第35話 ウィシュフィ
幼いころから見知った少女が、自分にかけた言葉の内容に、アリアは身動きが取れなくなった。
今は主従の関係にあるとはいえアリアにとってカミラは、まさに親友そのものだった。おそらくカミラにとってもそうだろう。
そんな彼女の冷たい言葉にアリアは戸惑い、口をつぐんだ。
鎧に身を包んだ少女がなにも返答できず黙りこくっていると、カミラが明るい顔で提案する。
「じゃあ選ばせてあげる。もしも今日見たことを黙っているなら、あなただけは見逃してあげる。どう? 悪い提案じゃないでしょ。あなたさえ、うんと言えば私たちはまた日常に帰れるんだから」
その言葉にアリアの表情が硬くなる。しばらくの沈黙を守った後、アリアは静かに口を開いた。
「なぜラグノ殿にその言葉をかけてあげなかったのです」
いつも通りの口調で冷静に投げかけられたにみえたアリアの言葉。
しかしカミラは察していた。
「怒ってるの? だって仕方ないじゃない。秘密を知られた以上、生かしておくのは危険だったのだから」
「だとしても、なにも殺……すことは無いでしょう」
見つめ合う二人の少女の間に倒れる少年が、大量の血で床を赤く濡らす。
一目で致命傷とわかる深手を負った少年は、もはや微かに動くことすらなかった。
「しかたないよ。私だってやらずに済むならそうしたかった。少しは私の立場もわかって」
そこまで伝えたカミラがおもむろに一歩踏み出し、アリアとの距離を詰める。
それはアリアを説得するためか、それとも――。
とっさに身構えたアリアが、一歩後ずさる。
「どうするアリア。私と戦ってみる? そんなことしたって無駄なことくらいあなたにはわかるでしょう」
一歩また一歩と迫り来るカミラに、アリアは後退を続けるしかなかった。
「だったら私たち二人が今まで通り幸福に生きられる選択をしたほうが利口なんじゃない?」
「本当に今まで通りにいけばいいんですけどね」
アリアのその言葉にカミラは何も答えなかった。
為す術もないまま、アリアはじりじりと壁際へ追いつめられていく。
(たしかに私では、姫様に手も足も出ない。戦う道はない。ならば、なんとしてでもこの場から逃げ切るしかない。……しかし、はたして姫様がそれを許すだろうか)
思考を巡らせているうちに、背中がコツンと壁に触れる。
目の前のカミラは歩みを止めない。
(もう後がない。――やるしかない!)
壁際まで追いつめられたアリアが強く床を蹴り、出口へ向かって駆けだす。
アリアが壁際から脱するように横へ身を進めると、目の前にはすでにカミラが立ちふさがっていた。
(ば、馬鹿な!)
まるで瞬間移動でもしたかのように一瞬のうちに目の前に移動したカミラに驚き、アリアはぎょっとしながら立ち止まった。
アリアの視線が横に向けられる。先ほどまでカミラが立っていた場所には、すでに彼女の姿はない。
「まさか逃げられるとでも思ってたの? 返答がまだよ。さあどうするの?」
アリアの考えを見透かしたように、カミラが追い打ちを駆ける。
「くっ……」
出口をふさぐように立ちはだかるカミラを前にして、焦りを浮かべながら固まるアリア。すると、視線の端で何かが動いた。
先ほどまで床に倒れ微塵も動かなかった少年が、おもむろに立ち上がったのだ。
「ラ、ラグノ殿!」
立ち上がった少年は、腹から流れる自身の血をどこかうつろな表情で見つめながら、静かに佇んでいる。
(馬鹿な! 致命傷だったはず。動けるわけがない)
驚きに戸惑うカミラの前で、ラグノが自らの腹に手を当てる。
その手が赤黒い不気味な輝きを放ち、それと共に腹の傷がみるみるうちにふさがっていく。
勢いよく大量にこぼれだしていた血が瞬時に止まった。
(傷がふさがっている。回復魔法……か? ラグノに魔法が使えたって言うの? ……そんな素振りは見せなかったけど)
「あ……が……ぁ……」
傷が治った途端、なぜかラグノが急に苦しむようにうめき声をあげる。
その頭の後部で、銀色の髪が床に触れそうなまでに急速に伸びていく。
そして苦しそうに両手で顔を覆い隠した。
「うぅ……あ……あぁ……」
「ラ、ラグノ殿。どうしたのです!?」
二人の少女の前でラグノの体が変貌していく。その体は次第に一回り小柄になり、まるで少女のような外見へと変化していく。
顔を覆い隠していた手をラグノがどけると、そこには二人の見知らぬ女の姿があった。
(なに。なにが起こったの?)
