警視庁高校生おとり捜査班2 倉沢彩那、修学旅行潜入篇
ぽて
第1話 罠に落ちた仔羊
すべては何気ない朝に始まった。
高校生の倉沢
いつもの制服に着替えると、キッチンに向かった。
珍しく父、
「おはよう」
目を擦りながら、椅子に掛けた。
「アヤちゃん、おはよう」
すぐに母、
剛司は新聞を半分に畳むと、
「お前、旅行に行きたくないか?」
突然、優しい言葉を掛けてきた。
それは、まさか家族旅行ということか。
梨穂子も警視庁の通信指令室に配属されているので、週に何度かは夜勤がある。そのため連続して休暇を取ることなどできやしない。すなわち倉沢家は両親の仕事がある限り、家族揃っての旅行は夢のまた夢なのであった。
「そりゃあ、行きたいわよ」
父親の目が鋭く光った。彩那はそれを見逃さなかった。
しまった、これには何か裏がある。ひょっとして迂闊なことを言ってしまったか。瞬時に頭を回転させた。
そうか、読めた。
これは馬の鼻先にニンジンをぶら下げる作戦ではないか。すなわち家族旅行をエサにして、試験前は猛勉強させるつもりに違いない。彩那は自然と身構えた。
「よし、分かった。その願いを叶えてやる」
父親はあっさりと言った。予想とは裏腹に何も条件を提示してこなかった。むしろ満足そうな表情を浮かべている。
やはり、この時気づくべきだった。彼が仕事を犠牲にしてまで、家族の幸せを求める筈がない。これまで幾度となく騙されて、身に染みて分かっていることだったのに。
「では、北海道に連れていってやる」
妙に具体的な地名が出てきた。正直、未知なる大地に胸が躍った。
「うん、絶対行く!」
「ようし、決まりだな」
剛司は満足気に一人頷いた。
「ただし、修学旅行としてな」
「はあ?」
彩那は口をポカンと開けた。
「それって、まさか……」
「そうだ、お前の次の仕事だ」
「ええっ?」
爽やかな朝に油断をしていたらこのザマである。見事に罠に嵌められた。しかし今となっては後の祭りである。頑固な父親が、一度決めたことを取り消す筈がない。
迂闊な一言で、父親の仕事を手伝う羽目になってしまった。娘にとって、それは最悪な朝となった。
彩那には異母兄妹の
実の母親はすでに亡くなっているが、昨年、父親は梨穂子と再婚した。龍哉というのは彼女の連れ子である。
二人は同じ年齢で、同じ高校に通っている。以前はどこかよそよそしかったが、兄妹揃って父親の仕事を手伝うようになると変化が生じた。今では互いに心を開く仲になった。
そんな二人が関わっているのは、「高校生おとり捜査班」である。
これは警視庁の実験的なプロジェクトで、家族を一つの捜査班と見立て、警察組織では行き届かない細かな事件を解決することを目的としている。すなわち、家族のメンバーそれぞれの立場や能力を最大限に活かすことで、捜査をより効率よく進められるかどうかの実証実験をしている訳である。
この捜査班はまだ正式に認められた部署ではない。今後おとり捜査が合法的な手段になるための準備段階として、今はまだデータの蓄積をしているところである。しかしながら、倉沢家は他の家族に先がけて、すでに事件解決の実績を作っていた。
兄妹は今、一緒に家を出て学校に向かっていた。
「ねえ、お父さんって酷いと思わない? 娘を罠に嵌めるなんて」
どうにも怒りは収まらない。その矛先はついつい龍哉に向いてしまう。
「お前が考えることなく答えるからだろ。自業自得ってやつだ」
こんな時、彼はいつも冷静である。
「何よ。私はね、家族みんなで旅行に行けたらいいなって素直に思っただけよ」
「その旅行とやらに、どうせ俺も一緒について行くことになるんだから、それでいいだろ?」
確かに龍哉が傍にいてくれたら心強い。
「でも、修学旅行って一体どういうことかしら? 私たちまだ1年生なんだけど」
それについては、龍哉も腕を組んで考えた。
「確かに変だな。それに、うちの学校の修学旅行は九州だった筈だが」
二人は黙りこんでしまった。
放課後、誰もいなくなった教室で、彩那は数学の課題に取り組んでいた。
前回のテスト結果が振るわなかった者に課題が与えられていた。今日がその提出日である。おとり捜査班の仕事にかまけていて、すっかり忘れていた。
突然、背中を無遠慮に叩く者がいた。慌てて振り返ると、そこには友人、
「あー、びっくりした」
彩那は心底ほっとした。こんな姿を龍哉に見つかったらどうしようと思ったのである。この件が父親の耳に届けば、また叱られる材料を与えることになってしまう。
「部活、一緒に行こうと思って」
二人は演劇部に籍を置いている。
「今、それどころじゃないのよ」
「何、それ?」
奏絵は手元を覗き込んだ。長い髪が美しくこぼれて、眼鏡の奥の大きな瞳が揺れている。好奇心を抑えきれないといった様子であった。
「数学が得意な人には、縁もゆかりもない物ですよ」
それだけ言うと、また机にかじりついた。
奏絵はそれには応えず、
「ねえ、3番以降全部違ってるよ」
と指摘した。
