第5話 バイクの男
里沙はどこか彩那を警戒しているようだった。
そもそも友達を作らない殻に閉じこもった人間が、今日会ったばかりの人物に心を開く筈もなかった。
テーブルに向き合っての昼食だったが、会話は生まれなかった。
しかしこれではいけないのだ。修学旅行までには意気投合しておかなければならない。
「ねえ、この学校って素敵よね」
彩那はカフェテリアを見回して言った。
場内は人の出入りが絶えず、至る所に生徒の笑顔が咲いている。
「そうかしら?」
里沙は仏頂面で返した。
「だって、制服は可愛いし、学校も綺麗だし、食事だって、まあまあ美味しいし」
早々と空になった丼を両手で持ち上げた。
「できれば、ずっとこの学院に通いたいぐらい」
「あなたって変わってるわね」
「まあ、私の学力じゃどうやっても入れる訳ないけどね」
「私は、今すぐにでも出ていきたいくらいだけどね」
「えっ?」
語尾がよく聞き取れなかった。里沙はすでに立ち上がっていた。
授業が全て終わり、SHRの時間を迎えていた。
今日は出動初日だったが、何事もなく終われそうである。里沙は誘拐予告を受けてからも、一日のほとんどはこの衆人環視の教室で過ごしているのだから、ここは安全な場所と言えそうである。問題は、明後日からの修学旅行だ。
今も教室内はその旅行のことで盛り上がっている。
槇坂からプリントが配布されて、行程や集合時間、持ち物についての最終確認が行われた。
聞けば、櫻谷学院では修学旅行とは別に、1年次に海外研修を行っているらしい。このクラスの連中は、去年ニュージーランドの語学研修を終えているのだという。
受験を考えて、修学旅行は国内に行くことになっているのだ。受験生に負担を掛けないという配慮は、やはりエリート進学校故のことであろう。ここでは彩那の考えも及ばぬことが当たり前に行われている世界なのである。
窓の外で、突然心臓を震わせるほどの爆音が聞こえた。改造バイクのエンジン音である。連続して行う空吹かしは挑発的だった。
バイクに乗った不審者がまた現れたのだ。
彩那は突然立ち上がった。
「どうしたのですか、倉沢さん?」
槇坂が驚いた顔を向けた。
「ちょっとトイレに」
一部から笑いが漏れた。
扉に手を掛けたところで、急に思い出して戻った。
里沙に向かって小声で、
「私が戻るまで、ここを動かないでよ」
と釘を刺した。
「彩那、ターゲットから離れない」
フィオナの声が飛ぶ。
「外に例のバイクが現れたのよ」
階段を下りながら応えた。
「待ちなさい、彩那。ターゲットをほったらかしてどうするのですか?」
「教室にいる限り大丈夫よ、フィオ」
下駄箱付近で、のんびり靴を履き替えている生徒を縫うように外へ出た。
まだ爆音は聞こえている。
正門を出たところにバイクが一台停まっていた。ヘルメットを被っていない男が跨がっている。他に仲間はいないようだった。
「ちょっと、話を聞きたいんだけど」
「彩那、止まりなさい」
振り向いた男はかなり若かった。一瞬驚いた表情を見せ、危険を察知したのか、突然、エンジンを吹かしてバイクをスタートさせた。
「待ちなさいよ」
道路は交通の流れが少ない。バイクは我が物顔で飛び出していった。彩那は全速力でその後を追い掛けた。慣れないローファーが足かせになる。
「彩那、無茶しない」
バイクからは大きく引き離されていた。しかし今、次の交差点が赤信号に変わった。まだチャンスはある。速度を上げて距離を詰めた。
男は一度振り返ると、加速して赤信号を突破した。結局、百メートルほど追いかけたところで振り切られてしまった。
彩那はがっくり肩を落として校舎まで戻った。
下校を始めた生徒たちとすれ違った。もうどのクラスもSHRは終わったようだった。
ふと思い出して、自然と駆け足になった。里沙のところへ戻らねばならない。
1組の教室にはまだ生徒は残っていたが、目的の人物は見当たらなかった。
「フィオ?」
「何ですか?」
怒った声が返ってきた。
「あの、里沙さんは?」
「もうとっくに帰りましたよ」
「えっ?」
「今、菅原が車で尾行中です」
「ああ、よかった。無事なんですね」
「ああよかった、じゃないです。護衛すべき人物を置き去りにして、一体何を考えているのです」
「ごめんなさい」
彩那は素直に謝った。
「今はまだ、学院内だからいいようなものの、旅行先では絶対一人にしてはいけません。その辺、ちゃんと分かっていますか?」
フィオナの小言は続く。
「でも、バイクの男が気になったのです。問い質せば、誘拐の手掛かりが掴めるかと思って」
「それは彩那の仕事ではありません」
「はい」
「バイクの方は手配を掛けました。ナンバープレートと男の顔がはっきりと写りましたので、捕まえて事情を聴けると思います」
彩那は鞄を手に取ると教室を出た。
廊下を歩く生徒たちが次々と好奇の視線を浴びせていく。何かひそひそと噂しているようだった。
「彩那、もう帰りなさい。帰り賃はあるのでしょう?」
「はい、たぶん」
地下鉄に乗った。朝、反対側の列車に乗ってここまで来たのだ。長い一日だったと改めて感じた。
「では、今日の彩那の成績を発表します」
久しぶりの緊張感。
「25点です」
「低っ」
「ほんとに低っ」
奏絵の声が被さってきた。彼女もいつしか聞いていたのだ。
「噂には聞いていたけど、こんなにも低いとは」
「しみじみと言うな、しみじみと」
「命令無視3回で75点の減点です。民間人からお金をせびろうとしていた件は見なかったことにします」
「お金をせびる、って人聞きが悪い」
「フィオナさん、普通、平均点はどのくらいなのですか?」
「忠実に指示に従って、何事もなければ減点なしで、持ち点百点のままです」
「なるほど、普通は百点なんですね、普通は」
「そこ、何度も確認するな」
「ところで学校の方はどうだったの?」
奏絵はいつも好奇心の塊である。
「さすがは超エリート校ね。授業のレベルは相当に高いわ。どの教科も意識を失いかけていたほどよ」
「それなら、いつもと大差ないじゃない?」
「あのねえ」
そんな女子トークで盛り上がっていると、
「お二人とも、この会話は全て録音されていることをお忘れなく」
とフィオナがたしなめた。
「もう、奏絵が悪いのよ。普通の電話みたいな調子で喋るんだから」
「ごめん、ごめん」
1時間掛けて、ようやく自宅に到着した。
ポケットの中の所持金は20円。よくここまで帰ってこられたと思う。緊張のあまり、握りしめていた硬貨は温かくなっていた。
「アヤちゃん、お帰り」
梨穂子が飛び出してきた。
「制服は大丈夫だった?」
「あのねえ、お母さん。服よりもちょっとは中身を心配してよ、中身を」
彩那は口を尖らせた。
「だってアヤちゃん、凄い勢いで走るんだもの。制服がちぎれるんじゃないかって冷や冷やしたわ。結構レンタル料金高いのよ、これ」
家計を預かる母親にとって、それは大問題らしかった。
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