第3話 サン=フォルティス市警にて
「ジャックはまだ捕まらんのか!」
署長のエイプリルの怒鳴り声に捜査本部の窓ガラスはびりびりと震えた。
「サン=フォルティス市警の威信にかけて、なんとしても六件目を阻止しろ!」
「はっ!」
どすどすと足音を鳴らして去っていく署長を見送った署員たちははーっと疲れた溜息をついた。
「俺、今日結婚記念日なんすけど……」「諦めろ」「あーもー、まーた苦情の投書が! 警察は全知全能の神じゃねぇっつうの!」とあちこちで愚痴が上がる。
「お疲れ、ジョン。いるか?」
隣のデスクのルッツが疲れた顔をしてベーカリーの袋をよこした。署の近くにあり、ルッツがよく行く店だ。
「ありがとうございます。いただきます」
夜半の事件、現場検証、朝になってからロゼット家へ……と動き続けていたジョンはありがたく受け取る。タラモサラダが入ったバケットはジョンの好物だ。塩気のあるサラダと小麦のしっかりとしたバケットがよく合う。
「
「泣くわ喚くわ吐くわで大変だったよ。シャワーを浴びていた時に
「あいつは俺に、『犯人は窓から逃げた』と言いましたよ」
「事件当時、窓は開いていて、血痕が窓の方に伸びていたからそう思ったらしい」
じゃあ怪物の姿は見ていないのか。
「その前後の事も、酒が入っていてあまり良く覚えていないそうだ。昨夜は気が大きくなって被害女性の住むアパートに押し掛けたが、彼女の家に行くのも昨夜がはじめてだったそうだ。『昨夜のジョンは確かにかなり酔っていた』と仲間たちからの証言もとれている」
見回り中のジョンが声を掛けた時も、マチアスが珍しく積極的にミランダに迫っていると囃し立てられていた。
怪物が取り憑くと人格も変わったりするのだろうか?
あのどろどろの生き物に寄生されることを想像する。……気分が悪くなりそうだ。
「で、お前の方は? 気になることがあるからと言って出ていったが、何か収穫はあったのか?」
「え、ああ、いえ……」
ロゼット家に行くことを黙っていたジョンはバケットを飲み込むふりをして言葉を濁した。
「犯人の足取りを見失った辺りをもう一度確認しておきたかったのですが、有力な手掛かりはありませんでした」
「ふうん、そうか」
ルッツはジョンが何かを隠しているらしいことは見抜いていたようだが肩を竦めて笑った。裏がきちんととれるまで公言しない方が良い情報を掴んだようだとでも勘違いしたらしい。
「まあいい。その年であっという間に警部補に上り詰めた若手イチのエリート様の考えることだ。俺はお前の頭脳に期待してるんだぜ?」
「エリートと呼ばれるほどではありません」
「謙遜するなよ。俺が八年かけて昇進した警部補の座にお前はたったの五年かそこらで昇って来やがった。この事件を解決すればまた昇進だ。最年少警部だって夢じゃない」
ルッツは明るい声音でジョンの肩を叩いたが、ジョンは「やめてくださいよ」と苦笑した。ルッツは面倒見の良い先輩だが、こういうところは少し苦手だ。叩かれた肩には、じっとりと仄暗い嫉妬の熱を感じる。
警察官だった父の不審死から十年。
がむしゃらに働いているだけだ。地位や名誉が欲しいわけではない――そんなことを言うと反感を買いそうなので、ジョンは生真面目に「パン、ごちそうさまでした」と礼を言うに留めた。
◇
一人目の被害者は食堂の看板娘。第一発見者は養父。現場は店のゴミ捨て場。
この時点では連続殺人事件だとは確定せず。
血文字のようなものがあったらしいが確証はなし。【怪物】
二人目の被害者は若い女学生。第一発見者は通行人。現場は路地裏。
ダイイングメッセージと思しき血文字あり。
三人目はバーに勤める楽器演奏者。発見者は店長。翌朝出勤したら店で倒れていた。
血文字あり。【怪物】
ここから事件対策本部が立てられ、連続殺人事件として扱われるようになる。
四人目は水商売の女。第一発見者は帰宅しないのを不審に思った恋人。現場は路地裏。
血文字あり。
そして昨日の五件目だ。
(カーティスが言うには一、三、五件目が化け物の仕業なのか……)
それも何か証拠があるわけではない。正直、時間を止められるというイヴがいれば全ての犯行は可能なのではないかとさえも思う。
被害者同士の共通点はなし。
第一発見者同士の共通点もなし。
場所もばらばら。
時間も深夜という点を覗けば法則性もなく――「満月の夜に怪物が暴れだす」と言った怪奇小説でありそうな共通点もなし。
事件の資料を頭の中で広げながら、ジョンは夜の街を歩く。
時刻は二十一時。すれ違いざま肩がぶつかった男に「気をつけろよ兄ちゃん」と睨まれたが、ジョンがすぐに謝ったら鼻で笑って去っていった。おそらくジョンの方が年上なのだが……まあいい。
――今夜のジョンは制服ではなく私服だ。私服警官として街に潜伏している。
いかつい男が何人も街を歩いていたら目立つため、童顔のジョンは真っ先に『私服警備班』に選ばれた。担当となったクレモンド川沿いはカップルが多く、雰囲気の良いレストランやバーも多い。
(こんなところを男一人で歩くのも目立つんだが)
と思いながらも、怪しい人物がいないか周囲に目を配る。
怪物が憑いていそうな人物。あるいは別の殺人犯。あるいは――
「や、スミス刑事」
「カーティス・ロゼット……⁉」
すらりと背が高く、オーダースーツを着こなした男が雑踏の中で颯爽と手を上げた。女連れで、いかにもデートといった雰囲気だが、
「お、お前……」
一緒にいたのは女装したイヴだった。
ブロンドヘアのかつらに、フレアスカート。
真っ赤な瞳は隠しようがないらしいが、華奢な体格のためじゅうぶん女に見える。
「かわいいだろ? アンナに見立ててもらったんだ」
本人は大人しくカーティスの腕に手を添えている。ジョンは吹き出しそうになったのをこらえた。
「……見事な変装だな」
「主のご命令ですから」
少し不服なことは不服らしい。
カーティスは老舗バーを指して微笑んだ。
「ちょっと話せるかい?」
「俺は今、勤務中なんだが」
「事件が起こるのは深夜だろう? アレが現れた気配も今のところ感じない。ともかく顔を貸してくれ。俺が起きていられるうちに」
今日は煙草なしでも起きているんだな、と思ったジョンの前で、カーティスは懐からピルケースを取り出し、五、六粒の丸薬を口に放り込んだ。
「それは?」
「特注のミントタブレット。うん、効いてきた効いてきた」
違法薬物かよ。
瀟洒な煉瓦作りのバーに入ると、中は薄暗く、カウンター席と丸テーブルの立ち飲み席があった。テーブル同士の感覚は離れているし、フロアではジャズの楽隊が演奏しているため、話し声を盗み聞きされる可能性も低そうだ。
「スミス刑事、何か飲むかい?」
「俺は仕事中だから酒は飲めない」
「僕も酒入れるのはねえ……。イヴは?」
「結構です」
カーティスが爽やかに注文した。
「店主、水を三つ」
確保したテーブルに乱暴にピッチャーとグラスを置かれたのは言うまでもない。
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