化石の夢でただよう
きづき
化石の夢でただよう
なんで誕生日にこんな思いをしなければならないのかと、瑞帆は肩を落とした。
夕陽の名残がうっすらと細く西の空を照らしているものの、いつもより暗い家路は瑞帆の心に追い打ちをかけてくる。
きっかけは、飲み会の誘いを断ったことだった。「若い子がいてくれたら盛り上がるから」と不自然なまでに明るかった笑顔から一転、上司の口角は急降下した。
「ああ、そう。……で、ホチキスは?」
「……はい?」
「資料はホチキス留めしたのかって聞いてんの」
そもそもは、頼まれていた会議資料のコピーを終え、報告に来ていたのだ。飲み会の話なんてなかったかのように、話題はそこまで戻ったらしい。思い至った瑞帆が答えるよりも早く、上司が再び口を開いた。
「どうせコピーしたのを、そのまま会議室の机に置いてきたんだろう。この前もそうだったよな。言われたことだけやればいい、じゃあないんだよ、仕事ってのは。派遣だからって手抜いてんじゃないの? 普通は、言われなくても、ホチキス留めくらいやれるでしょう。そしたら配るとき楽になるんだから。少しはやる気を見せてくれないと」
入室した人が、順に一枚ずつ取っていけばいいのではないか。ホチキス留めが必要なら、指示するタイミングはこれまでに何度もあったはずだ。胸中で不服を唱えつつも、すみませんと謝る。面倒だったから、いや、図星だったからかもしれない。
ついでにと、他にもいくつか雑務を命じられ、残業が確定した。
「大丈夫ですか?」
会議室に向かおうとしたところへ、遠慮がちな声がかかった。瑞帆と同じくらいの歳で、瑞帆とは違う正社員の女性だった。
夕方なのに睫毛はぴんと上を向き、ゆるく巻いた髪をルーズに束ね、爪にはニュアンスネイルが光る。
そんな彼女の発した「大丈夫」は、何に対するものだろうか。派遣なのに一人で大丈夫? いつまでも正社員になれないままで大丈夫? そんな格好で都会にいて大丈夫? 真意をわかりたくもなくて、頭を下げ足早にその場を去った。
大丈夫かと問われれば、あまり大丈夫ではない。けれど、こんなのはいつものことだ。どちらかといえば、誕生日に起因することのほうが憂鬱だった。何年も会っていない友人たちのお祝いメッセージは社交辞令ばかりで虚しく、実家からの荷物に同梱された手紙が帰省を求めてくるのにも気が滅入った。
梅雨どきは、雨が降っていなくてもどこか空気が重たい。どれだけ深く呼吸をしても、酸素が行き渡らない。全身にまとわりつく不快感、そして鼻の奥に広がる生臭さを、早く消してしまいたかった。
だから、『お母さん』の字が映る着信画面を無視しながら酒を買い、夕飯はピザにしようと決めた。
「お願いです、わたしを海に帰してください」
「いや、そんなこと」
急に言われても……という瑞帆の言葉は、発泡酒に飲み込まれた。この世のあらゆる不都合を酒で流すのが、大人になるということだ。
奮発して頼んだピザは三切れも食べれば充分で、たちまち襲ってくる後悔とか。朝一番で届いた誕生日プレゼントに、お願いごとをされているときの返事とか。
狭いワンルームで唐突に響いた声の主は、キッチン雑貨だった。二枚貝の形をした薄灰色の石だ。乾燥剤として使うものらしい。インスタント食品が詰まったダンボール箱の中、スイートピンクのシフォン素材にラッピングされ異彩を放っていたそれは今、塩の上に鎮座している。
満腹とはいえ食事中だったので、キッチンからリビングのテーブルへ容器ごと持ってきたのだが、その間も切々と訴えは続いていた。
「さっきも言いましたが、海にいたんですよ。いつの間にか眠ってしまったようで。ああ、海の匂いがするなと思って目が覚めたら、こんなところに。なぜ、わたしはこんなところにいるんでしょう? 海じゃなきゃ生きられないはずなんですが」
自分の住まいを、二度もこんなところ呼ばわりされてしまった。
『東京のおしゃれなマンションで、じゃまにならないといいけど』なんて。添えられていた手紙の一文が浮かび、皮肉なものだと笑う。東京にあるマンションが全部おしゃれだと思ったら大間違いだ。イメージどおりの暮らしを実現するにはどれほどのお金が必要か、田舎の寂びれた漁村で育った母は知る由もない。数年前に実家を飛び出した自分も同じだったのだと、苦いものがこみ上げる。
