第7話 仔猫の名前

 午後最初の授業が終わると、チャイムも鳴り止まないうちに、猪野島いのしま朱音あかねが教室を訪ねてきた。

 開け放たれた扉から顔を出すと、

「失礼します。倉沢さんはいらっしゃいますか?」

 小さな身体からは想像もつかぬほどの声量で言った。明瞭に響き渡るその言葉は、まるで舞台稽古をする役者の台詞のようだった。

 彩那はすぐに手を挙げた。

「里沙さん、誰かに呼び出されてもこの教室から出ちゃダメよ、いいわね」

 釘を刺してから席を離れた。クラスの誰もが、芸能人と転校生といった、これ以上ない不思議な取り合わせに注目している。

 朱音の背中を追って廊下に出た。

 さっきカフェテリアで見た、取り巻きの連中はいなかった。今は彼女一人がぽつりと立っている。

「とりあえず、屋上に来てもらえますか?」

 朱音は先に歩き出した。彩那も後に続く。

 屋上に上がると、西日が眩しかった。一瞬目を細めたが、そこには競い合って建つ高層ビルの光景が広がっていた。

「実はお恥ずかしい話なのですが……」

 朱音はそう切り出した。

「昨日の放課後、バイクで乗り付けた男がいたでしょう。実はあの人、私の中学の同級生なのです」

「何だ、そうだったの?」

「同級生といっても、特に友人ではありません。私がアイドルをやるようになってから、同じ中学の出身者として応援しているつもりなんでしょうが、正直、迷惑なのです」

 今にも泣き出しそうな声だった。さっき教室で見せた威風堂々たる姿はどこかに消えてしまっていた。

「以前にも、仲間を連れて、私を待ち伏せしていたことがありました」

 朱音には悪いが、彩那には安堵感が湧いていた。連中は誘拐とは無関係だったからである。

「これでも私、一応芸能人ですから、そんな不良たちと関わっているなんて思われたくないのです。今度またいつ来るかと思うと、不安で堪りません」

 なるほど、それはアイドルとして当然の悩みであろう。自身の評判を落とす可能性があるし、何より襲われる危険性だってある。

「もしまた連中が来たら、昨日みたいに追い返してもらえますか?」

 朱音は潤んだ瞳で彩那を見つめた。

「ええ、まあ、私にできることなら」

「彩那、その男の名前と出身中学校名を訊きなさい」

 フィオナに言われた通り質問をすると、彼女は正確に答えてくれた。

「後日、菅原と一緒に彼の元へ行って、猪野島朱音の立場をきちんと説明してあげなさい。もし彼がただの冷やかしではなく、本当に彼女のファンならば、きっと分かってくれるでしょう」

