第3話

 部屋で過ごしているとお兄ちゃんがノックをして扉を開けた。


「あれ? どうかした? というか何でいるの? 珍しいね。あんたの方から来るなんて」


 お兄ちゃんは少し口ごもりながら理由を答えた。


「あー……そっか、さっきのお母さんとの話聞いてたのか。……全部?」


 お兄ちゃんが頷く。


「あちゃー全部か。まさかあんたが帰ってきてるなんて思わなかったなー。学校からの連絡、ちゃんと伝えてなかったね? ダメだよ、そういうの。机にくしゃくしゃに突っ込む小学生じゃないんだからーって……そういう話じゃ、ないか……」


 一瞬冗談にできるかなと試みたが、すぐに無理だと悟った。

 どうやらついにこの時が来てしまったらしい。


「……お母さんも酷いよね。今さら、したくなければ飛び級はしなくたっていい……なんて」


 さっきお母さんから持ちかけられた話。それはいい。

 でもその結果にいたるまでの話は……少ししんどい。


「いや、優しいのは分かってるけどね。私のことを、甘やかしてくれないんだ。

 聞こえてた? お母さんに言えなくても、お兄ちゃんには相談した方がいいと思うって。あなたが決めたなら、それを応援するって」


 お兄ちゃんにだけは話したくないことも全部分かってて、お母さんはそう言った。

 お兄ちゃんには生意気で頭のいい……かわいい妹って、そう思ってもらいたかったけど。


「……多分、そもそも飛び級して大学行くつもりだって話も、してなかったよね。

 ごめん、どうやって説明していいか分からなかったんだ。

 うん、前から言ってた薬学研究者になりたいっていうのも紛れもない本当の気持ちではあるよ。

 でもそれだけでもないんだ」


 もっとも言いたくないことだけは避ける方法を考えながら話し始める。


「実は私、ちょっといじめみたいなの受けてさ。学校も行ってるけど、みんなと同じ教室には行ってないんだ。

 なんかリーダー格みたいな女の子に嫌われちゃって。別にその子のグループってこともないんだけど、私のこと気に入らないみたい。

 でもさ、そんなの知らないじゃん。というか、あっちがおかしいんだから、あっちが病院行くなり、転校するなりすればいいじゃん。

 ……でも出来ないんだ。なんでなのって調べてたら色々分かって、これからのことも何となく想像がついて、学校はもう諦めちゃった。

 それでお母さんとお父さんと相談して、今の状態。今の将来」


 私がそこでお兄ちゃんに目をやると、それに合わせて柔らかく頷いた。

 私は笑おうとして……笑えなかった。


「もうそれで決めてたのにね。あんたには東京の立派な大学行ってもらって『知らないうちにへえあいつ飛び級して海外かさすが天才の妹作戦』」


 お兄ちゃんは何も言わない。


「……それだけだよ。でも、もしも、私がどうしても残りたい理由があるなら、また考えようってお母さんが言ってくれた。そういう話。でも私は別にいいの。それで終わりの話」


 私が黙り、もう話すつもりがないと分かるとお兄ちゃんはようやく口を開いた。

 ごめん、知ってたんだと。


「あ……知ってたんだ」


 私があまり驚かないことにお兄ちゃんは驚いた。


「うん、まあ驚きは一応したけど。でも寧ろ気付かないものか? って気持ちもなくはなかったから、やっぱり知ってたんだなって感じ。

 それで……じゃあ、どういうつもり? あんたは何をしに来たの?」


 内心、怖々と尋ねた。

 まさか今の話を私の口から直接聞きたかったとは言わないだろう。

 言いたいことがあって来たのだ。

 私は決意を崩されてしまうのではないかと恐れていた。

 お兄ちゃんが口を開く。


「そう、私の夢を応援したいって伝えにきたんだ。私のことは分かってるつもり? いじめとかがあったにせよ、結局自分の夢のために私は選んで進んでいるはず?」


 思ったよりも普通の言葉に私は腹が立ってしまった。

 ……それでいいはずなのに。

 これ以上踏み込まないで欲しいという気持ちと、私の気持ちを知って欲しいという真逆の気持ちがない交ぜになっている。ちぐはぐな調子で声を漏らす。


「うん……そうだよ。それは間違ってない」


 それだけ答えて下唇を強く噛んだ。

 もう何も言うまい。そう思ったが、次にお兄ちゃんの言った言葉に私はたまらなくなってしまった。


「私が立派? だから支えたい? 何も分かってない。何も分かってないの……」


 信じられないような心の重さに耐えかねて、思わず気持ちをこぼした。

 こんなことははじめてだった。

 相手のどんな勝手なイメージだろうと、自分の才能が理由ならば、自分は向き合わねばならないと思っていたからだ。それを別につらいと思ったことなどない。


 そこまで考えて現状の説明を思いつく。

 そうか。この人が向けてくれる思いは、私が天才だからそうしているわけではないのだ。

 なるほど。道理で、どう向き合ったらいいのか分からないわけだ。

 

 多分はじめて、人が自分に見る理想を否定しなければならないと思った。


「私の夢っていうけどさ、どういう夢か分かってて応援してる?

 薬学研究者……そうだね。じゃあ、それでどんな薬を作りたいか知ってる?