発泡酒を、また一口。じめじめとした部屋では、アルコールも台無しだ。この石が部屋中の湿気をぜんぶ吸い取ってくれたらいいのに。無茶なことを願い、いや、そもそも――と、瑞帆はそれを指で摘まみ取った。
「あなた、本当に乾燥剤なの?」
「うわっ、なんですか!? あ、ちょっと、ひっくり返さないで……!」
貝殻の縁には欠けがあり、扇形は左右非対称。繊細なアーチ状の模様まで刻まれていて、ただの雑貨にしては精巧な気もする。一方で、手触りはざらざらと粗く、貝殻というよりは石に近い。
かつては海で暮らしていたという、貝の形をしたもの。眠っているうちに地上へ運ばれてしまった、貝そっくりの石。
どうやら、湿気を取る力はなさそうだ。容器に残っていた塩も捨てるしかない。
だってこれは、たぶん、貝の化石だ。
「ですから、どうかわたしを故郷に帰してください! これも何かのご縁ということで、ひとつよろしくお願いします」
「よろしくお願いされても困るよ。どこの海かもわからないのに」
あわてて、化石を塩の上に戻す。
ふと、嫌な予感がした。試しに地元の名前と化石でネット検索をしてみれば、思いがけず膨大な数がヒットする。田舎らしいことだ。自然と遺物くらいしかアピールできるものがないのだろう。
「同郷みたいよ、私たち」
「でしたら、ちょうどいいじゃありませんか! いっしょに回遊しましょうよ」
「ムリムリ。余計にムリ」
「なぜです? もしかして、すごく遠いとか?」
「いや、新幹線なら五時間くらいで着くはずだけど」
「シンカンセン? あの、泳ぐとどれくらいでしょうか?」
「泳ぐ!? 泳いでは行けない、って、違うの。そういう問題じゃなくて。私、あそこから逃げてきたから」
ちりっと抵抗感が首の後ろを焼く。アルコールとジャンクフードでごまかしたはずの臭気が、よみがえる。
「嫌いなの、あそこ。四六時中、うるさくてさ」
「いろんな生きものが棲んでて、にぎやかですよね」
そんな、かわいいものじゃない。
轟々と響く波の音。姦しい海鳥の鳴き声。絶えず飛び交う噂話。
「頭の中、搔きまわされるみたいだったよ。逃げ場がなくて。海の中がどうか知らないけど、地上はなんか空気がこもってるんだよね。せっまい村でさ、人の目とか風とかべたべたまとわりついてくんの。何よりあの臭いが最悪」
「死骸の匂いですかね。栄養たっぷりなんですが」
「え、気持ち悪」
反射的に答えながら、納得してしまう。現代社会に見捨てられた土地。進歩のない停滞した場所。潮風に当てられて、どこもかしこも錆びている。生臭さと血の匂いが澱む、死んだ村だ。
「私は、ずっと、ずっと息苦しかった」
「ならそこは、あなたの棲める場所ではなかったのでしょう。抜け出して正解です」
「そう、なのかな」
「呼吸ができなければ、生きられませんから」
でも、と言いかけて、とっさに口をつぐんだ。何を言おうとしたのか、自覚する前にそこから目を背ける。代わりに、はははと笑った。
「上京、親には最後まで反対されてたんだけど。それを初対面のあなたにあっさり認められちゃうって、喜べばいいのか悲しめばいいのか。あ、べつに親子仲が悪いってわけじゃないんだよ。反対してたのも、心配だからって話で。ただ、親も村の一部っていうかさ。この村に取り込まれたら、こうなっちゃうんだー。自分は、こんなところでこんなふうに人生終えたくないなーって思っちゃって。だから、親の言うとおり短大までは我慢して、卒業後すぐ逃げ出してきたってわけ」
「……そうですか」
饒舌になった瑞帆とは対照的に、化石の声からは勢いが失われた。
「たしかに、無理なお願いをしていたようですね」
「え?」
「適した環境を自ら探し当てたあなたは、ご立派です。そうして平穏な暮らしを獲得されたのに、わたしのために命を危険にさらしてくれとは言えません」
「いや、それは」
「あ、でしたら、こういうのはどうでしょう? 他のお仲間にお願いするっていうのは。なんでしたっけ……シンカンセン? それ、鳥ではないですか? 鳥はちょっと、わたしが食べられちゃうかもしれないので、遠慮したいのですが。どなたか、回遊しているお仲間やお知り合いの生きものに、渡りをつけてもらえないでしょうか?」
仲間、だなんて。馴染みのない言葉だ。
仲間。友だち。知り合い。
考えるふりをしたところで、誰ひとり浮かばない。
