第19話 リヒト・アイスヒルク

 アリアローゼが優しいと言うことは知っていたが、優しすぎるとまで形容していいのだろうか。――いや、いいのだろう。


 その証拠をマリーが見せる。


 彼女が連れて行ってくれた場所は、北の街にある教会であった。


 そこは大量の人々で溢れていた。まるで野戦病院である。


「……これは難民、ではないな」


 教会が隣国との戦争で発生した難民を一次収容することはよくある。しかし、ここ最近、大規模な戦争は起こっていないことを思い出す。


 教会の周りで毛布をかぶって寝ている人々、彼らは皆、病人であると気が付く。


 皆、やっとの思いで歩き、ふらついている。地面に寝そべったまま動けないもの、うめき声を上げ続けるものもいる。中にはすでに死んでおり。腐臭を放ち、蠅がたかっているものもいた。すでに死んだ赤ん坊に乳を与え続ける母もいた。


 悲惨で壮絶な光景であるが、彼らをよく観察するととあることに気が付く。


「……皆、皮膚が灰色だ。竜のような鱗もある。石鱗病か」


「さすがです。ご存じでしたか」


「夜中、隠れて城の書庫に入り浸っていたからな」


「ならば石鱗病の恐ろしさを知っていますね」


「ああ、皮膚がどんどん龍の鱗のようになり、やがて石のように固くなる。それが内臓や骨まで至ったとき、確実に死ぬ病気だ」


「さすがは博識でございますね」


「褒め言葉などどうでもいい。問題なのはなぜ、俺をここに――」


 言葉が途中で止まったのは、教会の炊き出しを見つけてしまったからだ。正確にはその炊き出しでパンとスープを配っている人物を見つけてしまったからだった。


「あれはお姫様!」


「しい! お静かに! 周囲に気が付かれます」


 マリーの強い制止に自分の愚かさに気が付いた俺は声を潜める。


 彼女にしか聞こえない声量で話し掛ける。


「……フードをかぶっているが、あれはまさしくお姫様」


「……そうです。アリアローゼ様はお忍びで炊き出しをしています」


「……まさかそのために王都からきたのか?」


「……そこまで愚かな方ではありません。アリアローゼ様は王都にある王立研究所から石鱗病の特効薬を盗み出してやってきたのです」


「……大胆なお姫様だな」


「そこがアリアローゼ様のいいところです」


「しかし、薬学研究所から薬を盗み出したのはどうしてだ?」


「どうしてといいますと?」


「そこまでする必要はないだろう。時間は掛かるかもしれないが、いずれ国王陛下から配給されるはずだ」


「たしかに石鱗病は厄介な伝染病。国も未然に感染拡大を防ごうとするはず。いえ、国法によってそう定められている。しかし、国が製造した石鱗病の特効薬が、〝誰か〟の手によって横流しをされていたら? それがここに届かないとしたら?」


「財務大臣バルムンクは吝嗇家にして強欲、さらに〝前〟薬学研究所の所長、というわけか」


「正解です。理解が早い」


「記憶力と簡単な推理力の複合だよ。――しかし、盗み出した理由は分かったが、わざわざ姫様がやらなくてもいいだろう? 炊き出しなんてさせて、感染したらどうする?」


「感染したらどうすると思います?」


「分からん」


 マリーはあっさりと言う。


「感染したら死ぬまでです。アリアローゼ様にとって座して民が死んでいくのを見るほうが辛いのです」


 なんと単純な。あるいは豪胆な、と思ったが、アリアローゼはマリーの言葉通りの行動を重ねていた。彼女は石鱗病に冒され、今際の際にある老人の手を取ったのだ。


 彼は震える手を彼女の髪に向ける。


 石鱗病に冒されたものは醜い。腐乱死体や幽鬼のようだと評すものもいる。それなのに彼女は僅かも厭がることなく、髪を触らせる。


 おそらく、アリアローゼに孫娘の姿を重ねているのだろう。この場に誰もいないと言うことは彼の家族はすでに〝死に絶えている〟のかもしれない。


 人生の最後の最後において、孫娘の幻想を見ながら死ぬことができた彼は幸福であろうか。それは彼自身にしか判断できないが、アリアローゼは聖女のようなたおやかな表情で老人を見送っていた。


 その姿はどこまでも神々しい。


「……俺は自分の中の聖母様を見つけたのかもしれない」


 そうつぶやいてしまう。


 聖教の聖書に記載される最初の女性、神を生んだ女性。この世でもっとも清らかな女性、聖母ルキア。もしかしたらアリアローゼは彼女の生まれ変わりなのかも知れない。


 うらぶれた教会で〝命〟と向き合う女性に感化された俺は、彼女の前に歩みでる。


 俺の姿を見つけたアリアローゼはにこやかに微笑むと、

「ごきげんよう、リヒト様」

 と言った。


 まるで後光が差しているような彼女の笑顔。


 それを守ることができたらどれだけの充足感に包まれることだろうか。


 無意味だったこの人生にどれだけの意味を持たせることができるだろうか。


 そう思った俺は彼女の前にひざまずくと、神剣を抜いた。


 それをアリアローゼに渡す。


 彼女はなにも言わなくても俺の意図を理解してくれたのだろう。


「――決心して頂いたようですね」


 流れるような動作で剣先を俺の肩に置く。


「我の名はアリアローゼ・フォン・ラトクルス。神に造られた人々の子孫、および、リレクシア人の王の娘にしてドルア人の可汗(ハン)の娘」


 アリアローゼは粛々と自分の称号を読み上げると、こう続ける。


「テシウス・エスターク伯爵の落とし子、リヒト・エスタークよ。汝、我に忠誠を捧げるか?」


「はい」


「いついかなるときも、陰日向なく、主を守り、主のために死ぬか?」


「はい」


「どのような困難にも立ち向かい、国民のために命を捧げるか?」


「はい」


 アリアローゼは厳粛な表情でうなずくと、最後にこう締めくくった。


「汝こそ、騎士の中の騎士。今日からエスタークの名は捨て、アイスヒルクの名を名乗るがいい」


「――アイスヒルク」


 この街の名前だ。慈愛と聖徳に満ちた美姫に与えられた詩的な名字。


 その名を口にすると、不思議と心が浄化されるような気がする。


 エスタークという名に劣等感を抱いていた俺、アイスヒルクという姓を心の中に刻むたびに、過去が洗い流されていく。


 あるいは俺はこの名を貰うためにこの世界に生まれ落ちたのかも知れない。


 それくらいアイスヒルクという名前はしっくりときた。


 忠誠の儀式は終わりを告げる。


 こうして俺は落とし子、リヒト・エスタークから、王女の騎士、リヒト・アイスヒルクとなった。

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