 世界中の病気を治す。うん……いつもそう言ってるね。

 でもそれが表向きな話で、本当はもっと変な研究したいって思ってても応援してくれるのかな」


 自嘲して……そう、最大限に愚かで気持ちが悪いと見下しながら口にする。

 

「例えば……近親交配のデメリットを解消する薬、とかさ」


 ぽかんと口を開け自分の耳を疑っているお兄ちゃんを見て、ようやく正気に返った。

 自分の言ったことを理解して冷や汗が流れる。

 沈黙に震えて、頬はひきつり、口が勝手に話し出す。


「……なんてね。まあ夢の話は置いといても、私が選んでるっていうのも……まったくナンセンスだよね。

 だって私は天才だから。そして周囲が天才だと認めてしまう。

 私は自分の才能がもたらすものとちゃんと向き合わなければならないんだ。

 確かにうしろ向きな選択はしていないよ。

 でもそれを私の意思だと解釈するのは詐欺や占いのやり方だよ。

 世界の解像度が低い。言語化能力が足りてなくて、違いを認識できてない」


 あれ? おかしい。私、お兄ちゃんを責めてる?

 なんでだろう。

 私が変なことを言って、それを誤魔化すためだったのに。


「……ごめん。なんでもない。

 私、やっぱりこの話はうまくできそうにない。

 もう言いたいことがないなら、これで終わりにして欲しい」


 話を打ち切り、うなだれて、力なくかぶりを振った。

 もう終わりでいいと思った。終わるしかなかった。


 でも、お兄ちゃんはそう思っていなかったようだ。

 私の名前を呼んで、自信にあふれた口調でさっきと似たことを言う。

 心が拒絶するように叫んだ。


「……だから! 夢を応援したいなんて言われたって!」


 お兄ちゃんは私が少し冷静になるような間を取ってから、違うと首を振った。


「……え? 外国でもどこでもついていって応援してやる……?」


 予想していなかった言葉に震えた声が出た。


「なに言ってるの……どういうことか分かってる? 自分の人生をちゃんと大事にしなきゃだめだよ」


 夢見たことは何度もあった。だが障害はいくらでもあって、何度も無理なのだと思い知らされた。

 そういうことも、ちゃんと考えた?

 呆れているのか、怒っているのか自分でも分からない。

 お兄ちゃんはそんな私を前にして、どこにそんな自信があるのか分からないが、臆さず言う。


「私の下僕だからって……ばか。

 言ったでしょ。私が下僕に望むのは、将来就職のときとか有利になるような良い大学に入ってくれることだって。

 ……海外の名門大学でもいいんだろって、本気?

 まあ確かに語学は優秀だけど……え? こんな日のために英語だけは絶対に手を抜かなかったって……」 


 言われてみれば確かに英語の点数だけはいつも良かった。他の教科だって悪くはなかったが、英語だけ抜群にいい。相性がいいのだと思っていた。それが特別な努力の結果だとは思わなかった。


 つまるところ、納得した。


 嬉しいと思った。

 この人は私と一緒にいるために、見えないところで努力をしてくれていたのだ。

 英語の勉強はそのひとつ。


 そして残念だ。

 なら私は、せめてその気持ちに答えるために本当のことを話さなくてはなるまい。


「はあー……もう本当に私の気持ちなんにも分かってないんだ。

 一度しか言わないからちゃんと聞いて。


 私、お兄ちゃんにそこまで迷惑かけられない。

 確かにお母さんは、家族なんだからどれだけ迷惑をかけたっていいって言ってたよ。

 お母さんとお父さんはきっとそう。

 でも、お兄ちゃんには私、迷惑かけたくないの。

 同じ家族だけど、お兄ちゃんは特別で、だから幸せに……なって欲しい」


 最後、消え入りそうになりながらも言い切った。

 言い切った後に少し思った。近親交配のくだりで普通にばれているかもしれない。


 悲しいけど伝わったかな。

 お兄ちゃんを見ると、想像と違っていつも通り肌色の頬で話を聞いていた。

 なんなら私の話は終わったつもりなのだが、まだ続きがあるようにして待っている。


「あれ? えーっと……あの……今のは告白なんだ。……一応」


 仕方ないので、端的に説明をする。言って、頬が熱くなる。

 もうこうなったら仕方ないと、私は全部説明することにした。


「あー……それでね。でも、お兄ちゃんはお兄ちゃんだから。結婚できないから。

 だから私、お兄ちゃんと離れなきゃいけないんだ。離れたい。だから……ごめんなさい」


 悲しい。とても悲しい話だ。お兄ちゃんとずっとはいられないと今、明らかにしてしまった。

 だがどこか変にぬるい気持ちがある。

 きっとお兄ちゃんのせいだろう。


 だって、今の私の言葉を聞いても、悲しそうな顔をしていない。

 お兄ちゃんが少し茶目っ気のある感じで答えた。


「能力のある人間は、能力故に得るものとちゃんと向き合うべき……うん、私がよく言う言葉だね」


 そして続けた言葉に、私は思わず笑ってしまった。

 堂々と言うから格好いい言葉かと思ったら、卑屈なセリフ。


「……なにそれ。天才の妹の下僕という才能と向き合った結果だって……本当にばかだね、お兄ちゃん。そうなんだ。自分の才能と向き合った結論なら……悪くないのかもね」


 本当に才能があるんじゃないの? と言おうと思って、思い止まった。

 才能ではなく、運命か努力であって欲しいと思ったのだ。

 だから、別のことを言うことにした。


「私、どうしたいか決めたよ。ありがとう、お兄ちゃん」


 今まで悩んでたのが嘘みたいに、すっと心が決まっていた。

 きっとお兄ちゃんのせいだろう。


 せめてものお礼として感謝を込めて、良かったと部屋から去ろうとする背中に声をかけてやった。


「ねえ、お兄ちゃん? 近親交配の薬、すぐに出来るものではないかもしれないけど……実験データはいつか必要になるのかもね…………なんて、冗談に決まってるでしょ。変態」

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