「ねえ、東京にも海はあるからさ、そっちにしたら? それならすぐだよ。連れてってあげる。なんなら、今週末にでも」
「お気持ちはありがたいのですが、わたしが帰りたいのはあの海なんです」
「なんで?」
「こちらの水が合うか分かりませんし、見知らぬ環境で仲間もいないのでは、心許なくて」
また、“仲間”だ。
当てつけのように聞こえて、「あのさ」と声が尖るのを感じる。
「さっきから仲間が仲間がって言ってるけど、今のあなた、貝じゃないよね。自分でわからない? 石になってんの。だから、海にこだわる必要もないんだよ。貝だったから海に行かなきゃって思うのかもしれないけど、化石には化石に適した環境ってのがあるんじゃないの?」
瑞帆だって、そうだ。こんなところで一生を終えたくない、相応の場所に行けば輝けるのだと思い込んでいた。けれど、東京生活は瑞帆の憧れを体現してはくれなかった。
先ほど押し込めた「でも」の続きが、くっきりと心にのしかかる。息ができなきゃ生きられない、そのために逃げてきた。でも、今だって、息苦しいままだ。
「それに、化石になるまでにすっごい時間かかってるんだよ。あなたが海にいたのは、もう何万年、何千万年も前の話。とっくにみんな死んじゃってるし、同じ貝がまだそこにいるかもわかんないし、いたとしても、もう仲間とは言えないんじゃない?」
一度離れてしまえば、あっけないものだ。高校卒業と同時に東京へ出た友人たちは、あれだけ別れを惜しんでいたのに、音沙汰がなくなった。東京で待ってるから、なんて嘘ばかりだ。
「生きる世界が変われば、それっきりだよ」
吐き捨てるように、そう言った。部屋に、静寂が落ちる。
どくどくと脈打つ音が、頭に響きだす。けっこう酔っているのかもしれない。
化石から返事はない。強く言いすぎただろうか。それとも、すべて瑞帆の妄想だったのか。
不安に駆られ、容器を手に取った。化石は変わらずそこにある。
「ねえ。もしもーし」
軽く振ってみれば、なされるがまま塩に埋もれてしまう。
「え、あの、すみませ」
謝罪の意を込めた呼びかけは半ばで、「はああああああ」と嘆きとも溜め息ともつかない声にかき消された。
「驚きました。そうですか、石ですか。いつのまに、って、寝てる間にですよね。どうして、こんなことに。あ、でも石なら、食べられたり攻撃されたりする心配はないということでしょうか」
もしかしてわたし、無敵では? と嬉しそうな様子に、瑞帆の肩から力が抜ける。
「……ねえ。それでも、海に帰りたい?」
「帰りたいです。海、好きですから」
今度は、即答だった。清々しいほどの断言が眩しくて、視界が揺らぐ。
「私も、東京、好きだったのになぁ。なんでもあるのに、なんで私はなんにもできないんだろう」
鬱憤が、堰を切ったように溢れ出した。ぼとり、ぼとり。涙となって、塩に染み込んでいく。
「うわあ、海の匂いがします! もっと出してください!」
「す、好きで出してるわけじゃないっ」
「ああ、わかります。ピューッと出ちゃう、あれですね」
「違うよぉ、砂吐いてるんじゃない。違っ、違うのに」
違う、違う、と口にし始めたら止まらなかった。こんなの、想像してた生活とは違う。全然、平穏なんかじゃない。こんなはずじゃなかった。
就職活動でつまずいたときはまだ、東京に出てきてしまえば、なんとかなるだろうと思っていた。地元と違って、いくらでも仕事はあるのだから。だが、そんなに甘くはなかった。たいした取り柄も経験もない瑞帆を正規雇用してくれる会社は見つからず、結局とりあえずで登録した派遣に落ち着いた。
「だから、仲間なんてできるわけないの。だって、私はどうせ辞めちゃうんだもん。そんで、また別の会社で一からやり直すって、頑張るのがバカらしくなるじゃん」
賽の河原で石を積んでいるみたいだ。親の反対を振り切って逃げた罰かなと自嘲する。
それでも、改めて就職活動をする気にはなれなかった。「いらない」と言われることが恐い。もし正社員になれたとしても、そこで失敗してしまったら。東京のどこにも瑞帆の居場所はないのだと突きつけられるのが恐い。実家に帰らないのだって、こんな状態で戻れば二度と抜け出せなくなりそうで恐いのだ。
「へえ」とか「なるほど」とか、適当な相槌が化石から返る。
ときどき、「波にさらわれたくなければ、砂に潜るか岩にしがみつくかですね」とか「同じ貝だという理由で信用したら、あっという間に食べられて終わりです」などと語っている。意味は不明だ。たぶんお互い、相手が何を言っているのかよくわからないまま喋っている。
