第10話 修学旅行1日目 函館駅
彩那はしばし放心していた。
さっきまで一緒にいた里沙がどこかに消えてしまったからである。これまでずっと傍についていながら、ほんの一瞬目を離した隙に連れ去られてしまった。悔しい気持ちはもちろんのこと、それ以上にこの現実を受け入れることができなかった。
それでも彩那は周囲を見回した。やはりどの方角にも櫻谷の制服は見当たらない。
「フィオ?」
「何をもたもたしているのです。すぐに探しなさい」
彩那は半べそをかきながら、石畳を駆け下りた。
「龍哉は救急車が到着するまで、その場に待機。被害者の身体は無理に動かさず、交通整理にあたりなさい」
「了解」
そんなやり取りも、彩那の耳にはまるで届いていなかった。後悔の念ばかりが湧いていた。それは精神を蝕んで身体の自由さえも奪い去ってしまいそうだった。
もし里沙が危険な目に遭っているならば、その責任は彩那にある。おとり捜査失格の烙印を押されても文句は言えない。万が一、生命が脅かされるようなことになれば、南美丘家にはお詫びのしようもない。
長い坂道は遠くまで見渡せたが、やはり人影はなかった。まるで時間が止まってしまったかのようだった。里沙はどこへ行ってしまったのだろうか。
彩那は足を止めて、途中の辻で立ち止まった。
どちらを見ても彼女の姿はなかったが、人の気配を感じた。たばこの煙が立ち昇っているのだ。普段なら見逃してしまいそうな兆候も、今は獲物を追う野生の勘が働いていた。
煙に吸い寄せられていくと、そこは狭い路地だった。マンションによって太陽光が遮られ、辺りは途端に暗くなった。
見覚えのある連中が立っていた。空港で見掛けた三人組である。狭い道路一杯に広がって進路を塞いでいる。
彩那は思わず駆け寄った。
「待ちなさい」
フィオナの声が飛ぶ。
男たちと向き合う格好になった。確かに三人とも堅気ではなさそうだ。身に降りかかってくるトラブルは力で排除するといった、暴力団特有の雰囲気が感じられた。
「姉ちゃん、随分と慌てているじゃないか?」
真ん中の角刈りが言った。サングラスを掛けていて目は見えない。この男がリーダーだろうか。
右の男は煙草をピンと斜めに咥えている。さらに左の男は丸太のような腕を組んでいる。彩那の三倍はある巨漢だった。この二人はリーダーの指示待ちといったところか。
「すみません、人を探しているんです。これと同じ制服を着た女の子を見掛けませんでしたか?」
不思議と恐怖感は湧かなかった。それよりも今は里沙のことで頭が一杯だった。
「そう言えば、そんな子見たなあ」
リーダー格が言った。
「本当ですか?」
「ああ、あんたから逃げるようにこの道を突っ切っていったよ」
両端の二人が肩を上下させて笑った。
「そうですか。ではちょっと、そこを通してもらえますか?」
「おっと、そいつはできねえ相談だな」
人を食ったような台詞を吐いた。
「フィオ、どうしよう?」
こんな連中に構っている暇はない。早く里沙を追いかけなければならない。
「仕方ないですね。腕づくで通りなさい」
一瞬、耳を疑った。
「あのねえ、三人とやり合うのは無理よ」
「全員とは言っていません。一番左だけ狙いなさい」
「何で、わざわざデカい人を選ぶのよ」
「巨漢ほど足腰は弱いものです」
「もう、人ごとだと思って」
さすがに男たちは異変に気づいたようだった。
「おい、姉ちゃん、さっきから独りで何ごちゃごちゃ喋ってるんだ?」
巨漢が一歩近づいた瞬間に上体を引きつけた。上下のバランスが崩れた瞬間を見計らって足をすくった。柔道の小内刈という技である。
男はあっさりと道路に転がった。
「ごめんなさい!」
彩那は男を飛び越えて先を急いだ。背後からは彼らの怒号が聞こえてくる。
「ほらね」
フィオナの声。
「ほらね、じゃないわよ。もしものことがあったらどうするの?」
彩那が不満をぶつけると、
