第6話 彩那を取り巻く人々
翌日、正門のところで担任の槇坂が待ち構えていた。その顔は緊張のためか、どこか歪んで見える。
朝のあいさつもそこそこに、
「倉沢さん、一緒に校長室へ来てください」
と言った。
龍哉と別れて、担任の後について行った。
まるで連行される容疑者のように見えるのか、すれ違う生徒たちは冷たい視線を向けた。
「フィオ、何かあったのかしら?」
「私には大体予想がつきますが」
職員室に入ると、教師全員が作業の手を止めて、彩那の方を睨んだ。何かただならぬものを感じる。遠くでは受話器を片手に何度も頭を下げている教師が二人もいた。
職員室を抜けて校長室に入った。
「倉沢さん、ほんと頼みますよ」
顔を見るなり、眼鏡を掛けた小太りの校長が泣きついてきた。
「何のことでしょうか?」
まるで状況が飲み込めなかった。
「とぼけないでください。昨日の放課後、その制服で一般道をがむしゃらになって走ったでしょう」
「やっぱり」
フィオナの声。
「ええ、走ったのは確かに事実ですが、事件の関係者と思われる人物を追いかけたのでして」
「理由なんてどうでもいいのです。おかげで朝から苦情や問い合わせの電話が鳴りっぱなしです。櫻谷女学院では生徒にどういう教育をしておるのか、と」
「すみません」
彩那は深々と頭を下げた。
隣で槇坂が補足説明をする。
「あなたの走っている動画がSNSにアップされていて、どうやらそれを見た人が電話を掛けてきているようなのです」
「ええっ?」
この清楚で可憐な制服が、道路を思いっきり駆けている絵は考えただけでも恐ろしい。
「櫻谷は伝統を重んじる由緒正しき学院です。明日から修学旅行が始まりますが、その名に恥じないよう行動してもらいたいものです」
「はい、ごもっともです」
「犯罪防止のため協力は惜しみませんが、どうかその点をご理解した上で捜査をお願いします」
「分かりました」
彩那は校長室を出ると、教職員全員に向かって、
「どうもご迷惑をお掛けして、すみませんでした」
と謝罪した。
すっかりSHRの時間に食い込んでいたので、二人はそのまま教室に向かった。
「校長先生、ひどく怒ってましたね」
と彩那が言うと、
「私も櫻谷の生徒が入学後、わずか一日で校長室に呼ばれて叱られるのは見たことがありません」
担任は呆れた声で返した。
階段を上がっていると、
「検索したところ、彩那の動画は2本、ネットに上がっているわ」
奏絵の興奮した声がした。
「2本もあるの?」
「フィオナさん、今アドレスを送りますね」
「お願いします」
「それってどんな映像なの?」
彩那は直ぐさま訊いた。
「一つは車内から撮られた後ろ姿の映像と、もう一つは、道路の反対側から撮られた横からの映像ね」
「どちらもプロバイダに連絡して、削除してもらいます」
フィオナが事務的に言った。
「彩那って、こうして見ると足速いね」
「褒めてる場合か」
「でも、もう少しでバイクに追いつきそうじゃない?」
「そうよ、信号無視さえなければ捕まえてたわよ」
教室の扉を開けると、すぐに南美丘里沙の姿を探した。彼女は無事に登校していた。
すぐに駆け寄って、
「おはよう。今日もよろしくね」
と明るく声を掛けた。
「ええ」
里沙はそれだけ答えた。
SHRが終わった途端、蛯原、宮永、則田の3人に取り囲まれた。
「ねえ、ここに写ってるの、ひょっとしてあんたなの?」
蛯原がタブレットを差し出してきた。指一本で動画が再生される。
なるほど、これが奏絵の言っていた映像か。櫻谷の制服女子が街の道路を疾走するという、事情を知らない人が見れば、確かに意味不明なものであった。
「ええ、まあ。そうみたいね」
彩那はお茶を濁した。
すると宮永が、
「これは一体何がしたいわけ?」
と不審な目を向けてきた。