こんなに大きな声を出したのも、仕事以外で誰かと話をするのも久しぶりだった。
上京したばかりのころはヒールを鳴らして歩いているだけで楽しかったのに。いつから、こんなに疎外感を覚えるようになってしまったんだろう。
「私は東京が好きなのに、東京は私を受け入れてくれないっ」
子どもみたいに喚く瑞帆へ、化石がのたまう。
「適さない環境で生きるには、進化するしかないですねえ」
叱責だか助言だかも定かではない。けれど、自分のために差し出された言葉なのは確かだったので、「なるほどね」と瑞帆も応えた。
家路を急ぐ足が軽い。
部屋に帰ったら化石に報告しようと、午後の出来事をもう一度思い返す。
「ありがとうございます」
最初は、瑞帆に宛てたものだと気づかなかった。名前を呼ばれ、ありがとうございますと重ねられ、ようやく顔を向ける。
昨日、大丈夫かと尋ねてきた女性社員が、すぐ近くに立っていた。相変わらずばっちり上がった睫毛と、隙間から覗くグリッターシャドウのきらめきに、わずかに怯む。
「ああ、いえ」
「すみません、ついつい溜め込んじゃって」
うずたかく積まれた紙の束を瑞帆越しに見やり、彼女は眉を下げた。
「わかります。後回しにしちゃいますよね」
コピー機の横に置かれたダンボール箱は、役目を終えた資料やごみ箱には捨てることのできない紙でいっぱいだった。それを、地道にシュレッダーで処理していく。
「そういえば、昨日、大丈夫でした? 帰り間際にいろいろと」
あれは、終業直前に仕事を増やされて大丈夫かという意味だったらしい。ひねくれていた自分が恥ずかしく顔に熱が集まるのを感じながらも、瑞帆ははっきりと答えた。
「ぜんぜん大丈夫です」
化石からのお願いに比べれば、押しつけられた仕事なんて易しいものだった。それに、今こうして自主的に雑務をこなしているのだって、べつに上司の小言を気に病んでのことではない。
「何かあったら、いつでも声かけてください。いっしょにやりますから」
「あっ、ありがとうございます」
思いがけない申し出に、声が上擦った。勢いで、あの、と続ける。
「私も、お手伝いできることがあれば言ってください」
ほんの数分。それだけの会話だが、妙に誇らしかった。
帰りの電車の混雑も苦にならない。心が浮つくのに任せ、週末は出かけようと決めた。髪を巻き、丁寧にメイクをして、お気に入りの服で、塩の保存容器を買いに行く。とびきりおしゃれな雑貨屋で、瑞帆の部屋には不釣り合いなほど素敵なキャニスターを選ぶのだ。
そこまで考えて、ふと思う。
母は、どこであの化石を買ったのだろう。贈り物にできる雑貨を扱った店なんて、村にはない。家を出たまま一向に寄りつかない娘の誕生日プレゼントを買うために、どれくらい時間と手間をかけたのか。
「ただいまー」
部屋のドアを開けるなり、何年も口にしていなかった挨拶が自然とこぼれた。
「ミズホ、見てください!」
驚いている瑞帆をよそに、化石は話しだす。
「仲間ができました! これ、石じゃないですか?」
容器の中、化石の隣に並ぶ小さい欠片。水分で育った塩のかたまりに、乾燥剤だったはずの石は「すくすく成長してくれるといいですね」なんて暢気なことを言っている。
「私、今年のお盆は実家に帰ることにした。あの海に、あなたを帰しに行くよ」
だから、そう宣言した。
「本当ですか!?」
「うん、仲間に会えるといいね」
そんな偽物じゃなくてさ、という言葉は飲み込んだ。化石に八つ当たりした昨日と比べれば、今の瑞帆は少しだけ進化している。
ただいまを告げる相手がいて、名前を呼んでもらえて。仲間に会いたいというのは、きっとそういうことなのだろう。鬱憤と甘えが染みてできた偽物では、代わりになれない。
「あ、そうだ」
「どうしました?」
「いいこと思いついた」
「なんです?」
海には、この塩のかたまりも、いっしょに流してしまおう。
「ふふふ、ひみつ」
いつか化石になった瑞帆の涙が、貝の化石と海底をただよう。
そんな日を想像して深く息を吸えば、冷涼な水が瑞帆の胸を満たした。
化石の夢でただよう きづき @kiduki
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