「一対一で勝負する時は、見た目が強そうな相手を選びなさい」
「そういうものなの?」
「その話は後。今は里沙を見つけることが優先です」
「分かっているわよ」
狭い路地をそのまま進むと、広い空間に踊り出た。路面電車が行き交う大通りだった。
だめだ、里沙は見つからない。
突然、落ち着いた声が割って入った。奏絵である。
「ひょっとして、南美丘里沙は誘拐されたのではなく、自ら姿を消したんじゃない?」
「えっ?」
意外な言葉に思わず足を止めた。
「だってそうでしょ。たまたま交通事故が起きて、確かに現場は騒然としたかもしれないけど、誘拐犯がその瞬間を狙っていたとは到底考えられないのよ。それに里沙だって、拉致されそうになったら、大声の一つぐらい上げるでしょ」
「なるほど」
彩那は肩で息をしながら、当時の状況を思い出してみた。
安全だと思ったからこそ、里沙から離れたのだ。彼女の周りに人気はなかったし、不審な車が停まっていた記憶もない。
「じゃ、どういうことになるわけ?」
奏絵に食ってかかった。
「そもそも狂言誘拐という可能性だってあるわ」
「狂言誘拐?」
「そう、最初から彼女は失踪するつもりで、自分が誘拐されたように装っているだけかもしれないじゃない」
しかし彩那はその考えには承服しかねた。
「そうだ、さっきの三人組が何か知っているかも。ちょっと訊いてくるわ」
きびすを返したところで、
「もうすでに彼らはいません。菅原から報告がありました」
フィオナの声に、彩那は足を止めた。
「連中を傷害容疑で押さえようと思ったのですが、よく考えたら先に手を出したのは彩那でした」
「だって、フィオがやれって言ったんじゃない」
その後、龍哉も合流し、二人して里沙を探した。菅原刑事も覆面車を使って捜索範囲を広げてくれたが、結局発見には至らなかった。
「やっぱり里沙さんにもGPSを装着しておけばよかったのに」
彩那は腫れ上がった足を揉みほぐしながら言った。
「プライバシー保護の観点から、それは日本では許可されていません」
フィオナが返した。
「私、どうすればいいんだろう?」
彩那はへなへなと座り込んだ。
誰もが黙り込んでいたが、
「彩那、よい知らせが入りました。担任の槇坂に連絡を取ったところ、里沙は函館駅に無事戻っているそうです」
珍しくフィオナの声は弾んでいた。
自然と涙が出た。嬉し涙だった。彼女が無事で本当によかった。神に感謝する気持ちで一杯だった。
菅原刑事の車で函館駅に向かった。
まだ集合時刻の三十分前だったが、駅には続々と櫻谷の制服が集まり始めていた。その中に里沙の姿を見つけて、彩那は駆けていった。
思わず彼女を抱きしめていた。クラスメートたちが何事かと黙って様子を窺っている。
「どこ行ってたのよ、心配したのよ」
彼女の身体に触れた途端、涙が溢れてきた。
「あなたって本当に面倒臭い人ね。私なんか、どうなったっていいのよ。放っといて頂戴」
里沙は相手を突き放すと、憎悪の目を向けた。
彩那は唖然とした。
大企業の会長の娘に生まれ、これまで何不自由なく暮らしてきた。そんなお嬢様に一体何の不満があるというのか。
「甘ったれるのも、いい加減にしなさいよ!」
彩那の手が頬に飛んでいた。
里沙は大袈裟に地面に倒れ込んだ。突然の出来事に誰もが言葉を失った。
「あんたなんか大嫌い。顔も見たくないわ!」
そんな叫び声に、彩那は唇を噛みしめて立ち尽くした。
「倉沢さん、クラスメートに暴力を振るうなんて最低よ。あなたのこと見損なったわ」
真っ先に飛び出してきたのは、生徒会長の国能生澪だった。
倉垣咲恵も、そして蛯原、宮永、則田の三人衆も揃って冷たい視線を向けていた。
警視庁高校生おとり捜査班2 倉沢彩那、修学旅行潜入篇 ぽて @pote82_69
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