第十二話 帰るべき場所

 パチ、と目を開ける。

 甘い匂い。


「ん?」


 アーリシアンは半身を起こし、辺りを見回した。甘い匂いを発しているのは、窓辺に置いてある花のようだ。見たこともない色と形をしている。


「あっ、」

 思い出す。マリムの家での出来事。

「マリム?」

 キョロキョロと見回すが、いない。ここはどこなのか? それもわからない。豪華なベッド、明るい室内。でも、誰もいない。


「マリム、どこ?」

 アーリシアンは不安だった。ラセルは『待っていろ』と言ったのだ。なのに、ここはマリムの家じゃない。もし、今ラセルが自分を迎えにマリムの家に行っていたら……そう思うと気が気じゃなかった。


「マリム? マリムっ!」


 バン、とドアが開く。知らない誰かが立っていた。


「アーリシアン様!」

「……誰?」

「おお! お目覚めに、アーリシアン様がお目覚めになられました!」

 知らない誰かはとても興奮しているようだった。叫びながら出て行ってしまったのだ。

「なんなの?」


 アーリシアンは、開け放たれたドアから外を見た。長い廊下。ここは誰かの屋敷のようだ。と、すればやはり自分はあの意地悪な精霊に拉致されたに違いない。アーリシアンはぐっと拳を握り締めると、そのまま部屋を出たのだった。


「見つかったらまずいのよね」


 一人、呟いてみる。

 心細い、と思った。

 ラセルもいない。

 マリムもいない。

 誰もいない。

 こんなこと、生まれて初めてなのだから。


 泣き出しそうになる心を叱咤し、アーリシアンは外へ出る道を探した。誰にも見つからずにここから逃げ出さなければ、と自分に言い聞かせて。

 が、広い屋敷の中、誰にも会わずに外に出るのは難しい。あっという間に今度は違う『知らない誰か』に出くわす。


「……あれ?」

 今度は男だ。アーリシアンを見て不思議そうな顔をしていた。

「こんにちは」

 にっこり微笑みかける。と、彼は戸惑いながらも会釈を返してきたのだ。半開きの口。ポーっとした目つき。完全にアーリシアンの虜である。が、そんなことは知ったことではないアーリシアン、スタスタとその場を後にした。


「……はっ。あれっ? 今の……、」


 男は我に返ると、後ろを振り向く。が、もう彼女の姿はどこにもないのだった。




 屋敷内は大騒ぎとなっていた。目覚めたアーリシアンがいなくなってしまったのだから。アーリシアンの目覚めを誰よりも待ち焦がれていたユーシュライは、イライラと部屋の中をうろつき回っていた。


「ええいっ、まだなのかっ!」

「申しわけありません、ユーシュライ様!」

「早く探せ!」

「はっ」


 どいつもこいつも、と口の中で呟く。ムシュウの告げた言葉が心を刺し、立ち直れずにいた。


『アーリシアン様は、魔物と契約を結んでいます』


 一体どうして?

 精霊にとって契約は、心も、体も関係するこの上なく大切なもの。それをよりによって魔物などと……。このまま放っておくわけにはいかない。だから、ムシュウを再び地上へと送ったのだ。魔物を、殺すために。


「早く私のアーリシアンをこの手に……!」


 亡き妻の面影を残す、その藤色の瞳で見つめられたい。眠っている娘を見て、ユーシュライはそのことを心待ちにしていたのだから。




 そんなこととはつゆ知らず、アーリシアンはというと、無事に外に出られたのだ。中庭のような、美しい庭園。だが、出られただけでは何の解決にもなっていない。ここからマリムの家までどうやって帰ればいいのかわからない。


