を傷つけたあの男こそ、本当の裏切り者。アーリシアンを手に入れようと画策する、夜盗ではございませんかっ」

「違うもんっ! 彼はっ、セルマージは私を助けてくれたんだもんっ」

 もがきながらも訴えるアーリシアン。


「……ムシュウ、もはやお前に生きる道はない。アーリシアンを放しなさい」

 冷たく、ユーシュライが言い放った。ムシュウは一瞬だけクッと唇を噛み締め、しかしすぐにまた余裕たっぷりのいやな笑い声を立てた。

「……ククク、私の生きる道はないと? 笑止! 私はあなた様の一の家臣。その私を切り捨てるとお言いですか? ならば私とて考えがある!」


 アーリシアンの首に腕を回し、ユーシュライに顔が見える形をとる。腕にぐっと力を込めると、アーリシアンの顔が苦悶に満ちた。

「くっ、」

 息が、苦しい。

「アーリシアン!」


 ユーシュライが一歩前に出ようとするのをムシュウが空いている方の手で制する。そしてその手には、いつの間にか小型のナイフが握られていた。美しい金の装飾がなされたその柄を握り締め切っ先をユーシュライに向ける。顔をしかめ、ユーシュライは動きを止めた。自分の命などどうでもよかったが、なんとしてもアーリシアンだけは助けなければ。チラ、とドアの方に目をやる。


「夜の夜中にこんな所で、無防備なものだ。誰かが来ることを期待しておいでか? ふっ、それは無理な話ですな。この部屋は既に隔離してある。誰一人とてこの部屋に入れるものなどおらぬのだから!」


 そう言うと、狂ったように笑い出す。さすがのユーシュライも身動きが取れなかった。ムシュウが捕まった、という話は聞いていたが、大怪我をしているからと聞き伝て、特別な警護などしていなかったのだ。


「……何が望みだ」

 ユーシュライは渋い顔のまま、尋ねた。すると、ムシュウは以外そうに片方の眉を上げ、言った。

「望み……ですか。私の望みはユーシュライ様の幸福、ただ一つだけにございます」

 真面目腐った顔でそう告げるムシュウを、初めてユーシュライは恐ろしいと感じていた。


「……されど、お許しいただけるのであればこのアーリシアン嬢をいただきたい」

「……なん…だと?」

「そしてゆくゆくはユーシュライ様の意思を引き継ぐものとしてこの地を守りとうございますなぁ」


 ニイッ、と笑う。


「何をふざけたことを!」

 激昂するユーシュライ。しかし、ムシュウは本気のようだった。

「願い叶わぬと言うのであれば、今ここでアーリシアン共々命を絶つ!」

 ぐっと更に腕に力を込める。アーリシアンは、あまりの苦しさに声も出ない様子だ。このままでは窒息してしまうかもしれない。しかし、ムシュウの要求など呑める筈もなく、

「どうなさるか? ユーシュライ殿」

 再度質問を投げかけられ、ユーシュライはガックリと肩を落とした。この男は本気だ。


「……アーリシアンを…放しなさい」

 否めない。そう認めてしまったのだ。ムシュウは笑い出しそうになる自分をぐっとこらえ、続けた。


「……では、書状に記していただこう。あなたの名を記して、ね」

 ユーシュライが拳を握り締める。名を記しての書状……正式なそれを作れというのだ。

「……す…けて…、」

 アーリシアンが、小さく呟いた。

「…セル…、ラ…セル……」

「ええい、黙れ! 魔物の名など呼ぶな!」


 ムシュウが怒鳴った。


「ヤツの息の根は下に降りたら一番に止めてやる! 忌々しい黒い化け物めっ」

「……なん…だと?」

 その言葉を聞き、ユーシュライが動きを止めた。

「魔物は死んだのだろう?」

「なんですと? 誰がそんなことを。やつはまだ生きていますよ」

「……では、」


 チラ、とアーリシアンを見遣る。


「……ラセ…ル、」

 魔物の名を呼び続ける娘。では、セルマージと地上に帰りたいと言ったのは、どういう意味なのだ?


「アーリシアン、一体どういうことだ? 話が違うのではないか? さっきお前は、魔物は死んだと……、」

 頭が混乱していた。契約がなされている状態ではセルマージと結ばれることは不可能だ。それに、何故に今、魔物の名を呼ぶ必要がある? 真っ先に浮かぶのはセルマージの名ではないのか?


「……どうやらあなたも騙されていたようですな、ユーシュライ様」

 ククッ、と馬鹿にしたような声を出す。

「アーリシアンは魔物に騙されているのですよ。その呪いを私が解いて差し上げようというのだ。さぁ、ユーシュライ様、書状を!」


 言いかけたそのときだ。パン! という大きな音と共に、ある人物がその姿を現した。現状を見るや、顔色が変わる。


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