「分かったわ。この件は私に任せて頂戴」

「ありがとうございます」

 アイドルは目に涙を浮かべて、彩那の手を握った。


 授業開始のチャイムが鳴った。

 朱音と別れると、教室へ急いだ。

 階段を駆け降りながら、

「芸能人も見えないところでは苦労しているのね」

 と言うと、

「そんなことより、ターゲットをほったらかして大丈夫ですか?」

 フィオナが返した。

「だから、こうして急いでるんじゃない」

 彩那は階段の踊り場から大きく飛び降りた。

 教室の扉を開けて、いつもの場所に目を遣った。チャイムは鳴り終わって、すでに全員が着席している。しかし里沙の席だけは空っぽだった。

 悪い予感を抱く。

「ねえ、南美丘さんは?」

 両隣の生徒に訊いた。

「あの子のことなんて、知らないわよ」

「元々、存在感が薄いんだから、居ても居なくても気にならないわ」

 そんな冷たい台詞が返ってきた。

「あんたたち、それでもクラスメートなの?」

 そう言ってから、一人だけ彼女の味方がいたことを思い出した。倉垣咲恵である。すぐに彼女の席に雪崩れ込んだ。

「ねえ、里沙がどこへ行ったか知らない?」

「ごめん、友達と話に夢中で、教室を出ていったことにも気づかなかったわ」

 彩那は焦り始めた。

 まさか、誰かに呼び出されたのだろうか。彼女から目を離したのはわずか十分ほど。まだそれほど遠くへは行っていない筈だ。

「フィオ?」

「何をもたもたしているのです。早く教室の外を探しなさい」

 廊下へ出た。足がもつれて倒れそうになったところへ教師がやって来て、危うくぶつかりそうになった。

「先生、南美丘さんを見ませんでしたか?」

「いや、知らないよ」

 それだけ聞くと駆け出した。

「おい、君。どこへ行くんだ? もう授業は始まっているんだぞ」

 もしかすると、保健室にいるのではないだろうか。彩那はすぐに思い至った。

 里沙はどこか病弱そうに見える。体調が悪くなって、ベッドで横になっていることは十分あり得る話だった。

 一階の保健室の扉を勢いよく開けた。

 校医に問い掛けると、

「今日は、南美丘さんは来ていませんよ」

 と呑気な声で答えた。

「フィオ。もしものことがあったら、どうしよう?」

「落ち着きなさい。校舎内にいないのなら、外を探しなさい」

「そうか。まだ探すところはあるわよね」

 気を取り直して、玄関へと向かった。まだ授業中のため、下駄箱付近はひっそりとしている。午後の日差しがのんびりと差し込んでいた。

 体育館はどこかのクラスが使用していた。ボールのドリブル音とシューズの悲鳴が混ざって聞こえてくる。

 その先は弓道場である。狭い通路を真っ直ぐ走った。さすがにここまでやって来ると、まるで人影はない。普段授業では使わない施設だからである。

 まさか里沙は学院の外に出たのだろうか。いや、正門はこの時間施錠されているので、出入りはできない。

 突然、龍哉の声が入った。

「おい、見つけたぞ。テニスコート西側の植込みだ。すぐ来てくれ」

 里沙は無事だったのだ。彩那は胸を撫で下ろした。

 フィオナの誘導で、迷わず現場に辿り着いた。

 そこには龍哉の背中があった。緑色のネットに身を隠すように見張っている。

「あれだろ?」

 指先に視線を向けると、木陰で背中を丸めている女子生徒がいた。ここからは遠くて顔認識の枠は出てくれない。

「周りには誰もいませんね」

 フィオナがそう言ったが、

「待って。生体反応があります」

 と訂正した。

「何、それ?」

「猫です。どうやら猫とじゃれているようです」

「龍哉、あなたは教室に戻りなさい」

「了解」

 残された彩那はゆっくりと目標に近づいていった。

 気配を感じたのか、女子生徒は顔を上げた。やはり南美丘里沙だった。

「こんな所に居たのね。随分と探したわよ」

 彼女はすぐにうつむいた。どうやらまた無視を決め込むらしい。

「一体、どうしたって言うのよ。急に居なくなるから、心配したじゃない」

 そんな強い声に驚いたのか、仔猫がするりと彼女の手を抜けて、草の茂みに消えてしまった。

「そんなに怒らなくてもいいでしょ」

 里沙がいきなり立ち上がった。憎悪に満ちた目で睨んでいる。これまで無気力にしか見えなかった彼女が、人に対してそれほど積極的な態度を見せるとは少々意外だった。

「警護する私の身にもなって頂戴。教室の外へ出るなら、そう言ってよ」

「あなたこそ、どこかに行って居なかったじゃない」

「確かにそうだけど、咲恵に言づてするとか、置き手紙するとか、いくらでも方法はあるでしょう」