「それはね、ハンカチを落とした人を見掛けたから、それを届けようとしているところよ」
「はあ?」
3人は揃って甲高い声を上げた。
「たかだかハンカチを届けるために、どうして全速力で車道を走ってるの?」
「その人は一体どんな速度で移動しているわけ?」
「ハンカチは車から落としたってこと?」
口々に質問を浴びせた。
「細かい話は、もうその辺でいいじゃない。私は好きでやってるんだから」
3人は彩那の説明に納得がいかないという顔をして、自分の席に戻っていった。
「それで、ハンカチは渡せたの?」
隣から予期せぬ声がした。見ると、里沙の顔があった。
「いや、まんまと逃げられたんだけどね」
悔しそうに答えると、意外なことに彼女は小さく笑った。
それは彩那に初めて見せた笑顔だった。
体育の授業はコースを選択して、他のクラスと合同で行われる。
彩那は、里沙と同じ陸上を選択した。体育教師によれば、他には球技、ダンスが選べるのだが、陸上は一番人気がなく、人数に空きがあるので大歓迎だという。
運動場でハードル走のタイムを計測した。彩那は圧倒的な速さで百メートルを駆け抜けた。
発表されたタイムに、他のクラスの生徒からも驚きの声が上がった。
「あなた、なかなかやるわね」
背の高い、髪をポニーテールにした女子が近づいてきた。
顔認識では、倉垣
咲恵はすぐ隣にいた里沙を見て、
「そう言えば、あなたたち、いつも一緒に居るわよね。友達になったの?」
「ええ、まあ」
彼女はそう答えた。どうやら咲恵というのは里沙の友人なのかもしれない。
今度は彩那に顔を戻すと、
「あなた、前の学校では陸上やってたの?」
「いいえ、演劇部よ。陸上は中学までやっていたけど」
「ふうん」
と鼻を鳴らしてから、
「どう、次のタイムで私と勝負しない?」
「いいわよ」
「負けた方がお昼奢るってのはどう?」
昨日の素うどんが目に浮かんだ。
「彩那、民間人と賭け事をしない」
フィオナが割って入った。こんな何気ない会話もしっかりと聞いているのだった。
「いや、やっぱり止めておくわ」
「負けるのが怖いの?」
咲恵は挑戦的な目つきだった。
「そんな訳ないでしょ」
「じゃあ、勝負してもいいじゃない?」
「そうやって、お金を賭けるのは好きじゃないのよ」
二人は睨み合う格好になった。
「では、負けた方が昼食に素うどんだけ食べるっていうのは?」
間に入って、里沙がそう提案した。
「いいわね、それ」
咲恵は指を鳴らした。
「望むところよ」
二人は火花を散らした。
三十分後、彼女たち3人はカフェテリアの列に並んでいた。
「素うどん、一つ」
憮然とした声を上げたのは倉垣咲恵だった。
ハードル走は、1秒の差で彩那に負けてしまった。
咲恵はどうしてもその結果を受け入れられなかった。去年までは陸上部に所属していて、実際に都大会で準優勝した経験もあったからである。
彩那には、今は受験勉強に専念するため、陸上からは遠ざかっているのだと言い訳をした。
「素うどん、もう一つお願いします」
彩那が平然と注文した。
「えっ?」
先を行く二人は同時に振り返った。
「だって倉垣さんだけに、素うどんを食べさせるのは勿体ないもの」
「勝負に勝ったのだから、何を食べてもいいのよ」
「ううん、実はここの素うどん、意外と美味しくて病みつきになっちゃったのよ」
咲恵は高らかに笑い出した。
「彩那、あなたって面白い子ね」
「私はいつだって真面目よ」
二人は顔を見合わせて笑った。
「見て、またうどん食べてるわ」
「よっぽどお金がないのね」
「だめよ、目を合わせちゃ」
蛯原、宮永、則田の3人がテーブルの横を通過していった。
するとすぐに彩那の横の席に身体を滑り込ませてきた者がいた。他にも席はいくらでも空いているのに、彼女の行動には何らかの意図を感じた。