「困ったわね」


 石段に腰を下ろし、空を見上げる。青く澄んだ空。美しい花たち。あとはここにラセルがいてくれさえすれば、何もいうことないのに……。


「……シ…アン」

「ん?」

 どこからともなく声が聞こえる。追っ手かもしれない、と警戒したアーリシアンであるが、それはすぐに安堵の溜息に変わる。

「アーリシアン!」

「マリム!」


 声の主は、マリム。中庭の温室にその姿を確認する。鳥篭のような檻が吊るされ、その中で叫んでいたのだ。

「アーリシアン~」

 半べそ状態である。


「どうしてこんなところに?」

「詳しく話すぅ。早くここから出してぇぇ」

「うん」


 辺りを見渡す。あった。きっとあれが鍵。

 壁に掛けられた鍵を差し込み、外す。マリムはぴょん、と飛び降り、着地に失敗。

「あたたたた」

 お尻を抑えながら立ち上がる。


「大丈夫?」

「もちろんですとも! アーリシアンこそ、よくご無事で」

「うん。でも追われてるのよ?」

「へ?」

「逃げてきちゃった」


 ペロ、と舌など出してみせる。


「なんとっ! じゃあボヤボヤしてられませんな。早くここをズラからないと」

「うん!」


 マリムは空を見上げた。

「なに?」

 アーリシアンもつられる。

「いや、やはり天上界から見る空は色が違いますな、と思って」

「天上界?」

「あのムシュウという男、本当に無茶ですぞ。私も危く殺されるところだった」

「って、え?」

「アーリシアンはご存知ないかもしれませんが、天上界に住む精霊が地上に降りることはほとんどありません。あったとしても、それは五年に一度の月食の時のみ可能なのです。が、先に言いましたように、精霊には使ってはならない特別な力を持つ者がいる。彼らはある手段をもって天上界と地上を行ったり来たり出来るのです」

「どんな?」

「……はぁ、ちょっとアーリシアンには言い辛いですな」

「教えてよ!」

「……では、まずは安全な場所を確保しに行きましょうかね」


 建物の方から誰かの声がしていたのだ。ピグルは森で狩りをする種族。耳や鼻はとてもよく利くのである。


「こっちへ」


 クイ、と手招きすると、匂いを嗅ぎ分け、屋敷の外を目指す。この屋敷から少しでも遠ざかること。まずはそれが先決だ。だが、ムシュウのやり方でここに連れてこられたということは、ムシュウのやり方でしか地上へは戻れないということなのではないかと、マリムは不安で仕方なかった。もし自分の考えていることが正しいのだとすれば、少なくとも自分は、もう二度と地上へは戻れないかもしれないのだ。


「おっ、これは……、」


 蔓の張り巡らされたトンネルを抜けると、その向こうにはむせ返るほどのバラ園。そして厚く、大きなレンガの壁。きっとあの壁の向こうが、屋敷の外らしい。


「アーリシアン、多分この向こうが、」

「外なのねっ!」


 ふわっ、

 マリムは、突然訪れた浮遊感に頭が真っ白になった。壁がどんどん目の前に迫る。

「うわっ、うわわわわわ」

「静かにしててよっ」

 アーリシアンが耳元で囁く。


「……飛んで…る?」


 そうだ。ファサリ、という羽音はアーリシアンから発せられていた。よく考えれば、彼女には羽根があるのだし当たり前のことだ。しかしマリムにとっては初めての飛行。驚きもさることながら、言い知れぬ解放勘にも酔いしれていた。


「もう少し!」


 壁は厚く、高い。が、アーリシアンはマリムを抱いたまま軽々と壁を越えた。目の前に広がるのは美しい景色。遠くには大きな一本の木も見える。


「あっ!」


 マリムが木を指し、叫んだ。


「なに?」

「アーリシアン! あの木ですぞ。我々は、あの木から天上界に連れられてきたのですっ」

「そうなの?」

「私は気を失ったアーリシアンと一緒に、ムシュウとかいうあの精霊にここに連れてこられた。しかーし! 私は恐れることなく、目を開けて全ての成り行きをこの目でしっかりと見ていたのですっ!」

「じゃああの木の所から帰れるって事ね!」

「ん~」


 マリムは二の句を言い淀む。


 ふぁさっ、


 力いっぱい羽根を羽ばたかせ、アーリシアンは真っ直ぐ大きな木に向かって飛んだ。

(どっちみち、ちゃんと説明しないとならないもんなぁ)

 マリムは、少し気が重いのだった。

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