第2話 彩那、お嬢様になる
翌朝はいつもより早く起きることになった。
おとり捜査班として出動する際は、様々な装備品を身につける必要がある。その準備に時間が掛かるためであった。
彩那はパジャマを脱ぐと、特製のブラジャーにつけ替えた。これは内側にGPS受信機が縫い付けてあり、それにより指令室は彼女の現在地を把握している。
実はこれは彩那のお気に入りの装備品でもある。なぜなら身につけた途端、胸元が豊かに変化を遂げるからだ。できることなら、出動のない日もつけていたい下着である。
その上から、
それから捜査班専用のスマートフォンをポケットに入れた。
出動中は常に回線が開かれており、メンバー全員が通話を共有している。会話は全て録音されていて、後日捜査や裁判等の資料となる。迂闊な事は言えないので注意が必要である。
最後に特殊眼鏡を掛けた。こちらは左右の小型カメラから常に映像を送信している。それによって指令室は彩那の視界を共有しているのである。
櫻谷女学院はバスと地下鉄を乗り継いで、自宅から1時間の距離にある。そのため、いつもよりも早く家を出た。
いつもの通学路を歩いていると、行き交う人誰もが強い視線を投げ掛けてきた。それだけ名門校の制服は珍しいということだろう。
途中、通学路とは違う方向に道を折れると、
「おーい、龍哉」
と遠くから声がした。
これまた、一番見つかってはならない人物の登場である。
「いいわね、聞こえない振りをするのよ」
彩那は相方の手を引っ張って先を急いだ。
「おーい、どこ行くんだよ」
通学路からはもう百メートル以上遠ざかっているにも関わらず、小柴内は必死に追い掛けてくる。
「おい、龍哉、聞こえないのか?」
すぐ後ろで息を切らしながら言った。
「なんだ、お前か」
二人はようやく足を止めた。
「あれ?」
早速、異変に気づいたようである。この後、面倒が起きることは明らかだった。
「誰かと思ったら、彩那じゃねえか」
仕方なく振り返った。
「何でお前が櫻谷の制服着てるんだよ?」
まるで都民を代表して怒っているようだった。
「あら、どなたかしら? 私、彩那ではありませんことよ」
「一体どうしたんだ? この暑さで、ついにおかしくなったか」
「うるさいわね」
「おお、元に戻った」
小柴内は身体をのけ反らせた。
「お前、勝手に櫻谷の制服なんか着ていいのかよ?」
「いいじゃない、別に」
彩那も強気の姿勢を崩さなかった。警察の仕事には守秘義務がある。事細かく他人に話す訳にはいかないのだ。
「こいつはコスプレが趣味だから、たまにこういう日があるんだよ」
龍哉が落ち着き払って説明した。
「しかし、よりによって櫻谷はねえだろ」
「いいじゃない、好きでやっているんだから」
彩那も半ばやけになって言った。
「まあ、人の趣味には口出ししないけどな」
そう言って、小型のデジタルカメラを取り出すと、瞬時にシャッターを切った。
「ちょっと止めてよ」
「まあ、いいじゃないか。これも校内新聞に使えそうなネタだからな」
小柴内は新聞部員だった。これは厄介なことになりそうである。
「それでお前たち、どこ行くつもり?」
「コスプレのコンテスト会場に決まっているだろ。今日は学校を休むから、みんなにそう伝えておいてくれ」
「お、おう。分かった」
小柴内の不思議そうな顔を尻目に、二人は歩き出した。
彩那にとって、バス通学は初めての体験だった。
バス停で待っている乗客の多さには驚いた。バスが到着しても、乗客全てを乗せきれず、そのまま出発していった。どうなることかとはらはらしたが、すぐに次のバスが来て事なきを得た。
二人は並んで最後部に立った。車体が揺れるたび、龍哉と何度も身体が接触する。彩那は妙に意識してしまった。
指令長フィオナ・アシュフォードから着信があった。
ワイヤレスイヤホンを装着して応答する。
「おはようございます」
フィオナの声。
すぐ隣に中年のサラリーマンがいたので、声を出すのははばかられた。
「何も応えずに、そのまま聞いていてください」
フィオナには状況が理解できているようだった。これも特殊眼鏡のおかげである。
「彩那の今回の任務は、櫻谷女学院2年生、
「身辺警護?」