真正面に顔を捉えると、そこには
「倉沢さん、ちょっといいかしら?」
澪は昼食のトレイを置いた。見ると、里沙と同じ豪華な定食が載っていた。
「あなたの昼食、これだけ?」
彼女は丼を見て驚いたようだった。
「もしかしてお金に困っている人ですか?」
「あのですね、見掛けで人を判断しないでください」
彩那は頬を膨らませた。
「その子は、衆議院議員、国能生
フィオナの声。
「実は私、うどん愛好家でして、全国のうどんを食べ歩いているのです」
「ふうん、昨日も同じ物を食べてたって聞いたけど」
澪は端から信じていないようだった。
「うどんというのはですね、その日の天気、湿度によって麺の食感が変わるものなのです。ですから一度食べただけでは本当の味を判断することはできないという訳です」
「へえ、そうなんだ」
どうやら澪は納得してくれたようである。
気がつけば、里沙と咲恵は座っていた席を少し移動させていた。気を利かせているのか、それとも澪が苦手なのだろうか。
「あなた、昨日バイクで乗りつけた不良に勇敢に立ち向かっていったらしいわね?」
「ああ、そのこと」
「どういうつもりだったの。一人で危ないとは思わなかったの?」
「いや、別に戦いを挑む訳じゃないですから。ただお話ししようと思っただけです。いきなり逃げられちゃったけど」
「でも、それを追いかけたのでしょ?」
「ええ、まあ」
彩那は言葉を濁した。
「私、生徒会長やっているのだけど、あなたの正義感というかガッツに惚れたのよ。よかったら、今度生徒会執行部に立候補してはどうかしら?」
澪は真剣な眼差しだった。
「分かりました。考えておきます」
遠くのテーブルで誰かが彼女の名前を呼んだ。
生徒会長は手を挙げて応えると、
「よい返事を待っているわよ」
そう言い残して、席を立った。
ほっとするのも束の間、別の方角から強い視線を感じた。
彩那が顔を向けると、
「失礼します。あなたですね、転校生というのは?」
と女子が訊いてきた。
彼女の顔は一向に認識されなかった。一瞬眼鏡の故障かと思ったが、
「1組以外の生徒は入力されていません」
とすかさずフィオナが言った。
確かに廊下を歩いていても、学院中全ての生徒が認識される訳ではない。
「人気アイドルグループの、
奏絵の華やいだ声。
そう言われても芸能界に疎い彩那にはピンと来なかった。よく見ると、彼女は後ろに数人の女子を引き連れていた。
「あなたは芸能人の……」
「猪野島朱音です」
彼女は満面の笑みを浮かべていた。小顔にはうっすらとメイクが入っているようだった。
「倉沢さん、でしたね?」
「はい」
「本当にありがとうございました」
「えっ? 何の話ですか?」
彩那の頭は混乱した。
「今、ここでは何ですから、後ほど屋上でお話しします」
「はあ」
さっぱり意味が分からなかった。
アイドルはそれだけ言うと、取り巻きと一緒に消えていった。
「ちょっと彩那、凄いじゃない。いきなりアイドルから話し掛けられるなんて」
「何だか感謝してたみたいだけど、まったく身に覚えがないのよね」
「ひょっとしたら、芸能界に入りませんか、っていうお誘いじゃない?」
「あのねえ、私のどこにスカウトされる要素があるっていうのよ」
「そんなことより、南美丘里沙はどうなっているのです?」
フィオナの怒りの声。
すぐに辺りを見回した。彼女はさらに遠く離れた場所で、一人昼食を口に運んでいた。
「里沙さん、ごめん、ごめん」
すぐに彼女の横へ移動した。
「あれ、倉垣さんは?」
「午後のテストに備えて、先に教室に戻ったわ」
どこか腹を立てているような声だった。
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