第4話 彩那と里沙

 南美丘なみおか里沙は小柄でやせ細っていて、色白の顔はどことなく病弱に感じられた。大きな目、筋の通った鼻、引き締まった唇はどれも魅力的な筈だが、如何せん、無感動な表情の上にあっては、生気を失っているも同然だった。

 隣に座った彩那に対しては、無視を決め込んでいた。

「あの、お話は聞いてますよね?」

 どこか不安を覚えて、彩那の方から確認せざるを得なかった。

 さすがにその質問には、

「ええ」

 とだけ答えた。

 もしや警護に現れたのが同世代の女子だったので、一抹の不安を感じているのだろうか。

 そう考えて、

「どうか安心してください。こう見えても私、頼りになるんですよ」

 と作り笑顔で言った。

 しかし里沙は表情一つ変えなかった。

 最初の数ⅡBの授業が無事終わった。

 担当は事情を知っている槇坂だったので、彩那を当てることはしなかった。しかし数Ⅰでさえ苦労している者にとって、彼の説明は子守歌でしかなかった。

 休み時間になった。

 すると教室の片隅から、

「突然、この学院にやって来て、修学旅行に参加するなんていい度胸よね」

「ちょっと、ずうずうしいんじゃない?」

「まあ、大きな顔はできないとは思うけど」

 そんな会話が聞こえてきた。

 どうやらそれは転校生を挑発するのが目的のようだった。

 彩那はさっと立ち上がると、声のする方に吸い寄せられていった。

「待ちなさい。喧嘩はいけません」

 とフィオナの声。

 眼鏡のレンズには、認識された3つの顔とその名前が出ている。

蛯原えびはらさん、宮永さん、ええっと森田さん、貴重なご意見ありがとうございます」

 いきなり転校生に名前を呼ばれて、3人は目を丸くしている。

 しかし最後の一人が、

「残念、森田じゃなくて、則田のりただけどね」

 と訂正した。

「彩那、ローマ字ぐらいちゃんと読みなさい」

 それに応えるように、軽く咳払いをすると、

「私もみなさんと同じわがままな性格だから、これからも好き勝手させてもらいます。どうかよろしく」

 と宣言した。

 女子3人衆は揃って眉をひそめた。

「彩那、挑発に乗らない」

 席に戻ったところで、フィオナのため息が漏れた。


 数ⅡBに続いて、コミュニケーション英語Ⅱに入った。

 担任はともかく、他の教師は事情を知らないため、編入してきたばかりの生徒の実力を試そうとするのは想像に難くなかった。

「それでは、転校生の倉沢彩那さん。この英文を訳してもらえますか?」

 案の定、英語教師の攻撃がきた。

 黒板には流れるような筆記体の文字が書かれている。

 転校生がこの問題にどう答えるのか、クラスの誰もが興味深く見守っていた。

(こんなの分かる訳ないじゃない)

 彩那は意味のない時間稼ぎで、ゆっくりと立ち上がった。

 強い視線を感じて振り向くと、さっきの3人組がにやにやした顔つきで傍観していた。

 そこへ天の声。

「彩那、黒板の方をしっかり見なさい」

 とりあえず言われた通りにした。

「私の言った通りに、真似しなさい」

「え?」

「それでは、行きますよ」

 フィオナは文節で区切って、ゆっくりと言葉を発していく。それを彩那が追い掛けた。

「有史以来、我々人類は人生をより豊かにするため様々な発明をしてきた。しかし人が必要としている物はその生活環境によって大きく異なるため、発明品は必ずしも普遍的なものとはならない。むしろその多様性こそが、人類の持つ創造性、柔軟性の高さを示す証拠となっているくらいである」

 まるで意味の分からない言葉を、ひたすらお経のように唱えた。

 教室は水を打ったように静まり返っていた。

「エクセレント!」

 教師が手を叩いた。

「倉沢さん、でしたっけ? あなたの英語力はかなりのものですね」

 それにつられて教室は拍手に包まれた。彩那にとって、それは嬉しいというより、むしろ居心地が悪かった。

「ねえねえ、倉沢さんってひょっとして帰国子女?」

 英語の時間が終わった途端、周りに人が集まってきた。興味津々といった顔を並べている。

「いえ、そういう訳じゃないけど。私、英語だけは得意だから」

「こらこら」

「クラスで一番できるんじゃない?」

「今度、テスト前に教えてね」

 黄色い声援があちこちで上がった。


 午前の授業が終わって、昼食の時間を迎えた。

 チャイムと同時に、生徒たちは一斉に廊下へ出ていく。

「南美丘さんは、ご飯どうするの?」

 彩那が訊くと、

「いつもカフェテリアで取ってる」

 と答えてくれた。

「それじゃ、私も連れていってよ」

 二人は同時に席を立った。

 朝、担任の槇坂が言っていたように、里沙には友達がいないようだった。休み時間になっても見事に誰も話し掛けてこない。確かに近づく人物が少ないほど警護は楽であるが、彼女の立場を考えると、それは何だか寂しい気もする。

 カフェテリアは体育館ほどもある巨大な施設だった。教師や生徒が入り交じって注文の列を作っていた。どうやら学園共用の施設らしく、普通科の男子生徒の姿もあった。

「ここで龍哉と会えるかしら?」

 彩那はつぶやいた。

「龍哉なら、もうそこにはいません」

「え?」

「校長から修学旅行の資料を受け取って、菅原刑事と合流しました。今警視庁に向かっているところです」

「そうだったの」

 少し残念に思った。これまでの学校情報を互いに交換しようと思っていたのである。

 生徒は皆、専用のIDカードを持っており、食事代は銀行口座から引き落とされるという。彩那はカードを持っていないゲストとして、現金で支払わなければならなかった。

 そこで財布を開いてみて驚いた。

 昼食代に充てようとしていた千円札が見当たらないのだ。そういえば、昨日数学の課題を手伝ってくれた奏絵に、気前よくあんみつを奢ったのだった。すっかり忘れていた。

「フィオ、今日って家まで送ってもらえないの?」

「菅原は南美丘邸の張り込みがありますから、無理です」

 そして頼みの綱、龍哉もいないときている。

 帰りの交通費を計算して、財布の中身と相談してみた。その結果、今自由に使えるのは百円玉2枚だけだった。

 これはどうしたものか。

「彩那、さっきから財布を開けたり閉めたり、何をやっているのですか?」

 フィオナの怪訝な声。

「あのですね、今、持ち合わせが200円しかないのよ」

「普通、高校生ならもう少し持っているものでしょ? 日頃どうやって暮らしているんですか」

 里沙が先に会計を済ませた。注文したのは、特別定食880円だった。デザートとコーヒーまでついている。

「お金持ってないの?」

 里沙が遠慮なしに訊いてきた。

「ええ、まあ」

「私のカードを使う?」

 彼女は意外と優しかった。

「えっ、いいの?」

「ダメです」

 直ぐさまフィオナが割り込んできた。

「警察が民間人にお金を借りない」

 彩那は涙目で、

「里沙さん、ありがとう。お気持ちだけ受け取っておきます」

「あ、そう」

 彼女は先にキャッシャーを通過した。

「すみません、一番安いのはどれですか?」

 彩那は配膳係に訊いた。

「素うどんです。180円になります」

「それ、一つください」

 後ろからどっと笑いが起きた。見ると、例の3人組だった。

 彩那は、なけなしの現金を支払った。

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