 彩那は次第に腹が立ってきた。誘拐の危険に晒されているのは他でもない、里沙本人なのである。危機意識があまりにも薄いのではないか。

「別にあなたに警護を頼んだ覚えはないわ。私のことが嫌いなら、とっとと辞めればいいじゃない?」

 彼女は冷たい目をして言った。

「ああ、そうですか。私だって、こんな仕事好きでやってる訳じゃないんだからね」

 売り言葉に買い言葉となってしまった。

「彩那、口を慎みなさい」 

 フィオナの厳しい言葉が飛んだ。

 里沙の頬に涙が一筋光った。

「ごめんなさい。今のは言い過ぎました。なかったことにしてください」

「どうせ私に嫌気がさしてるんでしょ。分かってるわ」

 里沙は、ぼそっと言った。

「そんなことないわよ」

 しばらく両者は沈黙した。突然風が木立を抜けて枝葉を揺らした。それはまるで二人の劇を見る観客のざわめきのようだった。

 仔猫が戻って来た。

 彩那はしゃがみ込むと、

「さっきはごめんね。ビックリさせちゃったね」

 猫の頭を優しく撫でた。

「この子の名前は何て言うの?」

「猫の?」

「そうよ」

「バカアヤナ」

 予期せぬ言葉に思わず吹いた。

「ちょっと、本当の名前を教えなさいよ」

 彩那は口を尖らせた。

「そうねえ、キャットくん」

「センス悪っ」

「しょうがないでしょ、今思いついた名前なんだから」

 二人は顔を見合わせると、どちらからともなく笑みをこぼした。


 放課後、正門で南美丘里沙が自家用車に乗り込むのを見届けた。すぐ後ろを菅原刑事の覆面パトカーがつけていった。彼はこの後、南美丘邸を張り込むことになっている。

 彩那は龍哉とともに帰宅の途についた。

「さっきはありがとう。助かったわ」

 素直にそう言った。

「もっと彼女とうまくやれよ」

「そうは言うけど、里沙さんの方が打ち解けてくれないんだもの」

「たぶん、お前にやきもちを焼いてるんじゃないか?」

「はあ?」

 意味が分からなかった。

「お前はある意味、人気者だろ。転校してきて早々に友達も作って、一部の生徒からは信頼も得ている」

 彩那は黙って聞いていた。

「必ずしもみんなから歓迎されている訳ではないが、とにかく目立つ存在だ。一方で里沙の方は、孤独でどこかクラスからも浮いた存在だ。そんな人間からすれば、お前のことを素直に好きにはなれんだろう」

 龍哉は分かったようなことを言う。

「そんなこと言ったって、私はいつも通りやってるだけなんだけどな」

「お前の言う普通ってのは、他人からすると異常ってことだからな」

「ちょっと、それどういう意味よ?」

 地下鉄の車両がひんやりとした風を運んで入線してきた。二人は乗り込んだ。

「でも里沙さんに、酷いこと言っちゃったな」

「その通りです。警察が民間人を挑発してどうするのですか? しかもその相手は警護するべき人間なのですよ」

 フィオナの声。

「だって、彼女は誘拐されるかもしれないというのに、まるで他人事みたいなんだもの。あのくらい厳しく言わないと目が覚めないんじゃないかと思ったのよ」

「それは逆効果でしたね。明日から修学旅行というのに、ますます溝を深めてしまったのではないですか?」

「大丈夫よ。たとえあの子に嫌われたって、絶対に守って見せるんだから」

 彩那は自分の胸を叩いた。

「では、今日の成績を発表します」

 しばし沈黙の後、

「50点です」

「低っ」

「高っ」

 声が被った。奏絵が入ってきたのだ。

「あのねえ、どうしてこれが高いわけ?」

「だって、私の記憶ではこれまでの最高得点だと思うけど」

「あら、そうだったかしら?」

「珍しく命令違反はありません。しかしあろう事か、民間人しかも警護すべき人物に暴言を吐きましたので、50点の減点とします」

「その点については深く反省してます。里沙さんの気持ちを傷つけてしまったのは事実ですから。でも決して喧嘩するつもりはなかったのよ」

「いずれにせよ、この二日間で里沙と仲良くなって、修学旅行は楽しい雰囲気の中で警護する計画だったのですが、それは失敗に終わったようです」

 それには反論する言葉もなかった。

「済んでしまったことは仕方ありません。明日からの修学旅行では、どんなことがあってもターゲットから離れず、しっかり警護をすること」

「はい、分かりました」

 いよいよ、修学旅行が始まる。こんな調子で、果たして里沙を守ることができるのだろうか。彩那はどこか心配になってきた。

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