驚きに戸惑うカミラの前で、謎の少女が歓喜の顔を浮かべる。
「お、おお……。体が……。私の体……」
突然現れた謎の少女は、自身の体を見下ろし満足そうな顔を浮かべると、カミラへ視線を移し、
「しかし危なかったな。まさかこいつを倒せるほどの者がいるとは。しかも、それがただの人間とは驚いた」
(なんなの、このとてつもない魔力は。それにこの姿……)
ラグノの変貌に困惑するカミラ。
謎の少女はまるで自身の体の調子を確認するかのように拳を握り込む。そして操る体の調子が存外悪くないと認識すると、赤黒く輝く瞳をカミラへ向けた。
「貴様強いな。名は?」
明らかにラグノとは違う少女の声。
「カミラ」
唐突に名を訪ねてきた謎の少女に淡々と答えるカミラ。
「カミラか。良い名だ。そのいでたち。高貴な身分にあるものではないのか?」
「私はこの国の王女だよ」
「ほう。カミラ王女というわけだな」
「あなた、名前は?」
「特にない」
淡々と答える少女へカミラは、
「じゃあウィシュフィって呼ぶね」
「それはどういう意味だ?」
「この国の言葉で正体不明って意味よ。あなたにピッタリでしょう?」
「好きに呼べばいい。――さて」
ウィシュフィの膨大な魔力が体表へ滲みだし、カミラは表面上平静を保っていたが、内心身構えた。
(なんてとてつもない魔力。いったい何者なの)
「戦いの途中だったな」
「なんですって?」
「当然、まだ続けるのだろう?」
不意にウィシュフィがカミラに飛び掛かり、拳を振り下ろす。
そのあまりの速さに意表を突かれながらも、カミラはとっさに側方へ飛び退き、直撃を回避した。
(――速い!)
石床に撃ち込まれたウィシュフィの拳が広範囲にわたって床を破壊する。
その威力で、砕けた床が不格好に浮かび上がり、フロアの床が崩壊する。
「やるな小娘!」
逃げ切ったカミラへ称賛を送ると共に、カミラへ向かってまるで野生動物のように獰猛な動きで飛び出すウィシュフィ。長い銀の髪が空中で大きくなびく。
(――なんて怪力! こんな攻撃まともに食らったらただじゃ済まない……)
飛び上がって距離を詰めてくる銀髪の少女から逃げるように、高速でフロア内を駆けるカミラ。
そして十分に距離を取ると、カミラが魔力を放出する。全身を完璧に覆いつくす黒い魔力が、カミラの白いドレスを包むように黒い衣へと変化していく。
「ほう。それをまとった途端、急激に魔力が増したな。先ほどまでとは比較にならん魔力を感じるぞ。それが貴様の力というわけか」
「まあね」
短く答えると、カミラの姿が消える。
超高速で移動すると銀髪の少女の顔面へ渾身の右ストレートを放つ。
「――な!」
カミラが放った渾身の一撃は、少女が顔の前で立てた手のひらで止まっていた。
「……信じられん。貴様本当に人間か? なぜ人にここまでの力が出せる」
軽々と受け止めながら、同時に、カミラの攻撃にひどく驚いている銀髪の少女。
(馬鹿なっ! 片手で……! ……なら)
宙に浮かんだ体勢のまま体を回転させたカミラが、今後は膝の一撃をウィシュフィに撃ち込む。
ウィシュフィはその攻撃に全く反応を見せない。
(入る!)
ゴッという鈍い音と共にカミラの膝が少女のあごに直撃する。
少女の顔が大きくのけ反り、頭部が後方へ大きく垂れる。長い銀髪の先端が床に触れた。
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