第9話 修学旅行1日目 函館市内観光
市内から離れているトラピスチヌ修道院と五稜郭公園は、空港からそのまま観光バスで回ることになっていた。
修道院のアーチ型の門をくぐると、手入れの行き届いた庭園がどこまでも広がっていた。ヨーロッパの街並みを思わせる石畳を歩いて行くと、聖母マリア像が出迎えてくれた。
そこで一列に並んで記念撮影をした。櫻谷女学院の制服は目を引くのか、女子生徒たちは観光客からあちこちで声を掛けられた。
バスガイドの花島美乃華によれば、修道院には実際に修道女が暮らしているという。厳しい毎日を過ごす彼女たちの目には、連日押し寄せる若い観光客はどのように映っているのであろうか。彩那にはそんな興味が湧いた。
同じクラスで、生徒会長を務める
異国の観光客にも動じない威風堂々たる姿は、まさに櫻谷女学院の代表に相応しかった。
羨望の眼差しで見つめる彩那に気がつくと小さく手を振った。また一人、外国人女性を相手にした後で近づいてきた。
「国能生さん、凄いわね。外国人相手に流ちょうな英語で話せるなんて憧れるわ」
彩那が褒めると、照れた様子も見せずに、
「これぐらい普通でしょ」
と返した。それから思いついたように、
「ねえ、倉沢さん。一緒に写真撮らない?」
と誘ってきた。
里沙は気を利かせてか、すぐにその場から離れた。
彩那はそんな彼女を目で追い掛けながら、白い聖堂を背にして澪の隣に並んだ。生徒会執行部の役員がシャッターを切ってくれた。
「彩那、ターゲットから離れない」
「分かってます」
「倉沢さん、どこを見てるの? カメラの方を向いて」
もう一度シャッターが切られた。
続いてバスは街中を抜け、五稜郭公園に到着した。
飛行機からもその独特の形状は確認できたが、実際にタワー展望台に上って百メートルの高さから見下ろすと、狂いのない幾何学模様はまさに圧巻だった。
ガイドの説明では、ここは江戸時代に造られた城郭なのだという。当時の技術で、これほど正確で、しかも完璧な造形を生み出したことが信じられなかった。
展望台からは、街の向こうに横たわる函館山が望めた。バスガイドは、今夜あの山から夜景を見ることになるのですよ、と教えてくれた。
そのガイドの美乃華は、彩那と里沙がぴったりとくっついて歩くのを見て、
「お二人は、とっても仲がいいのね」
と声を掛けた。
「ええ、まあ」
彩那は言葉を濁した。
本当はもっと仲良くなりたいところだが、里沙の方にその気はないらしい。よって曖昧な答えにならざるを得なかった。
美乃華はすっかり女子高生たちに溶け込んでいた。車内の自己紹介では、高校卒業後すぐにバスガイドの道に進んだと言った。彼女とは年齢が近いため、お姉さんのような存在に感じられるのであった。
女子生徒を乗せたバスは、一路函館駅に向かった。
ここからの市内観光はグループ行動となる。午後3時に再びこの場所に集合して、大沼公園へ向かうことを確認してから解散となった。
里沙の班は5人のメンバーで構成されていたが、そのうち3人が別行動を取ると言って離散した。そのため里沙と彩那は二人きりになってしまった。
「もう、みんな勝手なんだから」
彩那はため息をついた。
「ねえ、うどんはこれからどこへ行くつもり?」
「もちろん、うどんを食べに行くのよね?」
「美味しいうどんの店、あったら教えてよ」
いつの間にか蛯原、宮永、則田の3人に囲まれていた。
「ちょっと、うどん、うどんって何のことよ?」
「もちろん、あなたのあだ名に決まってるじゃない」
と則田が言った。
「あのねえ、もうちょっとマシなあだ名はないの?」
「あなたには、うどんがお似合いよ」
3人は笑い声を残して遠ざかっていった。
「ねえ、二人はどこか行く当てがあるの?」
振り返ると、倉垣咲恵だった。グループを引き連れている。
「まだ、決めてないけど」
彩那がそう言うと、
「じゃあ、元町まで一緒に行かない?」
里沙の方を向いて、目で了承を得てから、
「もちろん行くわよ」
咲恵の肩を軽く叩いた。
駅前には櫻谷の制服はほとんど残っていなかった。みんなお目当ての場所へと散っていったのだ。
ガイドから貰ったイラスト地図を片手に、咲恵の班についていった。
里沙を左側に歩かせて、通り過ぎる車や人に目を配ることは忘れなかった。
元町付近には櫻谷の制服がちらほら見られた。みんな公園の方へ歩いていく。
「あの子って面白いのよ」
前を行く咲恵が何やら話している。以前ハードル走で勝負して、二人で素うどんを食べたことを話題にしているようだった。どっと笑いが起きた後、前を行く女子たちが、一斉に振り返って顔を並べた。
その中の一人が手を差し出した。
「倉沢さん、よろしくね」
「こちらこそ」
二人は握手した。
「彩那、後ろに龍哉を配置していますので、もし何かあったら手を貸してもらいなさい」
フィオナが言った。
赤レンガ倉庫群、カトリック元町教会、ハリストス正教会など観光スポットが目白押しである。それらを順番に見学していった。
ようやくお目当ての八幡坂に着いた。ここはテレビや雑誌でもよく取り上げられる場所である。
石畳の坂道の両側には整然と樹木が植えられ、遙か向こうには海が見える。大型客船が青い海に浮かんでいた。車の往来はほとんどない。
咲恵の班とは、ここで別れた。里沙が珍しく、もう少しここに居たいと主張したからである。
確かに飽きのこない景色だった。まるで日本ではないような錯覚に陥る。
柔らかな日差しの下、二人は肩を並べて静かな海を見下ろしていた。
その時である。
車のブレーキが悲鳴を上げたかと思うと、鈍い衝突音が聞こえた。
交通事故のようだった。
彩那はすぐに音がした方へ駆け出した。坂を上がった信号のない交差点で、老人が路面に投げ出されていた。すぐ傍には杖が転がっている。
「おじいさん、大丈夫ですか?」
彩那は膝をついた。
一旦は停まっていた車が、突如急発進をした。
「フィオ、ひき逃げよ」
彩那は立ち上がって、走り去る車の特徴や逃げた方角を落ち着いて伝えた。
「救急車を手配しました」
龍哉もすぐに駆けつけた。
「おじいさん、しっかりして」
しかし返事はない。どうやら気を失っているようだった。
「頑張って。もう少しの辛抱よ。今救急車が来るからね」
彩那は老人の手を握った。
それから、「あっ」と声を上げた。
慌てて八幡坂に戻ったが、里沙の姿は見当たらなかった。彼女はこつ然と消えてしまったのである。
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