その驚愕の事実に、
「もう、全部教えて頂戴」
彩那は素直に頼み込んだ。
美少女の白く細い指が次々と間違いを指摘していく。それに従って、何とか課題を完成させることができた。
「奏絵のおかげよ、恩に着るわ」
彩那は立ち上がった。
どうやら提出期限には間に合ったようである。タイムリミットは午後4時。まだ数分の余裕がある。ペットボトルのお茶を口にして一息ついた。
「ねえねえ、明日から一週間ほど学校来ないんだってね」
「えっ?」
それは初めて耳にする情報であった。
「それ、どういうこと?」
「昨日フィオナさんに頼まれたのよ。彩那が一週間学校を休むから、授業のノートをコピーしてやってくれって」
フィオナというのは、本名フィオナ・アシュフォード、「おとり捜査班」の指令長である。ロンドン警視庁で長年務めた実績を買われ、今は日本で仕事を任されている。日本語が堪能なイギリス人で、彼女の指示に従って捜査班は動いている。
一方、筑間奏絵は倉沢家の人間ではないが、その推理力を認められ、捜査班の一員となっている。実は彩那がフィオナに頼み込んで、メンバーに加えてもらったという経緯がある。
「ちょっと待ってよ。当事者がまだ何も話を聞かされてないんだけど」
彩那は大いに不満を漏らした。
「何でも、都内でも有数の進学校、
思わずお茶を吹いた。
「櫻谷って、あのお嬢様学校の?」
「そう、かなり偏差値が高い学校ね。しかも学生の中には、政治家の娘、大手企業の社長令嬢、芸能人も多数いるって話よ」
「あのねえ、何で私がそんな所へ潜り込まなきゃならないのよ。まるで猛獣の中に仔羊一匹放り込むようなものじゃない」
「それ、たとえが真逆だと思うけど」
奏絵は冷静に言った。
「確か、修学旅行とか言ってたわ。あの親父、今度は何を企んでいるのかしら?」
「事件の内容について、全然知らされてないの?」
「まあ、それはいつものことだけど。しかし奏絵の方が詳しいってどういうことよ」
「でも、彩那が羨ましいわ。櫻谷の制服ってとても可愛いのよ。それが着られるなんてラッキーじゃない?」
友人は目を輝かせた。
「あのねえ、そういうのは奏絵みたいな子が着たらの話であって、私じゃ代わり映えしないわ」
「あら、そんなことないわよ。彩那は背はすらりと高いし、痩せてるし、あの制服にぴったりだと思うな。ショートヘアがよく似合う、みんなから頼られる女子って感じ」
「本当?」
彩那は声を弾ませた。
「黙っていれば、内に秘めた凶暴性は誰にも分からないんだから」
「だから、そうやって、高く持ち上げてから突き落とすのは止めてくれない?」
二人が掛け合っていると、チャイムが鳴り出した。その音色は誰もいない教室に一段と大きく響き渡った。
「あっ、こんなことしてる場合じゃないわ。これ、先生に提出してこなきゃ」
彩那は友人を放り出して、廊下を駆けていった。
家に帰ると、梨穂子が待ち構えていた。
「アヤちゃん、ほら見て」
そう言って差し出したのは、小豆色のブレザーだった。アイドルが舞台で着る衣装のようにも見える。
「どう、可愛いでしょ。これって海外の有名デザイナーが手掛けたものなんだって」
「ふうん」
「ねえねえ、早く着てみて」
母親はまるで子どものようにはしゃいでいる。
ブレザーに腕を通して、同色のスカートを穿くと、
「アヤちゃん、凄く似合ってる。どこかのお嬢様みたい」
ちょっと大袈裟かもしれないが、悪い気はしなかった。鏡台の前に立ってみると、まるで別人がこちらを見ていた。
「寸法もぴったり。注文した通りだわ」
次第に気分が高まってきて、梨穂子の前で身体を回転させた。スカートの裾が駒のように回った。
「ただいま」
龍哉が帰ってきた。見慣れぬ妹の制服姿に、一瞬目を見張ってから、
「何やってんだ、お前?」
と言った。
「もう、変なタイミングで帰ってこないでよ。せっかく今、お母さんと一緒に夢の世界に旅立っていたんだから」
「ふん、馬鹿馬鹿しい」
兄は軽蔑の眼差しを向けると、女二人の間を割って居間に消えていった。
「アヤちゃん、この制服はレンタルだからね。暴れまくって汚したり破ったりしないように、くれぐれも注意してね」
梨穂子は真顔で言った。
「お母さん、私を何だと思ってるの?」
「さあ、もう脱いで頂戴。明日からこれを着ていくことになるのだから」
服が奪い取られると、彩那は現実世界に引き戻された。
「龍哉も出動するのよね?」
「ええ、あの子は櫻谷高校の普通科、男女共学の方」
「同じ敷地内にあるの?」
「そうよ」
「詳しくは明日、フィオナさんから聞くことになると思うけど、今回の任務はある会社の会長令嬢の護衛なの。3日後に修学旅行があるから、しっかり傍について守ってあげてね」
「ふうん」
彩那は鼻を鳴らした。
「大丈夫、アヤちゃんならきっとうまくやれるわ」
母親は自信を持って言った。
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