思わず聞き返した。龍哉に腕をつねられた。
「彼女は、東証一部上場、『ナミン製菓』会長の一人娘です」
「ナミンってあのお菓子の?」
小さな声で訊いた。
「そうです」
昔から馴染みのある菓子メーカーである。テレビのCMを見ない日はない。この国を代表する製菓会社の一つである。彩那も、多くの子どもがそうであるように、ナミンのお菓子で育ったと言っても過言ではない。
子どもに夢を与える会社の娘とは、一体どんな人物であろうか、興味が湧いた。
「話はひと月前に遡ります。娘を一ヶ月以内に誘拐するという予告文が、会長宛に送られてきました」
「誘拐?」
自然と声が出た。慌てて口を塞いだ。
「そうです。これはかなり珍しいケースです。普通、誘拐というのは子どもを連れ去り、その後身代金を要求すると相場が決まっていますが、今回はまるで違います。先に誘拐予告してきたのです」
「フィオナさん、犯人はどんな要求をしてきたのですか?」
新しい声が飛び込んできた。筑間奏絵である。彼女も聞いていたのだ。
「1億円を身代金として用意しておけ、というものです」
誰もが黙りこくった。
確かに妙な誘拐犯である。いや、まだ誘拐は実行されていないのだから、犯人とは言えないが、予めそんな予告をすれば、相手に警戒されるのが落ちではないか。彩那は首をかしげた。
「誘拐予告があってから、今日で二十五日目です。これまでのところ、南美丘里沙が危険な目に遭ったとは聞いていません」
「それじゃあ、ただのいたずらじゃないの?」
思わず彩那は声を出した。
「そうかもしれません。ただ気になるのは、最後の3日間が修学旅行に当たっていることです。これまで犯人は、学院と自宅を往復する彼女に手を出せなかっただけで、旅行先となれば話は変わってきます。誘拐される可能性は高くなると思われます」
「なるほど」
「これまでの警備状況は?」
龍哉が小声で訊いた。
「予告を受けてから、所轄は一週間ほど家の周辺を警備しました。しかし実際に事件が発生した訳ではないので、特に踏み込んだ捜査はしていません」
確かに脅迫状だけでは、警察も積極的に動くことはしないだろう。ひょっとすると、犯人の狙いはその辺にあるのかもしれない。
「その後、犯人からの連絡は?」
奏絵が訊いた。
「その予告を最後に連絡はありません。ですから会長もいたずらと考えているようです。しかし修学旅行中は警護が難しいため、おとり捜査班の出動が要請されました」
兄妹はそこでバスを降りた。次は地下鉄へ乗り換えることになる。朝のラッシュも初めての経験だった。大勢の通勤通学客に押し流されるように先へ進んだ。
「フィオ、今回の仕事って楽じゃない? 予め狙われている人物が分かっているのだから、ぴったりマークさえしていれば、簡単に誘拐なんてできない筈よ」
彩那は気楽な調子で言った。
「そうだといいのですが。相手の出方が分からない以上、油断は禁物です」
フィオナは慎重だった。
「次の駅で降りてください」
二人はホームに降り、エスカレーターで地上に出た。
「そこから右に向かって、七十メートル先に櫻谷女学院があります」
確かに彩那と同じ制服がちらほらと見え始めた。自然と身が引き締まる。
学院の立派な正門が見えてきた。その脇の道路は渋滞している。
黒塗りの大型外車が門の付近に次々と停車するからである。決まって運転手が降りてきて、後部座席のドアを開ける。そして中から櫻谷の制服が颯爽と降り立つ、そんな光景が何度も繰り返されていた。
「さすが、名門校。高級外車で乗りつけるとは」
龍哉は驚きの声を上げた。
「ねえ、フィオ。その南美丘里沙さんも車で送り迎え?」
「はい、そちらには菅原刑事をつけてあります」
それなら、登下校時は安全である。
正門付近は多くの学生で賑わっていたが、彩那の存在に気を掛ける者はいなかった。何事もなかったように、みんな中へと吸い込まれていく。
「では、彩那。いよいよ潜入開始です。くれぐれも無茶はしないこと」
「分かってるわよ。任せておいて」
「彩那、応援してるよ」
奏絵の声が背中を押した。
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